「あのさ、僕の恋人になってくれない?」
五条悟という人間は世間一般の常識で測れない。そして彼の被害者はいつだって伊地知さんだった。私はそれを遠巻きに眺めて「ああ可哀想に大変だなぁ」と心の中で合掌するのが常だった。つい三時間前も、伊地知さんが五条悟の使い走りのようなことをさせられているのを見て「いつもお疲れ様ですお気をつけて」と手を合わせたところだった。
それがまさか我が身に降りかかろうとは!
私がいるのは高専の給湯室。出口は一つ。そこに聳え立つ五条悟。まさに袋のネズミだ。どうやったらこの状況を打破できるだろう。取りあえず「話は聞いてますよ」という態度は示しておかなければ。
「えっと……カメラ回ってます?」
「失礼だな! ドッキリでこんなこと言うわけないでしょ、中学生じゃあるまいし」
小学生レベルの悪戯を仕掛ける人間に言われても説得力がない。でもここはお口チャック。
「す、すみません。まさか“あの”五条悟に恋人になってくれ、なんて言われるとは思ってなかったので」
「ま、それはそうか。で、どうなの? なるの? ならないの?」
「ごめんなさい無理です」
「はぁ? なんでよ。いいじゃん。減るもんじゃないし」
疑問形で聞いた癖に断られたら詰めてくる。世界よ、これが五条悟だ。
「減ります。私の寿命が減ります」
「君のその正直すぎるとこ、嫌いじゃないよ」
そう言って彼はアイマスクをずらしてウインクをした。嗚呼この状況、ファンの子と変わってあげたい。ばちこん、っていう音が聞こえるみたいなウインクを至近距離で浴びていいのは断じて私ではないはずだ。
「とにかく、私には無理です。他をあたってください」
「頼むよ。人助けだと思ってさ」
お願い、と小首を傾げて五条悟は胸の前で手を合わせた。
あの五条悟が私に助けを乞うている。日本で三人しかいない特級呪術師。五条家当主。数百年振りに六眼と無下限呪術を併せ持って生まれた男。そんなフィクションみたいな存在が私に助けを乞うている。運転が下手過ぎて補助監督にすらなれなかった事務員の私に。
むくむくと湧き上がる好奇心。こはいかに。かかるやうやはある。
「……どういうことですか、それ」
かかったな。
きっと五条悟の心の声はそんな感じ。悪戯っぽい笑みを浮かべて、私の腕を掴んだ。
やってしまった。好奇心は猫をも殺すとはまさにこのことだ。
◇ ◇ ◇
「お見合いを断るために、恋人の振りを……?」
「そういうこと」
私は今、都心のお洒落カフェにいる。高専では話せないから、と五条悟に連れ出されたのだ。さすがに無断で外出するわけにはいかないので、上司に声をかけたところ、
「五条さんから聞いてるよ。これから付き添いなんだって? 直帰で構わないよ。頑張って!」
と言われてしまった。私に声をかけた時点で根回し済みだったわけだ。恐るべし五条悟。
「期限は半年後に開かれる五条家の会合まで。そこで君を『結婚も視野に入れている恋人』として紹介する。付け焼刃だとバレるし、信憑性を高めるためにも君と付き合ってるって噂も流しておきたいから、恋人らしい思い出作りはさせてもらうよ。そのためのデートの費用はもちろん僕が出すし、何ならそれとは別に報酬を払っても構わない」
「でも、どう考えても時間が足りなくないですか? 任務と教師で死ぬほど忙しい五条悟と、ただの事務員。休みを合わせるだけで半年過ぎちゃいそうですけど」
「そこは大丈夫。君には半年間、僕の専属秘書をやってもらうことになってるから」
「専属秘書……」
「そ。僕とデートもする専属秘書」
何だその官能小説みたいな設定。そんなふざけた話がなんで通ってしまうんだ。どうなってんだよ私の職場……。
「それ、誰がどこまで知ってるんですか」
「んー、本当の理由を知ってるのは学長だけかな。表向きには『伊地知の業務負荷を軽減するために補佐を付ける』ってことになってる。だから期限が過ぎたあとも僕から仕事投げることにはなるけど、業務に見合うだけの昇給はさせるってさ」
なるほど。だから学長もゴーサインを出したのか。
