五条悟は偽彼女と夜空で空中散歩をしたようです

 今日は彼女のたっての希望で居酒屋に来ている。仕事終わりの夜。明日は彼女は休みで僕も仕事は午後から。しかも座席は横並びのカップルシート。値段なりの騒がしさだけど半個室だし? 夜景も見えるし? 僕としてはいろいろ期待してたんだけど、今のところロマンチックなイベントは起きていない。
「それで結局その後輩のせいで書類は全部作り直しになったんですよ。もう虚無です。虚無リンピック金メダルクラスです。本当に信じられない」
 僕は酔った彼女の愚痴をひたすら聞いていた。酔ってるお陰でいろんなガードが緩くなっているらしく、彼女の口調が少し砕けたものになってるし愉快な悪口が聞けたから別に良いんだけど。
「間違いは誰にでもあることです。仕方ない。でもこれ、今年入ってから三回目なんですよ。いい加減にしろよって話じゃないですかぁ」
「大変だったね」
「そう! 大変なんですよ、これでも! 送迎が無いから楽だろうって言われるんですけど、その分遊んでるわけじゃないんです。仕事してるんです。経理申請だとか窓口対応だとか、そういう誰でもできるような仕事を全部私がやってるんです。他の補助監督が送迎先でコンビニのチキン買い食いして運転席で寝ていられるのも、私が市役所からの問い合わせに答えたり、術師の皆さんの質問に答えたりしてるからなんです」
 分かってんのか茂部田ァ、とか呻きながら彼女は机に突っ伏した。彼女の口から出た名前には覚えがある。確かにアイツが担当すると帰り道の車の中が妙にスパイシーな香りがすると思ってたけど、そういう事だったのか。
「私の話、ちゃんと聞いてます?」
「聞いてるよ。君がいつも仕事頑張ってるって話でしょ? 頑張りが認められないって悔しいよね。デザート食べる?」
「食べます」
 彼女はゾンビみたいにむくりと起き上がり、メニューを広げてデザートを物色した。
「んー、迷う……」
「何と迷ってんの?」
「わらび餅と苺パフェです。今の気分は苺パフェだけど、お腹の容量的にはわらび餅なんですよね」
「じゃあ半分こしよ。僕もパフェ食べたかったし」
 これでもかと目を見開いて呆然してる彼女を無視してサクッとスプーン二本で注文する。でも別に彼女は怒るでもなく嫌がるでもなく、「すみません」とか言いながら縮こまっているだけだった。嫌ではないらしい。
「君、お酒と一緒にパフェ食べられるタイプなんだね」
「両刀使いなんです。家入さんには微妙な顔されちゃいましたけど」
「硝子はゴリゴリの辛党だからね」
 いつだったか塩を肴に日本酒飲んでたのを見かけたことがある。ちょうど繁忙期で硝子もいろいろ限界だったとは聞いてたけど、さすがに引いた。
「ハイボールのお供に柿の種チョコ食べてるって言ったらすごい顔されました」
「柿の種チョコ自体が微妙な立ち位置じゃない? 何でわざわざピリ辛の柿の種にチョコかけちゃったのか分かんないんだよなぁ」
「甘辛なのが良いんですよ。ぜんざいに山椒、あんぱんに桜の塩漬けと一緒です」
 何故か彼女は得意げな顔だ。ずっとこの返しを温めてたんだろうか。だとしたら可愛すぎる。

「そういえば病院に来てくれたときって五条さんのところに事務局から連絡が行ったんですか?」
「違うよ。どうして?」
「伊地知さんから、高専に連絡してからすぐに五条さんが飛んできたって聞きました。真っ先に事務局から五条さんに応援要請が行ったんだとしたら、申し訳なかったなって思いまして」
 申し訳ない。
 その言葉が浮かれた気持ちに水を差す。
「せっかくの貴重なオフだったのに私のせいで残業させて迷惑かけちゃいましたし、余計な心配もかけちゃいましたし……」
 彼女の口調は、僕なんかよりもずっとカラッとしてるみたいに聞こえる。なんなら「本当に申し訳ないって思ってんのか」って聞き返したくなるくらい。でも窓ガラスに映り込んでる顔は沈んでいるように見えた。
「その、五条さんに『生きてて良かった』って言われるまでは本当に死ぬところだったなんて思ってなかったんです。運良く生きて帰ってこれたことに全く気付かないで、偉そうに記憶の改ざんとか言っちゃって。そういう自分が恥ずかしいですし、自己満足に五条さんを付き合わせちゃったことも情けない」
 そう言って彼女は小さく切ったつくねを口の中に放り込み、レモンサワーで流し込んだ。
「それに、さっきの愚痴とは矛盾してますけど、私の仕事って“楽”なんだなって痛感したんです。ただの事務作業だから誰でもできるし、何より命の危険がない」

