夜明けと共に目が覚めてしまった。
睡眠時間が短くても動けるタイプではあるけれど、さすがに体が重く感じる。気持ちが乱れて神経が昂っているせいかもしれない。傑が出奔したとき以来だ。こういうときこそ冷静に。落ち着いていつも通りのことをしよう。僕はいつものようにシャワーを浴びて、身だしなみを整える。朝食を取りながらメッセージをチェックすると秘書から出勤が午後になりそうだと連絡が入っていた。市役所に立ち寄る予定とは聞いていたが、かなり混み合っているらしい。僕も午前中は授業と任務の付き添いがあるから、かえって都合が良い。僕は秘書に、出勤したら聞きたいことがあるから事務局で待っててほしいとメッセージを送って、高専へ向かった。
今朝の高専は濃い霧に包まれていた。肌の上にぺったりと膜が張られているような感覚がする。そういえば今朝の天気予報で“朝の霧は晴れ”、と言っていたっけ。なんでも高気圧に覆われていると夜の間に地表付近の空気が冷やされ、大気中の水蒸気が水滴になって霧が発生するのだそうだ。日が昇って太陽が出てくると霧は無くなり、晴れるらしい。そう思うと、この霧の不快感も我慢できるような気がした。
僕はいつも通り授業をして、学生たちの任務の付き添いをする。手こずったみたいで予定よりも少し遅れたが、それでもここまでは何の問題もなかった。いつも通りで予定通りの一日だった。
「彼女なら外出してますよ」
それなのに秘書は事務局に居なかった。
「市役所の立ち寄りってそんなに時間かかんの?」
「い、いえ……その……市役所の用事はもう終わってて……」
「は?」
「す、すみません! それがですね、あの……」
相手の補助監督は冷や汗を掻きながら、もごもごと謝罪を繰り返すばかりだった。
「あのさ、僕も忙しいんだ。『すみません』とかそういうの要らないから、さっさと秘書の居場所だけ教えてくれないかな」
「五条、やめな。怯えてるだろ」
イラつく僕を制したのは硝子だった。僕には一瞥もくれずに、目の前の補助監督に書類を渡して何やら事務的なやりとりを始めた。
「硝子、僕の秘書がどこに行ったか知らない?」
「ああ、彼女には提携病院の定例会議に出てもらってる。長くなるようだったら直帰しても構わないって伝えてあるから、こっちには戻って来ないかもな」
プチ、と頭の中で何かが切れる音がした。
「僕の秘書に僕の許可なく仕事振るの止めてくれないかな。困るんだよ」
「悪いな、お前の“下働き”を勝手に使って。急に入った会議だったし、彼女が参加したほうが話が早そうだったから代理で行ってもらったんだ」
「……当て擦りかよ」
「そう感じるのは疚しいところがあるからじゃないのか?」
硝子は僕らの間でオロオロする補助監督に巻き込んだことを謝って、医務室へ戻ろうとする。その態度がまた僕を苛立たせた。腹の中でぐらぐらと煮え滾る黒い感情になんとか蓋をして、僕は硝子を追いかける。
「硝子、秘書のことでちょっと話がある」
「そうか。私はその件について五条と話したいことは無いな」
「秘書がヤバいこと、上層部がらみの厄介ごとに巻き込まれてる気がするんだよ」
硝子の足が止まる。これは硝子にとってのキラーワードだ。別に嘘を吐いてるわけじゃないし、これくらいは許容範囲だろう。
「……医務室の掃除を手伝え。そしたら言い訳くらい聞いてやるよ」
「僕に任せて。ピカピカにしてやるから」
やっぱり持つべきものは話の分かる同期だ。
僕は医務室の床を丁寧にモップ掛けをしながら、昨日の出来事を全て硝子に打ち明けた。よく分からない違和感。頭の中身がざらざらと引っかかれるような不快感。そして突拍子もないようなXの存在……。
「つまり、あの子とお前の許嫁がXとやらに脅されて五条の記憶からXの存在を消した。その副産物で人格が変わって周りから白い眼で見られてる、と」
「いや、むしろそれが狙いなんだ。僕の信用を失わせて孤立させることで呪術界における僕の発言力を削ぎ、改革を阻止する。そして僕が好き勝手に動けないような状況を作り出したいんだろ」
