気になるあの子はキョンシーでした 陸

「あ、五条さん、今日もお勤めご苦労様です!」
 任務を終えて補助監督のところに戻ると、妙なテンションで出迎えられた。
「なんすか、そのテンション」
「いやー、さっき事務局の先輩から連絡があって、長期休暇貰えることになったんすよ」
「……ソーデスカ」
「そうなんすよ! 京都校に出向してた彼女が六月で東京校に戻ってくるんで、その……結婚を前提とした同棲の準備で。いやあ、はははは」
 誰かに言いたくて仕方なかったんだろう。補助監督の鼻の下は完全に伸びきっていた。こういう大人にはなりたくねぇな。
「それでですね、休みを捻出するためにこのあと他の呪術師の方を迎えに行くことになってるんですけど、大丈夫っすか?」
「他の呪術師って?」
「それが……あの、例のキョンシーなんですよ」
 補助監督は眉毛をハの字にして俺の顔色を伺う。
「いいですよ、別に」
「え、ホントですか? 無理なら無理でどうにかするんで、全然大丈夫っすよ?」
「アイツと一緒の任務行ったことあるんで、いろいろ平気です」
「助かります! じゃあこれから向こうの現場に向かいますんで、よろしくお願いします!」
 
 車は住宅街の中をするすると走っていく。窓から差し込む温かい光と程よい振動が眠気を誘う。アイツが一緒なら制汗スプレー持ってくればよかった。アイツ鼻が利く。汗臭いって思われたら最悪だ。アイツ、このあと予定空いてるかな。今日は傑もいねぇし一緒になんかしたいな。でもゲームはなんか違うし、映画も俺が気分じゃない。あー、そういや来週は世界史の小テストだっけ。アイツに教わろうかな。いや、止めとこう。アイツの中でソ連がちゃんと崩壊してるかどうか怪しい。なんせ自動改札に追いついてないくらいだから。自動改札って避けて通れんの? 電車に乗るシーンとか映画にあるだろ。よく分かんねぇな。
「にしても五条さん、あのキョンシーと一緒に任務に行ったってすごいっすね」
 補助監督に話しかけられて、散らかっていた意識が収束した。
「任務の度に人を喰ってるって噂ですよ。怖くなかったんですか?」
 キョンシーが派遣される任務には二種類あると噂されているらしい。一つは前に俺と一緒に行ったみたいな事故の危険性が高い場所での任務。そしてもう一つは死体処理の任務だ。本来、術師の死体は高専の医務室で解剖してから適切な処置をするルールになっている。でも現場が遠いとか医務室のキャパの問題だとかで処置が難しい場合、キョンシーが現場に赴いて状況を医務室に報告。そのあとで現場に残った死体を喰うらしい。医務室としては報告書を確認するだけで済むから仕事量が減るし、キョンシーとしてもキョンシー本来の欲求を満たせるから双方に利があるってことらしかった。
「それ、デマです」
「え、そうなんすか?」
「本人が否定してました。お香の煙で制御してるって」
「そりゃ本人は肯定しないでしょ。一応『公然の秘密』なんですから」
 バックミラーに映った半笑いの顔を睨みつける。それに気付いたのか補助監督はすぐに笑顔を引っ込めた。
「えーっと、いい子ですよね。何度か送迎担当したことありますけど、僕ら補助監督に対して偉ぶることもないですし、報告書もきちっと書いてくれますし」
「奇行も多いけど」
 確かに、と補助監督が笑う。アイツ、誰に対してもあんな感じなのか。
「いいヤツですよ、アイツ」
 そう、アイツはいいヤツだ。テンションのおかしい死体だけど、中身は真面目で照れ屋でフツーの女子とそんなに変わらない。
「あの、五条さんにこんなこと言うのは釈迦に説法かもしれないんですケド……」
 車はゆっくり減速して、交差点の手前でぴたりと停まる。
「確かにあの子はいい子です。いい子ですけど、存在としてはほぼ呪霊じゃないですか。そこはきちんと線引きしないとマズいと思うんですよ。その……僕ら人間とは違う理屈で動いてるから、何がきっかけで敵になるか分からないじゃないっすか」
「……」
「ああ、でも五条さんなら何かあってもちょちょっと祓えちゃうから大丈夫か。すいません。余計なお世話でした」
 信号が変わってゆっくりと車が動き出す。その直後、目の前を自転車が横切った。車体が大きく揺れてシートベルトが上半身を圧迫する。
「っぶねー。大丈夫ですか?」
「大丈夫、です」
 補助監督は自転車に悪態をつきながら安全確認をして、再びゆっくりと発車させた。
 俺は窓に頭をくっつけて目を瞑った。普通に眠いのもあるけど、これ以上この補助監督と会話をする気にはなれなかった。前の方から、あれ寝ちゃったか、なんて独り言が聞こえてくる。続いてスピーカーからアニメ映画のオルゴールアレンジが流れてきた。なんだその選曲。病院かよ。でも任務で疲れた体にオルゴール音楽はよく効いた。
 