「失礼しまーす。こちら、苺パフェになります」
 タイミングが良いのか悪いのか。店員が苺パフェを持ってきた。いや、どんよりした空気が少し明るくなったからタイミングは良い。むしろベストタイミングだ。
「君ってさ、自分に厳しいよね」
 僕はバニラソフトの山頂をスプーンで削って口に運ぶ。
「そんなに卑屈にならなくてもいいんじゃない? 被害者の子どもの怪我の状態を確認して呪符で保護して、記憶の書き換えでトラウマを予防する。君にとって、頭に超が付くほどの緊急事態にそれだけできれば十分でしょ」
「そうですかね」
 彼女はあまり腑に落ちてないらしく、チベットスナギツネ顔でバニラソフトの隣に鎮座していた苺を食べていた。口の端にはクリームが付いている。……定番だ。定番過ぎて逆に地でやってるとしか思えない。指摘したいけど、どう考えてもこのタイミングじゃないのはさすがに分かる。ああ、酔っ払いって恐ろしい。
「そうだよ。それに仕事のことだって、君が事務局の秘書みたいなことしてるから他の皆も気持ちに余裕ができる。その気持ちの余裕が補助監督の退職を防いで僕らの任務が安全にこなせるようになり、呪霊や呪詛師の被害が減って人知れず世界は滅亡の危機から脱し、地球のどこかでヒーローがヒロインとキスをしてハッピーエンドを迎えるわけだ」
「何なんですか、その桶屋が儲かる理論」
「考えすぎも意味ないってこと。君の場合はもっと適当でいいんだよ」
 僕がウエハースを齧ると小さな悲鳴が聞こえた。斜め下を見ると彼女がこの世の終わりみたいな顔をしている。チョコでコーティングされてるわけでもない、ごく普通のウエハース。食べたかったものを誰かに先取りされたショックは計り知れないものがあるけれど、それにしたってそんな顔するか?
「食べたかった?」
「いや、大丈夫です。さっき大きな苺もらいましたから大丈夫です。食べちゃってください」
「本音は?」
「ウエハース食べたかった」
「じゃあ食べる? 四分の一しか残ってないけど」
「いや、食べかけはちょっとアレなので遠慮しておきます」
 彼女はホイップクリームを掬い取って、いちごゼリーの層を開拓し始めた。

「五条さんはどうして教師になったんですか?」
「あれ、言わなかったっけ」
「聞いてないです」
「学生時代、僕の親友が呪詛師になっちゃったんだよ」
 どうやって話そうか。当時の僕らを知ってる人間や呪術師の家系の人間だったら、おおよその事の顛末は知っているから傑のことは話題にしない。何も知らない相手に対して説明するのは初めてだから、どこから話せばいいのか分からなかった。
「クソ真面目な奴でさ、いつも『呪術師は非呪術師を守るために力を使うべきだ』って言ってた。でも……、いろいろあって思い詰めちゃってね。それである日突然高専を飛び出して呪詛師になった。僕はそいつのことを親友だと思ってたんだけど、そいつの変化にも気付けなかったし説得もできなかった」
 傑の出奔は僕の価値観を根本からひっくり返した。どんな相手でも力で捩じ伏せてしまえばいいと思ってたけど、それでは人の心に入ったヒビは直せない。だから僕は教師になった。強くて信頼できる仲間を増やして呪術界を根本から変えるため。そして苦しんでる学生に寄り添って、同じ轍を踏ませないため。
「その、五条さんのお友達って今は……」
「さぁね。アイツのことだからどこかで生きてるとは思うけど」
「知らなかったとはいえ、こんなこと聞いてしまってすみません」
「実はその親友の話、人に話したことないんだ。誰も聞きたがらないし、僕も話したくなかった」
「ならどうして私には話してくれたんですか?」
「時間薬ってやつかな。それに君には話してもいいと思えた」
「……信頼してもらえてる、って思ってもいいですか?」
「もちろん」
 彼女は蚊の鳴くような声で「そうですか」とだけ言っていちごゼリーを食べた。
 耳がゼリーと同じ色に染まってたけど、アルコールの仕業ってだけじゃないと思いたい。