「で、その出来の悪い陰謀論を私に信じろって言いたいのか?」
「あの頭の中を掻き回される感覚がなかったら僕だってこんな話、本気にしないさ」
硝子はじっと僕の顔を見つめた。呆れ半分、哀れみ半分、といったところか。
「なんであの子にこだわる? まずは五条の“大好きな”許嫁に話を聞けばいいだろ。もし本当に上層部絡みなら五条の許嫁の方が話は早いと思うけど」
「それは……」
「なぁ、その許嫁は本当に信用できるのか?」
「――ッ!」
頭に血がのぼり、顔が熱くなる。そんな僕の様子など気にも留めずに、硝子は語り続けた。
「五条家と姻戚関係にあるってことは体制派なんだろ。そもそもXなんて存在しなくて、全部その許嫁があの子にやらせたんじゃないの? そう考えた方が自然な気がするけどな」
「……彼女はそんな子じゃない」
そう。彼女は良い子なんだ。気配りができて、明るくて、料理も上手。少し甘えん坊なところもあるけど、それも可愛らしい。
「ならどうして許嫁に相談しないんだ? 結婚するんだろ。そんな大事なことこそ、未来の家族に相談すべきなんじゃないのか?」
僕は何も言い返せなかった。
彼女のことは“大好きだ”。二人で支え合って生きていけたらどんなに幸せだろう、と思う。“彼女が僕を害するはずがない”。それは厳然たる“事実”として僕の中に存在していたし、“僕らの長い付き合いの中で築き上げてきた信頼”に基づいている。
でも術師としての僕は彼女を疑ってる。彼女だって術師として場数を踏んできた。もし本当にマズイ状況なら何らかの形で僕に助けを求めるだろう。たとえ本人が拒んだとしてもボディーガードがその状況を放置するわけがない。
「はぁ。嫌になるよ。自分の信頼してる人間を疑わなくちゃいけないなんて」
「自業自得だろ」
「傷心の同期に対して随分冷たいな」
硝子は再び呆れたような顔をして大袈裟に溜息を吐いてみせた。
「記憶を書き換えられたことには同情する。でもな、これまでの五条の言動で、どうしてそんなことになったのかは何となく察しがつくんだよ。五条がきちんと仁義を切って、言うべきことをちゃんと言わないからこういうことになるんだ」
「ショーコ先生のありがたーいお言葉、肝に銘じとくよ」
「じゃあ、そこの段ボールも捨ててきてくれ。あと倉庫に私が勤める前の症例報告書が入った段ボールが置いてあるから持ってきてくれるか? 二箱あるけど日付の古い方。日付の新しい方は倉庫の右側、手前から三番目の棚の下から二段目に仕舞っといてくれ」
「随分こき使ってくれるね」
「相談料。安いもんだろ。ああ、こっちに持ってきた伝票は後でスキャンしてもらうから事務局からポータブルスキャナー借りてきて」
「へーへー」
硝子は時々こうして僕に軽作業を頼むことがある。そういうときはたいていの場合、僕が冷静になれてないときだ。一人で黙々と作業することがちょっとした瞑想の時間になって気持ちが落ち着いてくる。本人は否定するだろうけど、硝子なりのやり方で僕を助けてくれているんだと思ってる。
僕は黙って薬品やら包帯やらが入っていた段ボールを束ねて、医務室を出ようとした。
「ただいま戻りました。家入さん、報告書なん、です……けど……」
背後から聞きなれた声。秘書が医務室に戻ってきたのだ。
秘書は僕の姿を認めると、動かなくなってしまった。その表情からは僕に対するネガティブな感情しか読み取れない。僕から目を逸らさずに、手に持っていた書類を入口近くの棚に置いて走り去ってしまった。
「ちょっと!」
すぐさま追いかけようとする僕を、硝子が段ボールごと押し返す。
「頼んだことはやってくれるよな? 五条ならあの子の居場所くらい、ちょちょーっと見回せば分かるんだから」
小面のような顔をした硝子を押しのけることはできなかった。僕は秘書の足音が遠ざかっていくのを段ボールを抱えて聞いていた。
◇ ◇ ◇