「五条さん」
 補助監督に声をかけられて目を開ける。空の色は赤紫色に染まっていた。どのくらい寝てたんだろう。
「アイツの現場に着いたんですか?」
「はい。僕は迎えに行くんですけど、車ん中で待ってます?」
「いや、外に出ます」
「分かりました。あ、助手席にコーヒーとかいろいろ置いてあるんで、好きなの取ってってください」
 補助監督はそう言い残して小走りで帳の方へ向かった。
 助手席をのぞき込むと、コンビニのビニール袋の中にビッグサイズの缶コーヒー五本とファミリーパックの飴が入っていた。飴の大袋は口が開いている。パッケージによると紅茶味とエスプレッソ味の飴が入ってるらしいけど、中を見ても紅茶しか残っていなかった。
「どんだけコーヒーが好きなんだよ」
 紅茶味の飴を一つ買って口に放り込む。甘い。どの辺が紅茶なのか分かんないくらい甘い。
「線引き、ねぇ」
 できてるつもりだったんだけどな。やっぱ外からだと結構入れ込んでるように見えんのかな。

 少しして補助監督が戻ってきた。
「……は?」
 補助監督と一緒に戻ってきたアイツは完全にキョンシーだった。いや、今までもキョンシーなんだけど、イメージ通りのキョンシーみたいに両手を真っ直ぐ前に突きだしてジャンプしながらこちらに近づいてきた。
 アイツと目が合った。さっきまで元気に飛び跳ねてたのに急に動きを止めたかと思うと、回れ右をして車とは逆方向に飛び跳ねていった。隣にいた補助監督が大慌てでアイツを追いかける。ジャンプ移動の割に結構素早くて、捕まえるのに苦労してるみたいだ。正直、ちょっと面白い。補助監督とアイツの追いかけっこは数分後には決着がついていた。どうも今のアイツは体が硬直してるらしく、小脇に抱えられてるマネキンみたいだった。
「お疲れさまです」
「はぁ……はあ……すみません。お待たせ、してしまって……思ったよりも、すばしっこくて」
「ごめんなさい」
 小脇に抱えられたまま、アイツは心底申し訳なさそうに謝った。動きはアレでも言語能力は維持されてるっぽい。
「謝るくらいなら、げほっ、最初から逃げないでくださいよ……五条さん、ちょっと給水さしてください」
 補助監督はアイツを立たせてから、運転席に戻って二リットルペットボトルの水をラッパ飲みし始めた。まぁ、そうなるよな。
「で、なんで俺の顔見て逃げたんだよ。ちょっと傷ついたんですけど」
「ご、ごめん」
「てか恥ずかしいなら普通に戻ってくればいいだろ」
「任務の途中で右ひじから下がもげちゃって。せっかくだから前々から実験してた反転術式を使ってくっつけてみたの。腕をくっつけるのには成功したんだけど……」
「呪力切れで体を操れなくなった、と」
 アイツは悲鳴を上げてまた逃げ出そうとした。慌てて腕を掴む。また逃げられちゃたまらない。
「だから、なんで逃げんだよ」
「だって雑魚キョンシーみたいにジャンプして移動するなんて、みっともないじゃない」
 やっぱりジャンプ移動は雑魚キョンシー仕草なのか。って、そんなことはどうでもいい。せっかく補助監督がいないんだから、さっさとこの後のことを聞かないと。
「ところでさ、今日ってこれで任務終わり?」
「え? う、うん。そうだけど」
「その、高専戻ったら―」
「すみませーん! お待たせしました!」
 復活した補助監督が割り込んできた。んだよ。少しは空気読め。
「彼女は僕が乗せるんで、五条さんは先に車に乗っててください」
 俺は促されるままに後部座席に乗り込んだ。補助監督はドアを閉めると、車の後ろに回り込んでトランクを開ける。アイツもその後ろをぴょこぴょこついていく。
「はぁ!?」
 補助監督はアイツを抱きかかえてトランクの中に詰め込んだ。入れた瞬間は見えなかったけど、トランクを閉めた時にアイツが居なくなってたから間違いない。
「お待たせしました」
「あの、今のどういうことっすか」
「今の?」
「いくらアイツがキョンシーでも、トランクに詰めるのはあんまりじゃないかって言ってるんですよ。アイツも術師でしょ?」
「あー、まぁ、そうですね……」
 歯切れの悪い答えと何かをごまかすような笑顔が鼻につく。
「これが線引きってことっすか?」
「その、規則なんですよ。あの子の送迎をするときはトランクに入れるっていうルールなんです」
 いくらなんでもおかしいだろ。こんなの単なる虐待だ。
「五条さんの気持ちは、よーく分かります。でもどうしようもないんですよ」
「じゃあ、俺がアイツを後部座席に座らせろっつったらそうしてくれますか?」
「頼みますよ。僕の立場も分かってください」
 なるほどね。特級の俺の頼みよりもルールの方が優先されるってことは上層部案件か。外出するのに学長許可が必要って聞いた時からなんとなくそうじゃねぇかとは思ってたけど、これで確定だな。
「……すみません」
 それなら補助監督相手にごねても時間の無駄だ。
「ありがとうございます。じゃあ、出発しますね」
 高専に着くまでの間、俺にできることは何かを考える。このルールができた経緯、どの家が関わってるのか、そしてこのルールをおかしいと思ってるヤツが高専にどのくらいいるのか。授業と任務と自分の訓練の合間にこれを調べるとなると相当時間がかかりそうだ。でもやるしかない。