◇ ◇ ◇

「ごちそうさまでしたぁ」
 店を出ると涼しい風が僕らの頬を優しく撫ぜた。季節が進んで昼間は暑くなってきたけど、日が落ちれば気温も下がる。場の空気に中てられて火照った体には冷たい夜風が心地よかった。
 彼女はというと、パフェを肴にレモンサワーを飲んですっかり出来上がっている。笑い上戸らしく、本当に箸が転がっても笑っていたし、階段に躓いても笑っていた。
「大丈夫?」
「だいじょーぶです! ちょー元気! 二十四時間働けます!」
「君、そのCMの世代じゃないでしょ」
 彼女はへらへらと笑いながら、真っ直ぐ車止めのポールに向かって歩いていく。間一髪。僕が二の腕を掴んで激突は免れた。
「危ないなぉ」
「あれ、全然気付かなかった。ありがとうございます」
「今日はタクシーで帰ろう」
「大丈夫です。ちゃあんと帰れます」
「酔っ払いほど大丈夫って言うんだよ」
「んー……」
 大通りでタクシーを捕まえて彼女を座席に押し込んで僕も乗り込む。目的地を告げると、タクシーはゆっくりと動き出した。

 心地良い振動に彼女の瞼が下がってくる。こてん。彼女の頭が僕の腕にぶつかった。いつだかのプラネタリウムの思い出が脳裏に浮かんだ。これだけ酔っていれば気付かれないだろう。僕はまたあの時みたいにそっと彼女の肩を抱く。アルコールで血行が良くなってて、この前よりも温かい。
「ん……」
 もぞ、と彼女が身じろぐ。くっついていた瞼がゆっくり開き、彼女の頭が僕の体から離れてしまった。まだ半分は夢の中の彼女を、車の窓から入ってくるオレンジ色の街灯の光が照らし出す。不思議と彼女がとても色っぽく見えて、心臓が激しく胸を叩く。
「すみません。一瞬寝ちゃいました」
「いいよ。着いたら起こすから」
「でもせっかく五条さんと一緒なのに……」
 彼女は動物のように僕の胸に擦り寄って、再び夢の中へと旅立ってしまった。

 せっかく一緒なのに。
 僕は基本的に酔っ払いの言葉は真に受けないようにしている。頭がまともに働いてない状態だから適切な言葉選びができているとは思えないし、思いつきで話してることも多い。そもそも、酔ってる間のことを忘れる奴もいる。だから彼女のあの言葉も真正面から受け止めるのはナンセンスだ。それに彼女の性格を考えたら聞かなかったことにしてあげた方が親切ってもんだろう。
 それでも。
 それでも心が踊る。彼女も、僕と一緒にいる時間が楽しいと感じてくれてるってことだから。しかも自分から僕の胸に体を寄せてもう一度寝たんだ。それってつまりは……、そういうことだ。たぶん。そう思いたい。
 でも、もし彼女が今日のことを覚えてなかったら?
 僕の腕の中で寝てるのも、たまたま丁度いいところに枕代わりになるものがあったからだとしたら? 僕は彼女が酔ったらどうなるのかを知らない。十分にあり得ることだ。そもそも僕が失礼極まりない理由で彼女に“ごっこ遊び”をお願いしてるだけのだ。それなのに僕が本気になるなんて。
 思い切って流されてみようか。
 今なら全部アルコールのせいにできる。彼女を傷付けない程度に、この夢を楽しんでもいいんじゃないか? どっちにしても実家で話すエピソードは必要なんだから、ちょっとくらいイイ思いをしたってよくないか。
「うぅん」
 ほら。僕の考えが伝わったのか、彼女も目を覚ましたみたいだし。
「すみません。ここで停めてください」
「いいんですか?」
 ドライバーが聞き返すのも無理はない。停めた場所はまだ高専最寄り駅の近く。彼女の家はまだ少し先だ。
「いいんです。ほら、降りるよ」
 支払いを済ませ、まだ少し寝惚けてる彼女を追い立ててタクシーを降りた。