硝子に頼まれた作業を終えて、僕は彼女の呪力を辿る。訓練を受けているわけでもない彼女の呪力を辿るのはどうってことない。硝子の言う通り、ちょちょーっと見回せばいいだけだ。
自分が知りたがっていたくせに、いざ本当のことが分かるとなるとどうにも気が進まなかった。今の自分が拠り所にしているものが揺らいでいる。それはどんな呪霊を相手にするよりも恐ろしかった。それでも逃げるわけにはいかない。硝子の言葉を信じるなら、この状況を招いたのは僕のせいなのだ。自分で蒔いた種は自分で収穫しなくては。
彼女はどうやら今は使われていない資料室に向かったみたいだった。あそこは静かだし、人も来ない。僕も“許婚と二人きりになりたいときは”資料室の休憩エリアを使っていた。資料室に続く道の途中には見事な花壇がある。誰が手入れしているのかは分からないが随分と丁寧に世話をしているみたいで、季節ごとに色とりどりの花を咲かせていた。それが“彼女のお気に入り”だった。ここへは何度も“彼女と来ていて”すっかり見慣れているはずの景色なのに、どういうわけだか初めて来た場所のように感じられる。僕は、彼女の呪力の痕跡を一つずつ確かめるように、ゆっくりと足を進めた。ちょうど季節の変わり目だからなのだろうか。花壇は緑一色だった。でもよく見ると先端が淡く色づいた茎がいくつもある。きっともう少し季節が進めば一気に開くのだろう。
牛歩戦術を使っても、花壇まで辿り着くと休憩スペースまではすぐだった。僕は目の前にある扉をゆっくりと押し開けた。
中を見回したが秘書の姿は見当たらない。呪力の放出を抑えることを知らない秘書を探し出すのは簡単だ。どうやら一番奥の衝立付の座席の影に隠れているようだった。
「ねぇ、出てきてくれないかな。一番奥の衝立の後ろにいるんだろ?」
秘書が動揺したのか、呪力が揺らぐ。
「多分、君が僕の記憶を書き換えたんだよな。それ自体は別にいい。君の術式の特性上、上司の許可がないと使えないんだからきっと切羽詰まった事態が起きてたんだろ」
僕が一歩足を踏み出す度に、彼女の呪力も移動していった。
「僕は君が『そうせざるを得なかった』理由を知りたい。だから君を追いかけてここに来たんだ」
もう一歩。彼女の呪力もちょうど歩幅分くらい移動する。
「君からすると話すことなんて何もないかもしれないし、僕とは話したくないかもしれない。硝子の話を聞いた限りだと、僕が君を相当に傷つけてしまったみたいだから。それでも―」
「うわっ!」
秘書の悲鳴が聞こえたかと思うと、どさり、と鈍い音を立てて近くの植木鉢が倒れた。どうやら鉢の存在まで気が回らなかったらしく、秘書が激突したらしい。相変わらずそそっかしい。僕は植木鉢の方へ駆け寄った。秘書はどういうわけだか鉢を抱えて床に転がっていた。何をどうするとそうなるのか。こういうタイプの子は高専生にもいないから不思議でしょうがない。
「大丈夫?」
「え、ええ。まぁ」
僕は彼女が大事そうに抱えていた鉢を受け取り、彼女を抱き起した。
「う、わ」
そそっかしい彼女は、上手く立ち上がれずに僕の腕の中に倒れこんだ。
ふわり、と懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「あ……」
頭の中に存在していた記憶たちがどんどんと崩れていく。もう隣にどんな顔をした女の子が立っていたのかすら分からない。分かるのは抱きしめたときの優しい香りだけだ。けれどそれと反比例するかのように別の記憶が蘇ってくる。優しい香りを纏う女の子を背後に隠して呪霊と向き合う。そして僕の背後から聞こえた小さな謝罪の声。
「君が消したの、僕と君の思い出だね」
彼女はこれでもかと大きく目を見開いて僕を見つめた。
僕はそんなのお構いなしに彼女をしっかりと抱きしめた。記憶の中と同じ、優しくて甘い香りに包まれる。彼女の小さな手がゆっくりと僕の服を掴んだ。
霧は、もう晴れたらしい。
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