家に帰ってきたら、アイツが浴槽に沈んでいた。
もう死んでるから浴槽に沈んだところでどうってことはない。それでも沈んでるところを見たら心臓が止まりそうになった。
「何してんだよ!」
「ごばっ!」
アイツを浴槽から引っ張り上げて、タオルでつつんで脱衣所の床に寝かす。どうやらお湯を飲んでしまったらしく、苦しそうに水を吐き出していた。いつだかの任務の時みたいに背中をさすってやる。結構長い時間沈んでたのか、いつもは冷たい皮膚が今日は熱い。
「げほっ、ごじょ、うぇっ……ごほっ」
「落ち着くまで喋んな」
「だいじょ、げほっ、大丈夫だから。あっち、行ってて」
「死なないっつっても、苦しそうなのにほっとけねぇだろ」
本人が大丈夫って言ってるだけあって、かなり落ち着いてきたみたいだった。とはいえまだ辛そうに見えたから抱き起してあげようと体に触れる。
ぱしん、とアイツの手が俺の手を振り払った。
「なっ!」
アイツは俺に背を向けて起き上がり、床に座る。
「ご、ごめん。その……服、着てない、から」
「ッ!」
止まりそうになってた俺の心臓が一気に動き出す。と同時に素早く脱衣所を出て扉を閉めた。一級呪霊と対峙するときと同じくらいの俊敏さを発揮したと思う。
「なんか、ごめんね」
扉の向こうからアイツのしょんぼりした声が聞こえてきた。
「……話はあとで聞くから、まずは体拭いて着替えてこい」
「はい」
「髪、ちゃんと乾かしてこいよ」
「分かった」
先にリビングに戻った俺は、気持ちを落ち着かせるためにインスタントコーヒーを作った。いつも通りお湯を沸かして、粉を溶かす。スプーンでかき混ぜてると、もやもやと頭の中にさっきまでのアイツの姿が浮かんでくる。普段は露出の少ない服しか着ないから、ばっちり頭に焼き付いてしまった。自分の記憶力の良さが恨めしい。
「にっがあっつ!」
砂糖を入れ忘れた。砂糖入りの甘いヤツのつもりで飲んだらめっちゃ苦い。しかも砂糖を溶かす待機時間がゼロだからコーヒーも冷めてなくて舌を火傷した。火傷は反転術式ですぐに治した。
「何やってんだよ……」
あまりにもダサくて泣けてきた。
でも仕方ないよな。家に帰ってきたら大好きなアイツが浴槽に沈んでたし、救助するためとはい え素っ裸のアイツを見ちゃったし。そりゃあ任務で女の被害者を助ける機会はあるけど、エロ漫画じゃねぇから服だけ都合よくはじけ飛ぶなんてありえないワケ。服が全部脱げるような状況だと、大抵は中身もぐちゃぐちゃだから逆に平気なんだよな。
そんなことを考えてたら、また脳内にアイツの姿が浮かんできた。祓除スタイルがパワー型だから筋肉がすごいのかと思ってたけど、想像よりも華奢だった。でも胸は結構あった気がする。谷間ができるってそれなりに胸あるよな? 女子の胸には男子の夢と希望が詰まってるって言うけど、ほんとだった。夢と希望とロマンが詰まってた。正面から抱きしめた時とか、腹のあたりでむにって潰れるのが分かるんだもんな。
「お待たせしてごめんね」
そんなことを考えてたら本人がやってきた。前に俺と色違いで買った、もこもこパジャマを着てる。髪もいつもは三つ編みにしてるのに今は結ってないから、すごく新鮮な感じだ。普段は絶対に見られないラフなオフショット、可愛すぎる。でもそれはそれとして、確認すべきことは確認しないと。
床に正座しようとするアイツをソファに座らせて、俺も隣に座った。
「で、なんであんなことになったんだよ」
「えっと……お風呂の中で足を滑らせちゃって」
「オマエならすぐに立ち上がれるだろ。なんでそのまま沈んでたんだよ」
「考え事してたら立ち上がるの忘れてた」
ごめんなさい、とアイツは小さな声で謝った。
「てか、なんで急に湯船に浸かろうと思ったんだよ」
コイツはいつもシャワーで十分だと言っていた。汗もかかないし、死んでて垢が出るわけでもないから風呂に入る必要性がないらしい。体の表面に付いた埃 や泥を落とすためならシャワーで十分だってのがコイツの主張だった。それなのに湯船に浸かるなんてどういう風の吹き回しなんだろう。
コイツはもじもじするばかりで、なかなか喋ろうとはしなかった。急かしたくなるのをぐっと我慢して、コイツのタイミングを待つ。
「五条くんには恋人らしいことをかなり我慢してもらってるでしょ?」
「そうか? そんなことないだろ。この前だって一緒に紅葉のライトアップ見に行ったじゃん」
「五条くんの想像してる方向じゃなくて、あの……き、キス、とか、キス以上のこととか、そっち系」
ああ、そっち系ね。
思わず目を逸らした。確かに我慢はしてる。一緒に暮らし始めた時にキョンシーは童貞の体液に弱いって聞いたから。コイツが負い目を感じないように言動には気を付けてきたし、そのこと自体に不満はない。不満はないけど、辛くないわけでもないってのが正直なところだ。俺は好きな子とハグもキスもしたいし、やっぱりそれ以上のことがしたい。性欲もある方だ。むらむらしてるときにコイツが無防備に寛いでるのを見ると、それを押さえこむのに苦労することだってある。
でも、俺の性欲とコイツが沈んでた理由とがどうにも結びつかない。