「お二人とも、お疲れ様でした。僕は次の仕事があるんで、こちらで失礼します」
 補助監督は俺らを事務局の前で降ろすと、再び運転席に戻っていなくなった。
「あの補助監督さん、大忙しだね。体を壊さないか心配」
 トランクに詰められたのに、アイツは補助監督の心配をしていた。アイツの反応はあまりにもいつも通りだ。それだけ長い間、ああいう扱いを受けてたってことなんだろうか。
「あ、そういえば五条くん、車に乗る前に何か言いかけてなかった?」
「ああ、その、今日は傑も硝子もいなくて暇なんだけどさ……この後なんかしねぇ?」
「いいよ。なんかしよう! 何がいいかな」
 めちゃくちゃな誘いだったけど、アイツは嬉しそうに受けてくれた。移動中に多少呪力が回復したみたいで、マヨネーズのあのキャラクター人形くらいまで動かせるようになっていた。
「オマエは? なんかしたいことある?」
「どうしようかな。散策、とか? 高専の奥の方に静かな良い場所があるの」
「へぇ」
「あ、イマイチだったら他の案を考えてみるから、遠慮なく言って」
「いや、それが良い。俺、汗掻いてるからシャワー浴びたいんだけど、少し待っててくんない?」
「いいよ。じゃあ一時間後に三番倉庫前で待ち合わせね」
「分かった」

