二〇一九年二月 立春

 五条との面談から二週間。日車は五条と共に高専の入院病棟を訪ねた。無事に事前検査もクリアし、正式に毒の投与を受けることになったのだ。
 入院病棟の入口で家入が二人を出迎えた。家入は日車に深々と頭を下げる。
「日車さん、今回はご協力ありがとうございます」
「そんな恐縮されるようなことじゃない。それで、彼女は?」
「先に病室で待っていてもらってます。行きましょう」
 家入に案内されたのは特別個室だった。病室内はホテルのようだった。入って左側にはベッドが置いてあり、右側には面会に来た人のための応接スペースが用意されている。梓紗はその応接スペースの革張りのソファに居心地悪そうに座っていた。日車の姿を認めると、跳びあがるように立ち上がって頭を下げる。日車も黙って会釈をした。
 日車は家入に促されて梓紗の隣に腰掛けた。二人の間には一人分のスペースが空いている。いくらこの後キスをするとはいえ、今このタイミングで彼女との距離を詰めるのは憚られた。
「へぇ。高専の病院にVIPルームなんてあったんだ」
 五条は物珍しげに病室内をうろうろしていた。任務で重傷を負った呪術師も入院するときはここを使うようだが、五条にはあまり縁がないらしい。
「呪霊は襲う人間を選ばない。いろんな事情で大部屋にできない患者もいるんだよ」
「ふーん。それってやっぱり芸能人とか? てか、テレビでかいね。何インチあんの?」
「院内ツアーをするために五条を呼んだんじゃないんだけど」
 家入は日車と梓紗に資料を手渡しながら五条を窘める。
「そんなに怒んなって。アイスブレイクだよ」
 五条はへらへらと笑いながらソファに腰かけた。家入は溜息を吐いてから五条にも資料を渡して、空いた場所に座った。