現状、五条悟案件は伊地知さんが一手に引き受けてる。五条悟案件は不文律の塊みたいなものだし、人の都合もお構いなしで仕事をぶん投げる。それだけでも大変なのに、伊地知さんは普通の補助監督としての仕事もこなしているのだ。いつ倒れてもおかしくない。伊地知さんに万が一があった時のことを考えると、私が業務の一部を請け負うことも、そのために専属秘書として半年間仕事をするというのは理に適っている気がした。しかも昇給あり。心が揺らぐ。
温かい紅茶を飲みながら五条悟を見る。
何度見ても溜息が出るくらい美しい造形だ。神様が丹精込めて作り上げた芸術品と言っても過言ではない。お店に入る前はアイマスク姿だったのに、今はサングラスをかけている。サングラス姿は初めて見るけれど、美の権化だ。シミ一つない透き通るような肌。光を浴びて柔らかく光るホワイトブロンドの髪。手足はすらっと長いのに男性らしい逞しさも感じられる。そして一番目を惹くのはやっぱりサングラスから覗く瞳だろう。澄んだ湖みたいな綺麗な碧。こんなシチュエーションじゃなければ何時間でも見ていられる。
それに対して私はどうだ。年相応のトラブルを抱えた肌に、雨の日には爆発する癖っ毛の黒髪。古式ゆかしき瓶底メガネ。おまけに身長は平均以下で、くびれとは無縁の寸胴鍋だ。どう考えても五条悟とは釣り合わない。恋人らしく手を繋いで歩いているところを想像してみたけれど、残念ながら『捕まった宇宙人 一人バージョン』という言葉しか浮かんでこなかった。
「あの、聞いてもいいですか?」
「いいよ。ちなみに、僕のスリーサイズは――」
「スリーサイズは教えていただかなくて結構です」
なんでよ興味持ってよ、などとブーブー言ってる二十八歳男性、五条悟のビジュアルじゃなかったら大事故だ。五条悟のビジュアルでも正直厳しいものがある。
「で、聞きたいことって?」
「どうして私なんですか。全然接点なかったですし、良い人なら他にいくらでもいるじゃないですか」
「んー、良い理由と悪い理由、どっちから聞きたい?」
なにその洋ドラみたいな聞き方。
「じゃあ、悪い理由から」
「オーケー。僕が君を選んだのは、君が一般家庭出身で、かつ見た目が地味な子だったから」
曰く、お見合い攻撃をストップするには五条家だけでなく、五条家と姻戚関係になりたい他所の家にも諦めてもらわなければならない。けれど呪術師の家系のお嬢様方は名家のご子息に選ばれるために文字通り人生を懸けて女磨きをしているのだ。ちょっとやそっとのことじゃ諦めてはくれないだろう。
そこで五条悟は考えた。ならば美人は好みじゃないと思わせればいい、と。
旧態依然とした呪術界における婚姻とは「男が一方的に女を選ぶもの」である。そして同じスペックなら、より自分の好みに近い方――一般的には美人な方を選ぶ。そうやって美人遺伝子を次々と掛け合わせているので、名家のお嬢様ほど美人なのだ。
「なるほど。『五条悟はB専』だと思わせておけば、遺伝子レベルで美人揃いのお嬢様たちはさすがに諦めるはず、ということですね」
「表現がだいぶキツいけど、そういうこと」
自分がブスだと言われているみたいで若干腹は立つが、作戦としては悪くない。
こういう場合、結婚はスタートラインに過ぎず、相伝の術式を受け継ぐ子を作ることが最終目標となる。“そういう”行為をしなくても体外受精で子を作ること自体は可能だろうが他家に何と言われるか分かったものではない。かと言って自然妊娠を果たせば状況的に自分がブスだということになる。多大なる労力をつぎ込んで美貌に磨きをかけてきたお嬢様方にそれが耐えられるだろうか。きっと無理だ。
「一応言っておくけど、君のことを地味だとは言ったけど、ブスとは思ってないからね?」
「精一杯のフォロー、ありがとうございます」
「あー……、そういえばここのナポレオン・パイ、すっごく美味しいんだけど、どう? 注文する?」
「すみません。私、クリーム苦手で」
「そっかー」
二人の間に流れる何とも言えない沈黙。悪い理由、言う必要あったのかな。言わなくても良かったんじゃないかな。
「それで、良い方の理由なんだけど」