「この前のお出かけで手を繋いだとき、五条くんの手が汗でしっとりしてたの。もし体液全般が駄目なんだとしたら、その時に大ダメージを受けてるはずでしょ?」
「でも実際にはダメージはなかった」
「そうなの。それで思い出したんだけど、師匠の言う体液って言葉が指し示す範囲を確認しなかったんだよね。細かいことを色々教えてくれる師匠だったから、体液全般だと勝手に思い込んでたの」
「なるほどな。じゃあどこまでが大丈夫かが分かれば、今みたいに神経質にならなくてもいいってことか」
これは朗報だ。体液全般に気を付けるのと、一部の体液だけ気を付けてればいいのでは全然違う。汗が平気なだけでも今まで以上にたくさん抱きしめられるし、他の体液も平気ならもっといろんなことができる。
「それでね、その……、これから少しずつ実験したくて……でも私って死んでるから体が冷たいでしょ? それだと五条くんが辛いかなって思って」
「は?」
勘違いじゃなければ、コイツは俺のために湯船につかって体を温めてたって言ってんだよな。で、なんで俺のために体を温めてたかっていうと、俺とキス以上のことをしたいとコイツも思ってるからだよな。
「や、やっぱり変だよね。女の子なのにこんな、は、はしたないこと言って。ごめんね! やっぱり聞かなかったことにして!」
俺が黙ったままだから不安になったんだろう。急に饒舌になったコイツは言いたいことをまくしたてると、恥ずかしい恥ずかしいって騒ぎながらソファの肘置きに顔を押し付けてそっぽを向いてしまった。
俺はソファの上に片足を乗せて、その足をコイツとソファの間にねじ込んだ。反対の足はコイツの足に絡ませて、寄りかかるみたいにして抱きしめる。
「あったけぇな」
風呂で沈んでただけあって、コイツの体は温かかった。もこもこパジャマを着てるから余計にあったかい。
「ご、五条くん?」
「俺さ、オマエも俺とキス以上のことしたいって思ってるって分かってすげぇ嬉しいの。だから聞かなかったことになんかしねぇから」
「さ、さようでございますか……」
所在なさげにソファの肘置きを彷徨っていた手を捕まえる。指を絡めると、おずおずとコイツも指に力を入れた。そのまま指先でお互いの手を撫でたり髪を手櫛で梳かしたりしてるうちにコイツの体から力が抜けていくのが分かった。ソファに乗せた方の俺の脚に体を預けて、俺が頭を撫でるのを目を瞑って受け入れていた。
「こっち向いて」
耳元で囁くと擽ったそうに体ごとこちらに向けた。腕の中で蕩けた表情をしてるコイツはものすごく可愛くて色っぽくて、これだけでどうにかなってしまいそうだった。
体をどかして、コイツが寝転がれるスペースを作ってやる。俺の意図を汲み取ってソファに寝転んだコイツに覆い被さり、もう一度しっかりと抱きしめる。今度はコイツも俺のことをしっかりと抱きしめ返してくれた。湯船につかってもなお残ってるシナモンの香りで俺の理性も蕩けだす。
「なぁ、キスしてもいい?」
腕の中でコイツが頷いたのが分かった。名残惜しいけど、少しだけ体を離す。そしてゆっくりと唇同士を触れ合わせた。
柔らかい。もう一度唇を重ねる。ちゅ、と音がした。俺の唇が少しだけ濡れている。
「大丈夫そうか?」
「うん……だいじょう、ぶ」
コイツは指で触って自分の唇の状態を確認していた。でも顔がぼけっとしている。これで唾液は問題ないことが確認できたわけだ。これでめでたくキスの解禁だ。
「なぁ、どんな感じする?」
「ん……」
まだぼんやりしてるから、もう一度キスをする。触れるだけじゃなくて、少しだけ吸ってみる。腕の中で鼻にかかったような声が聞こえてきたから、今度は俺の唇でコイツの唇を軽く挟んでみた。コイツもそれに答えるように俺の唇を挟んでくる。アイツの息が口元にかかるだけでぞくぞくしてきた。
「質問に答えてくんないの?」
「ごじょう、くん」
少し意地悪がしたくなって、喋ろうとする度にキスをして言葉を封じてやった。気持ち良い。癖になりそう。
「いじわる」
「で、どうなんだよ」
別に聞かなくたって答えは分かってる。でもコイツの口から聞きたかった。
「なんか、ふわふわする」
「それだけ?」
「すごく、きもちいい。幸せ」
「俺も」
何度目かのキスをして、何度目かのハグをした。あんなに欲求不満だったのに、キスだけでものすごく満たされた気分だ。一人で処理するよりもよっぽど良い。
「風呂入ってくる。出たら寝ようぜ」
「分かった。先に寝室で待ってるね」
「あ、今度から寝るときはお休みのちゅー、必須な」
「ふふっ。分かった」
幸せそうなアイツに見守られながら脱衣所に向かう。もちろんパジャマはアイツと色違いのもこもこパジャマだ。
それにしても、キスってヤバいな。こんなに威力があるとは思わなかった。キス魔になるのも分かる。今度からもっとちゃんと唇のケアをしないとな。リップクリームもちゃんと買おう。
こうして俺は無事に大好きな女の子とキスをすることができた。
もちろんファーストキスだ。
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