「では、まず大まかなスケジュールと注意事項について説明します」
 抗毒血清は抗体の産生、抗体の抽出、血清精製の三工程を経て作られる。二人が行うのは最初の工程のみで、残る抗体の抽出と血清精製は家入が外部の研究機関と協力して行うのだという。検察に提出した計画書では、抗体産生期間を半年としている。目安ではあるものの、作業が順調に進めば夏には任務終了となる計算だった。
「経過観察のため、日車さんには定期的に診察を受けてもらいます。毒の投与日とその前後一日は祓除任務のアサインは不可。自主訓練も原則禁止です。巽さんには抗体産生と並行して、引き続き呪力操作の訓練を続けてもらいます。血清はあくまでも緊急時の保険です。自力で術式をコントロールできるようになることを最終目標としてください」
 家入は日車と梓紗の顔を交互に見て、それから、と言葉を続けた。
「これは一番大事なことですが、何か違和感を覚えたら隠さずに教えてください。体調面はもちろんですが、心理面の違和感も同様です。すぐに作業を中止します」
「いいのか? 血清精製を条件に減刑交渉をしたんだろう?」
「中止ではなく、中断です。そうなった場合には別の方法を探します。繰り返しにはなりますが、血清は緊急時の保険です。そこは先方も理解してくれていますので、少しでも気になることがあれば教えてください」
「もちろん僕でもいいよ。呪力操作の練習の時にコソっと教えて」
 五条が梓紗に向かって声をかける。
「分かりました」
 隣に座る梓紗の表情が少しだけ緩んだように見えた。
 ――彼女にとっては五条「先生」なのか。
 人によっては小馬鹿にされたように感じるあの態度も、彼女には緊張をほぐしてくれる親しみやすさのように感じられるのかもしれない。
「他に質問はありますか?」
「いや、大丈夫だ」
「大丈夫、です」
「分かりました。気になることがあればいつでも聞いてくださいね。では、次に投与の際の注意事項について説明します」
 家入は五条に目配せをする。それを受けて五条はテーブルに二枚の白い呪符を置いた。
「二人にはこの呪符を手首に巻いて作業をしてもらうよ。二枚の呪符に流れる呪力量のバランスで色が変わるんだけど、まぁ実際にどうなるか見てみた方が早いからちょっと実演してみようか。日車先生、手首にこれ巻いて呪力を込めてみて」
 日車は言われた通り呪符に呪力を込めた。すると呪力を込めた日車の呪符ではなく五条の呪符が赤く染まった。日車の呪符は白いままである。
「流した呪力の量に応じて相手の呪符の色が変わるんだ。赤は相手の呪力が基準値より多いことを現わしてる。で、僕が呪力を流すと――」
 今度は二人の呪符の色が同時に変わり始めた。真っ赤だった五条の呪符は黄色を経て緑色になる。日車の呪符は白から緑に変わった。
「こんな感じで二人の呪符が緑色に変わる。決められた呪力量に達したら呪符がピリっとして教えてくれるから、それまでは作業を続けること。巽さんはビビらずに一定量の呪力を流すことだけ考えてればいいよ。まぁ、ちょっとくらい多くなっちゃったとしても日車先生が何とかしてくれるから」
「さすがにそういうわけにはいかないんじゃ……」
「だいじょーぶ! 日車先生は優秀だから」
 そうだよね、と五条は日車に爽やかな笑みを向けた。
 ――どう、答えるべきか。
 日車の視線が泳ぐ。
 仮に彼女の呪力コントロールが乱れて規定量以上の毒が体内に入ってきたとしても、きっと対応できるだろう。だが「きっと」であって「絶対」ではない。「絶対」ではないのだから安易に「できる」と言うわけにはいかない。さりとて正直に話しても彼女の不安を煽るだけである。
「毒の量が極端に増えてしまうのは問題なのですが――」
 答えに窮する日車を見かねて、家入が助け舟を出した。
「緊張しすぎるとかえって上手くいきません。『何かあっても日車さんが対応してくれる』というつもりで臨んでください。それに、万が一に備えて私も近くで待機しています。ナースコールを押してくれればすぐに駆け付けるので安心してください」
「わ、分かりました」
「他に質問はありますか?」
「いえ。いろいろとご迷惑をおかけしてしまうかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
 梓紗は三人に向かって深々と頭を下げた。
 その後、いくつかの細かな事務手続きを終えて、五条と家入は病室を去った。

 病室に残された二人の間に気まずい沈黙が流れる。
「移動するか。ナースコールの近くにいた方がいいだろう」
「はい」 
 二人はベッドの端に並んで腰かけた。だが二人とも口を噤んだままだ。無理もない。二人が最後に言葉を交わしたのは梓紗が釈放された直後だし、内容も報酬の支払という事務的なもの。何を話せばいいのか皆目見当がつかなかった。
「あの」
 先に口を開いたのは梓紗だった。梓紗は日車に向かって頭を下げる。
「裁判の時は術式のことを黙っていてすみませんでした」
「……過ぎたことだ。頭を上げてくれ」
 梓紗は恐る恐るといった様子で顔を上げた。彼女の瞳は緊張と不安で揺れていた。
 ふと、日車の脳裏に勾留されていた時の彼女の姿が浮かんだ。虚ろな目で他人事のように日車の質問に答える姿が痛々しく、ともすると自ら命を絶ってしまうのではないかと心配したのを覚えている。
「呪術師ではない相手に術式のことを説明するのは難しい。君の精神状態も普通とは言えなかったしな」
 ――そう、普通じゃなかったんだ。
 そもそも被害者は彼女を酔わせて無理やりホテルに連れ込んでいるのだ。そして思いがけず相手を殺してしまった。そんな状況にあって普通でいられる方がおかしい。
「とはいえ、家入の検査を受けたことくらいは教えてほしかったが」
「す、すみません……」
 再び頭を下げようとする梓紗を日車は制止する。
「だから今回は隠し事をしないでほしい。家入も言っていたが、少しでも違和感があるなら必ず言ってくれ。お互いのためにな」
「分かりました」
 梓紗の肩から力が抜けていくのが見て取れた。相当に緊張していたようだ。