「いいですよ。無理して捻り出さなくても」
「僻まないで最後まで聞いてよ」
“B専偽装大作戦”を思いついてから五条悟は東京高専の関係者の中だけでなく、“窓”や関連企業などからも候補者をピックアップした。御三家と縁のない一般家庭出身の女子、同年代、パートナーなし。その中から地味顔で上層部が好まなさそうな顔の女子を六人選出したらしい。私は下世話な人間なので、地味顔グランプリのファイナリストは他にどんな人がいたのだろうかと少し気になった。
最終選考は五条悟と親しい人――家入さん、七海さん、伊地知さんによる性格審査だった。彼らのコメントを点数化して、良い推薦コメントが貰えれば何点、というやつだ。もちろん事情は伏せているので、三人は伊地知さんの補佐となる秘書を選ぶと思ってコメントをするわけだ。
「で、皆からコメントペーパー回収したらさ、全員君の欄に何も書いてないワケ」
どくり、と心臓が不規則に跳ねて、背筋が冷えた。
職場の人とは最低限のコミュニケーションしか取って来なかったし、業務と関係ないことを話したことはほぼない。だからコメントが無いのも当然だ。そもそも好きで地味顔グランプリにエントリーしたわけじゃない。というか地味顔グランプリ自体が失礼極まりない企画なのだから、そこでの評価がどうであれ私が気にする必要なんてミジンコほどもないのだ。
そう思うのに、悲しくなるのは何故だろう。
「……帰ります」
「待って待って。まだ話終わってないから」
席を立とうとする私を五条悟は慌てて引き留めた。それなりに大きなテーブルを挟んで座っているはずなのに反対側の私に手が届く。ううむ。手足が長い。
「これ以上聞く必要あります?」
「僕が君を選んだ“良い”理由だよ? 聞いてってよ」
五条悟は私を座席の奥に押し込む。それだけでは飽き足らず、彼自身が私の隣に座って、出口を塞いでしまった。私は諦めてソファに座り直した。
判決を言い渡される前の被告人ってきっとこんな気分だ。冷や汗が止まらないし、心臓がバクバクする。
「で、全員空欄ってのがなんか気になった。三人とも良い評価も悪い評価もきっちり書くタイプの人間だし、判断できない場合もそう書く」
「コメントが無いこと自体が、ある種の意思表示になっている、と」
「その通り。一人くらいだったら書き忘れだろうけど、全員だからね。で、めんどくさいから伊地知に聞いちゃった」
語尾に星でもついてそうな感じで話してるけど、脅して吐かせたが正確な表現なんだろう。こっわ。
「それで伊地知、なんて言ったと思う? 『彼女は事務局に無くてはならない人なので、五条さんの秘書には推薦できません』だって」
「え?」
「君が僕に使い潰されたら困るけど、不当に低い評価を付けて今後のキャリアに悪影響を及ぼしても申し訳ない。だから評価なしにしたんだとさ」
「……自分で言うのもアレですけど、私が評価されてるみたいに聞こえますが合ってますか?」
「そうだけど?」
「今日イチの衝撃です」
そんな風に思われてたなんて。見てる人は見てるなんて方便だと思ってた。嬉しいと同時に、なんだか伊地知さんに申し訳ない気持ちが湧きあがる。今度お高い栄養ドリンク差し入れしとこう。
「でさー、伊地知が僕に反抗して庇うなんてどんな子だろ、って興味が湧いたんだよね。そりゃあ恋人ごっこは半年で終わるけど、秘書としては今後も関わってくわけだからどうせなら良い子がいいじゃない? だから君にしたんだよ。ね、良い理由だったでしょ?」
またもや、ばちこん、とウインクが飛んできた。思わず体を傾けて避けてしまう。意味ないって分かってるけど。
「皆さんに評価してもらえていたことが分かった、という意味では確かに良い理由でした」
「含みのある言い方だなぁ」
「そりゃあ、知らない間に容姿だとか性格だとかをジャッジされたんですよ。どれだけ良いこと言われても素直には喜べないです」
「あー、それはそうだね。勝手にジャッジしたのは謝る。ごめん」
ちょっと意外。唯我独尊で過ちを認められないタイプだと思ってた。もしかして思ってたよりも悪い人ではないのか?