 アイツに案内されたのは山の中にひっそりと佇む灰色の建物だった。高専も普通の学校と比べたらかなり変だけど、この建物はなんだか異質だ。
「ここ、この前の戦争の時に軍が建てた呪霊研究所なの。いろいろあって取り壊さずにそのままになってるんだって」
「へぇ。どうせなら使えばいいのにな。このロケーションなら模擬祓除の訓練に使えそうじゃん」
「建物が古すぎて危険だから訓練には使えないみたい」
 こっち来て、とアイツは俺の腕を引いた。
 確かにこの建物は訓練に使うには状態が悪過ぎる。あちこちの壁にヒビが入っていて、蔦がカーテンみたいに軒先から垂れていた。空気も悪くて雨上がりの土の臭いがした。
 玄関を通り抜けると、広いグラウンドに出迎えられた。誰かが手入れしてるらしく、砂のグラウンドには草が一本も生えてない。グラウンドの端には小さなベンチが置いてあった。
「ちょっと座らない?」
 答える代わりにアイツの手を引いてベンチまで歩いていった。二人並んでベンチに座る。少し狭くて、お互いの肩が自然と触れ合った。
「一人になりたいときとか考え事をしたいときにここへ来るんだ。高い木もそんなにないから、月食とか流星群とかも観察しやすいんだよ」
 アイツと同じように空を見上げてみる。西の方は雲で隠れてるけど、結構な数の星が見えた。
「あれが北斗七星」
 アイツの指さす先には、柄杓の形に配置された星が七つ、並んで輝いていた。
「柄杓の水を入れる場所の先っぽを辿ると、北極星。北の空の中心ね」
「目印のくせに地味だよな」
「あはは。私も昔、五条くんとおんなじこと言って師匠に怒られたよ。北極星には神様がお住まいになっているのだから敬意を払いなさいって」
 師匠ってことは呪術師の家系じゃないよな。呪術師の家系なら親とか親戚がいろいろ教えてくれるはずだ。一体どこで呪いについて学んだんだろう。
 そもそもコイツって何者なんだ? キョンシーって言えば通じるから気にしたことなかったけど、コイツの名前を知らない。いつ、どこで生まれたのかも知らない。知ってることといえばコイツの術式と、何らかの事情でキョンシーになったこと、何十年も前から高専にいることくらいだ。
「そうだ。五条くん、新入生とはもう会った?」
「あー、あの眼鏡な。伊地知だっけ」
「夜蛾さんから彼との格闘訓練は秋ごろからって言われたんだけど、どんな感じの子?」
「は? 一年の格闘訓練って毎年オマエが担当することになってんの? 俺、やってもらってねえんだけど」
「そりゃあ五条くんの代は二人とも必要なかったから。夏油くんがもやしっ子だったら担当したかもしれないけど、すぐ五条くんに追いついたから二人で十分だって夜蛾さんに言われたの」
 また一つ、俺の知らなかった事実が明らかになった。だんだんコイツが分からなくなってくる。
「なぁ、オマエって何者なの?」
「何者って、見ての通りキョンシーだけど」
「キョンシーってのは属性だろ。そうじゃなくてオマエ自身のことが知りたい。そもそも名前すら知らねぇし」
「あー……ごめんね。私もあんまり覚えてないんだ。死んだときに頭を強く打ったせいで脳細胞が壊れちゃったらしくて」
 覚えてない、はたぶん嘘だ。どこぞの有名な陰陽師じゃねぇけど、名前はこの世界で最も短い呪なんだ。これだけの自我を保ってるのに自分の名前が分からないってのは考えにくい。
「分かる範囲でいいから教えろよ」
「えぇ……じゃあ、何か質問して」
「いや、急に言われても……あ」
 一つ、思いついた。もしかしたら答えてくれないかもしれないけど。
「あのさ、オマエの好みのタイプって何?」
「えっ、好みって……えっ!? 何で!?」
 案の定、大混乱だった。まぁ、そりゃそうだよな。
「俺と傑以外にもう一人、特級呪術師がいるんだよ。会ったことねーんだけど、補助監督によると初対面のヤツに性癖を聞いてくるセクハラ女らしい」
「せ、性癖を……」
「性癖にはその人の根っこの部分が現れるんだと。まぁ、確かに好き嫌いに相手のキャラが出ることってあるし、あながちバカにできないと思ったんだよ」
「なるほど。言われてみればそうかも」
 素直過ぎるのも考えものだな。人に性癖を聞いて回る変態特級呪術師がいるらしいってのは本当だけど、あとは全部嘘だ。ただ俺が知りたいだけ。それなのにコイツは俺の言ったことをそのまま信じたらしい。丸めこもうとした俺が言うのもアレだけど、そんなに簡単に信じて大丈夫なのか?
「えっと、好みのタイプだよね。そうだなぁ……」
 心臓がバクバクする。もしも俺と真逆のタイプを言われたらどうしよう。いや、ただ真逆なだけならいい。そのタイプに身近な誰かが当てはまってたら最悪だ。例えば七海とか。いや、逆に七海なら仕方ないか。アイツは真面目だし、あのルックスだろ? しかもコイツとは格闘訓練で話す機会もたくさんある。そういう意味では灰原も仕方ない。灰原はいいヤツだ。素直で明るい。裏表がない。
「一途な人が好き、かな」
「へぇ。他には?」
「え、えっと、他には……いつも前向きで、明るい人」
 アイツの顔つきが変わる。さっきまで険しい顔をしてたのに、なんとなく優しい表情になった。もしかしたら聞かない方が幸せだったパターンかもしれない。
「一緒にいて楽しくて、話が面白くて、笑顔がチャーミングで……」
 ……なんか妙に具体的な条件を挙げてくるな。特定の誰か一人を思い浮かべてるなら、具体的なのも当然なんだけど、その割に一切照れがない。
「少し夢見がちだけど、一途で全力で愛情を伝えてくれて。あ、髪は明るい茶色で―」
「ちょ、ちょっと待った」
「なに?」
「なぁ、オマエもしかして前に鑑賞会で観た映画の、あの父親を思い浮かべてる?」
「え? あ、いや、まさか! そんなことないよ。だってねぇほら、あれは作り話でしょ。そんなこと、いや、いくらなんでも、そんなこと言わないよ。私だって現実と作り話の区別はついてるんだから」
 クロだ。絶対にクロ。目が泳ぎまくってる。
「マジかー」
 知り合いの誰かを思い浮かべてるわけじゃなかったのは良かったけど、俺からは離れていった感じだ。そもそも相手はフィルムの中にしかいない。かなり手強い相手だ。
「だって素敵だったんだもの! 五条くんが携帯の待ち受けをセクシーなお姉さんにしてるのと一緒だよ」
「なっ!? ばっ、それは……」
 誰だよ、バラしたヤツ。傑か? それとも硝子か? アイツら、俺を応援するっぽい雰囲気出しときながら面白がってるだけかよ!
「やっぱりおっぱいの大きいお姉さんが好きなの?」
 コイツの視線が痛い。微妙な顔でこっちを見ないでほしい。帰ったらすぐに待ち受け画像変えよう。
「いや、その、あれだ。見るだけならそっちの方が良いってだけで、実際に付き合う相手にはそこは重視しない」
「別にいいと思うよ。私のお父様も、若い頃は芸者さんのブロマイドを持ち歩いてたらしいし」
 そう言ってアイツは再び空を見上げた。この「いいと思う」は言葉通りに受け取ったらいけないよな。明らかに呆れられてる。なんでこんな感じになってんだ。もっとこう、いい雰囲気に持っていきたかったのに。