「ところで仕事はどうしてる。前の会社は辞めたと聞いたが」
 最初の一歩さえ踏み出してしまえばあとは簡単だ。先ほどまでの気まずさが嘘のように、日車はごく自然な流れで雑談を始めることができた。
「一昨年から高専でお世話になっています。血清のことや術式のことを考えたら高専で働いた方が何かと便利だろうって五条さんが斡旋してくださったんです」
「補助監督だったのか」
「ええ。といっても雑務担当なんですけど。まだ帳が下せないのと、祖父の身の回りの世話をしなければならないので長時間の残業ができなくて」
 戦前生まれだから家事が全くできないんです、と梓紗は困ったように笑った。
「日車先生はいつから高専に?」
「去年の十一月だ。それと、もう弁護士じゃないから『先生』と呼ぶのは止めてくれ」
「辞めてしまったんですか?」
 ――俺が呪詛師認定されてたことを知らないのか?
 彼女も高専で働いていれば呪詛師認定の基準は知っているはずだ。そしてそんなことがあれば弁護士を続けられないことも想像がつくだろう。あえて知らされていなかったのだろうか。
「去年の九月に事故で呪術師になったんだ。その後にいろいろあって弁護士を辞めざるを得なくなった」
 日車はあまり触れてほしくない話題かのように説明した。今このタイミングで人を殺したから弁護士資格を失ったと彼女に伝えるメリットはない。
「そう、だったんですね」
「皮肉なことだが、呪術師になったお陰で食いっぱぐれずに済んだとも言える。むしろ弁護士時代より稼いでるかもしれん」
「え?」
「時間と手間のかかる事件を引き受けることが多かったんだ。年収換算したらマスコミに就職したヤツの方がよほど稼いでるよ」
 自営業の厳しいところだな、と日車は肩をすくめた。
「それに呪いの世界は興味深い。学ぶべきことが山ほどある」
「勉強がお好きなんですね」
「どうだろうな……勉強それ自体を好きだと思ったことはない。ただ、苦痛だと思ったこともないから嫌いでもないんだろう」
 再び二人の間に沈黙が訪れた。

「そろそろ、作業を始めませんか?」
「ああ。そうだな」
 梓紗が日車の分の呪符を差し出した。日車はそれを受け取って自分の手首に巻きつける。
「どうする? 最初だけでも目を瞑った方がいいか?」
「そう、ですね。そうしていただけると嬉しいです」
「分かった」
 日車は目を瞑り、梓紗から動くのを待った。
 両肩にわずかな重みを感じ、日車は全身に呪力を巡らせて毒に備える。少しの間を置いて、梓紗の唇が日車の唇に押し当てられた。呪力で体を守っているお陰か、特に体の変化は感じない。日車は薄目を開けて呪符を確認した。彼女の手首に巻かれた呪符は薄い緑色に染まっている。水に緑色のインクを一滴垂らしたような薄い色だ。日車は僅かに自分の呪力を弱めるが、色の変化はみられない。梓紗の呪力が弱すぎるのだろう。
 日車は梓紗の肩を軽く叩き、唇を離した。
「呪力が弱すぎる。もう少し出力を上げられるか?」
「もう少し、ですか?」
 梓紗の視線は宙を彷徨い、足元へと落ちていった。
「不安か?」
「すみません。どうしても何かあったらと考えてしまって」
「出カムラについては俺の方で対応できる。そのくらいは前線に出ていれば難しいことじゃない」
「そう、ですよね……」
 同意の言葉とは裏腹に、梓紗の視線は床に落とされたままだった。
 日車は両手で顔を覆い、溜息を吐く。
 ――不安になるのは当然だ。
 日車は苛立つ自分にそう言い聞かせた。
 例えば訓練で本物の日本刀を持たされて「殺す気で斬りかかってみろ」と言われたとしよう。いくら相手が剣の達人だとしても、一切のためらいもなく相手に斬りかかれる人間はそう居ないだろう。今、梓紗に求められているのはそれと同じことなのだ。それに無理強いをした結果、術式が暴走すれば日車自身の身が危うくなる。責め立てるのは百害あって一利なしだ。
「術式の開示、というのは知っているか?」
「……すみません。知りません」
「いや、謝らなくていい。術式の開示とは縛りの一種だ。自分の術式に関する情報を相手に教えるというハンデを負うことで術式効果を強化することができる。もちろん、術式の秘密を全て教える必要はない。相手に教えても差し支えない範囲で十分効果がある」
「私の術式の秘密を日車さんにお話すれば、呪力量はそのままでも毒が強まる、ということですか」
「そうだ。何か話せそうか?」
 梓紗は困ったように眉尻を下げる。
「その、術式の開示、というのは相手の知らない情報でないといけないのでしょうか」
「俺も正確に理解できているわけじゃないから何とも言えんが、基本はそうだろうな」
「そう、ですよね……」
「俺が知ってるのは君の術式は体液から毒を作るということ、その毒は人体の中でしか存在することができないことの二つだけだ。それでも難しいか?」
「いえ、それであれば大丈夫です」