 雲一つない夜空だった。都心よりも商業施設が少ないせいか、星が綺麗に見える気がする。数年前に流行った曲みたいに、あれが何とかって星の名前が挙げられたら良かったのに。もう少しちゃんと理科の授業を聞いておけば良かったかな。
 彼女はぐっと伸びをして辺りを見回す。思ってた景色とは違ったからか、彼女は怪訝そうな顔をした。
「あれ、まだ駅?」
「そ。なんかさ、ラ・ラ・ラごっこしたくなっちゃった」
「街灯の側でタップダンスでもするんですか?」
「それも捨てがたいけど、今日はこの前のプラネタリウムの続き」
「へ?」
 素っ頓狂な声を上げる彼女の手をしっかりと掴み、僕たちは紫紺の夜空へ飛び立った。町の灯りがどんどん遠ざかっていって、小さな丸い光の粒になる。
「すごーい! ほんとに飛んでる!」
「ふふっ。このまま君の家の方まで移動しようか。しっかり掴まっててね」
 夜空をゆっくりと、滑るように移動する。あの映画では、主人公二人はプラネタリウムに投影された星空でワルツを踊ってたっけ。あの映画観た時は演出がロマンチック過ぎるって思ってた。でも実際こうして彼女と二人で空を飛ぶのは最高の気分だ。
 彼女は、子どもが飛行機ごっこをするみたいに腕を伸ばし、歌を口ずさんでいた。曲は僕も良く知ってる曲。僕も一緒に歌うと彼女は嬉しそうに笑った。掛け合いをしたりハモってみたり。PVで出てくるダンスを真似してみたり。夜の闇の中では僕らは子どもみたいに自由でいられた。

 計算したわけではないけれど、一曲歌い終わったタイミングで彼女のアパートに着いた。楽しい時間はいつだってあっという間に過ぎ去っていく。
「今日はありがとうございました。リフレッシュできましたし、楽しかった」
「それは何より」
「そしたら……、そろそろ降りなきゃ、ですね」
 そう言った彼女が少し寂しそうに見えるのは、僕が自分に都合よく解釈してるからなのか。勘違いだったら恥ずかしい。でも今なら……。
「あのさ、その前にお願いがあるんだけど」
「なんですか?」
「ハグしてもいい?」
 彼女は答える代わりに、僕の背中に腕を回してぴったりと体を寄せた。僕も空いた手で彼女の体をしっかりと抱きしめる。すっぽりと僕の腕の中に納まってしまう彼女の体は、どこもかしこも柔らかくて心地良い。
「どきどきしてます?」
「……してる。君は?」
「私も」
 なんだ。彼女も同じなのか。
 どちらともなく少しだけ体を離して見つめ合う。地上だったらお互いに首を痛めていただろうけど、空中ならそんなことを気にする必要はない。風に吹かれて、彼女の綺麗な髪が乱れた。手櫛で軽く整えてあげると、彼女は気持ちよさそうに目を瞑った。
 彼女は僕の肩を少しだけ下に押した。ふわりと彼女の体が浮いて、かちりと目線が嚙み合った。彼女の細い指が僕の髪に触れる。たったそれだけのことで、堪らなく心地よくてふわふわとした気分になった。思わず彼女のおでこに僕のおでこを合わせる。
 ふに、と柔らかいものが僕の唇に触れた。僕もその柔らかいものに唇を寄せ返す。そうするとまた向こうから触れてくる。今度は僕の上唇をそっと挟み込んだ。

 “もし恋が盲目なら、夜こそふさわしい”
 これは何の言葉だったか。あまり良い文脈じゃなかったような気がする。でも確かに恋には夜こそふさわしい。僕らを見ているのは月と星だけだ。

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