「今、僕が謝ってるの見て、意外だって思ったでしょ」
「……いえ、そんなこと、ないです」
「はいダウトー。そのビミョーな間は絶対に嘘だね。君、誤魔化すの下手すぎ」
せっかくの綺麗なお顔を、くしゃくしゃにして五条悟は笑っている。何だか懐かしいテンション。小学生の頃、クラスの男子がこんな感じのテンションで消しゴムバトルしてた記憶が蘇ってくる。家入さんが彼を“二十八歳児”と呼んでいる理由がちょっとだけ分かった気がした。
「……ちなみに昇給ってどのくらいだか分かります?」
「ちょっと待って。確かメールに書いてあったはず……。ああ、これだ」
そう言って五条悟はスマホの画面を見せてくれた。メールに書かれていたのはびっくりするような金額。二階級昇進相当じゃない?
「やらせていただきます」
「え?」
「偽彼女の役、引き受けます」
たとえ相手が自分より下の立場でも、自分の過ちを認めて謝れる人は良い人だ。たぶん。分かんないけど。だったら偶にはこういうことをしてもいいのかも。これも何かのご縁かもしれないし。それにお金は大事だ。幸せをお金で買えるとは思わないけれど、お金があれば避けられる不幸は山ほどある。
「そう来なくっちゃ!」
ずい、と彼に距離を詰められた。思わず同じだけ離れる。
「なんで距離取るのさ」
再び、ずい、と近づく五条悟。膝がくっつきそうだ。
「……何となく、です」
同じだけ離れて、今度は鞄と上着で簡易バリケードを設置した。
「これから恋人ごっこするんだよ? この距離感に慣れてくれなきゃ困るんだけど」
簡易バリケードは取り払われ、さらに距離を詰められる。壁があってこれ以上は離れられない。
「り、理屈は分かりますけど気持ちが追い付かないというか私からすると五条悟という存在は芸能人みたいな感覚なのでそういう人にいきなりパーソナルスペースに踏み込まれるのは抵抗がありますし半年間の猶予があるのでもう少し時間をかけても良いのではないかと思う次第でありまして……」
「わー、ノンブレス」
五条悟は感心したような呆れたような、何とも言えない表情で私を見ながら、やっと離れてくれた。さっきから嫌な汗を掻きっぱなしだ。
「無理はしなくていいよ。確かに時間に余裕はあるし、ちょっとずつ慣れていこう!」
「はい、先生」
いや違う。五条悟は私の先生じゃない。ああもう、恥ずかしい。まさかこの年齢で“先生をお母さんって呼んじゃう現象”をやるとは思わなかった。仕方ない。先生っぽかったし。まぁ先生なんだけど。
「距離感は仕方ないとして、今日のところは呼び方だけ変えてみよっか」
「へ?」
「だって普通恋人をフルネームで呼ばないでしょ?」
「まぁ、確かに」
「だから、僕のことは悟って呼んで」
「無理です」
「こういう時だけ即答しない。何事も慣れだから。はい、言ってみて」
「さ……さと、さと……さ、とる……」
「片言だなぁ。はい、もう一回」
やっぱり引き受けなきゃ良かったかもしれない。
早くも後悔し始めている私とは対照的に、五条悟はなんだかとても楽しそうだった。
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