「五条くんにとって、この人と付き合いたいって思うのはどういう子?」
 空を見上げたまま、質問を投げかけられた。さっきまで見えていた星は雲の向こうに隠れてしまった。
「興味あんの?」
「あるよ」
 心臓の鼓動がスピードを上げた。
「性癖にはその人の根っこの部分が現れるんでしょ? 大事なお友達のことだもの。興味あるよ」
 アイツの声が少し震えてる気がする。表情も硬い。緊張してるのか。なんで? このタイミングで緊張する理由は? それってもしかして―

 冷たいものが鼻先に落ちる。次に頬、その次に手。
「え、雨?」
 アイツの言葉を待っていたみたいに、空から雨粒が落ちてきた。慌てて立ち上がろうとするアイツを無理やり座らせて、手を掴んで無下限を発動させる。雨は、俺らを覆う透明な被膜の上を滑り落ちていった。
「すごい……」
「発動前に濡れた部分は弾けねぇけどな」
「ほんとだ。五条くんの髪、ちょっとだけ濡れてる」
 待ってて、とアイツは懐からハンカチを取り出した。
「もしよかったら使って」
「あ、ありがとう」
 ハンカチで頭を軽く拭くとアイツと同じシナモンの香りが鼻をくすぐった。
 
 頭に良くない考えが浮かぶ。
「ずっと気になってたんだけどさ、オマエ、頭にゴミ付いてる」
「えっ!? 嘘でしょ!? どこ?」
「呪符の少し上」
「やだもう。そういうのは早く言ってよ……」
「もう少し左。もうちょい、あーそれは行きすぎ。俺が取るから、こっち向いて」
 アイツは俺の方に体の正面を向けた。髪の毛にそっと触れる。きちんと手入れしてるらしく、思ったよりもなめらかだった。ついでにハンカチで濡れたところも拭いてやる。コイツは何の疑問も持たずに、俺にされるがままだった。
 やっぱり素直過ぎる。こんなにも信じやすくてよく今まで呪術師としてやってこられたよな。本当は髪の毛にゴミなんか付いてない。付いてたとして、こんな暗いところで俺が見えるワケねぇじゃん。
 ちょっとだけのつもりだった。いや、もしかしたらコイツがあまりにもおとなしく俺にされるがままだから、気が大きくなったのかもしれない。
「五条くん、ゴミって―」
 気付いたらコイツを抱きしめていた。思ったよりもずっと柔らかい。遠慮がちにアイツの手が俺の背中に回った。コイツも同じ気持ちだったのか。甘い香りで頭がクラクラする。
「なぁ、俺―」
「やめて!」
 アイツの腕が俺の服をしっかりと掴んだ。投げられる。脳がそう認識した時には既にアイツを無下限の対象から外していた。俺らの間に数センチの壁が生まれる。透明な被膜から弾き出されたアイツに、雨が降り注いだ。
「ご、ごめん。てっきり同じ気持ちかと思って……」
「私の気持ちを決めつけないで」
 大粒の雨が容赦なくアイツの体を濡らしていく。それなのに俺はその雨を防いでやる術がない。
「なぁ、ひとまず戻らねぇ? 雨もひどくなりそうだし、濡れるとその呪符もマズいだろ?」
「そうだね。戻ろう」
 俺はアイツに手を差し出す。
 アイツはその手の側を通り過ぎた。

 すれ違いざま、アイツの頬を雨粒が流れていくのが見えた。

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