 梓紗はゆっくりと深呼吸をし、日車と向き合った。つられて日車も居住まいを正す。ぎし、とベッドの軋む音が日車の耳にはやけに大きく聞こえた。
「私の毒は呼吸困難を引き起こして、人を死に至らしめるものです。ですがそれだけでなくもう一つ別の効果があるのだそうです」
「別の?」
「私も五条さんに言われて初めて知ったんですが、その……端的に言えば、媚薬になると」
 梓紗は言い終わると同時に日車の唇に吸い付いた。
 結論から言えば、梓紗の術式開示は狙った通りに作用した。二人の手首の呪符は鮮やかな若葉色に染まったのだ。
 日車の体にも変化が起きる。全身の血流が良くなり、頭がぼんやりとしてきた。水の中を揺薄っているような心地よさだった。けれど触覚だけは鋭敏になっていた。彼女の唇が角度を変えて日車の唇に触れる度にぞくぞくする。日車は自分の膝を力いっぱい抓った。そうでもしなければ呪力操作どころではなくなってしまいそうだった。
 ――他の呪術師たちはこうなることを予想していたのだろうか。
 散乱した思考の片隅でそんな疑問が芽生える。梓紗は呪術師の家系だという。そして面談の際に五条は彼女の家系について何か問題があるようなことを仄めかしていた。狗巻家の術式といえば呪言、というように、彼女の家の術式も呪術師なら良く知っているものだったのではないだろうか。
 ピリ、と日車の手首に刺激が走る。やっと目標量に達したらしい。二人は同極磁石のように体を離した。
「日車さん、大丈夫ですか?」
 梓紗が心配そうにたずねる。
「ああ……まだ少し頭がぼんやりするが、大丈夫だ」
「家入さんに作業が終わったことを報告しに行きますけど、お水かお茶、買ってきましょうか?」
「……頼めるか? 冷えた緑茶だとありがたい」
「分かりました」
「済まないな」
「とんでもないです。すぐに戻りますので横になっていてください」
 梓紗は日車に軽く会釈をしてから、小走りで病室を出ていった。
「クソッ」
 珍しく日車が悪態を吐き、ベッドに寝転んだ。梓紗に対してではない。儘ならない自分の状況に対してである。体にはまだ熱がこもっているし、頭の靄も晴れていない。気持ちも高ぶっている。
 だが彼の苛立ちも眠気の前では無力だった。日車の瞼は次第に重くなり、思考もまとまらなくなっていった。少量とはいえ日車の体内には毒が入っているわけで、免疫機構が体を守るためにフル稼働している。日車の体は休息を欲していた。
 日車は眠気に抗わず、ゆっくりと瞼を閉じた。思考の輪郭がどんどん曖昧になっていく。そしてそのまま、深い眠りの海へと沈んでいった。

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