無機質な病室にリップ音が響く。梓紗の指が日車のワイシャツの上を僅かに動くだけでも日車の体が跳ねた。日車は固く目を瞑り、日本の歴代幕府の将軍の名前を暗唱した。
初回の投与後、目で確認しなくても呪力量を調整できるように呪符が改良された。それ自体は良い。日車とて薄目を開けながらキスをするのは抵抗があった。問題は少しでも毒の量が足りないと呪符が小刻みに振動することである。不器用な梓紗には出力ムラがある。そのせいで何度か呪符が手首で震えるのだ。それに驚いた梓紗が体を動かす。その刺激が日車には堪えた。
日車の脳内年表で徳川幕府が倒れて日本初の内閣が成立したあたりでピリ、と通電したような刺激が手首に走った。毒の投与量が規定値に達したようだ。二人は弾けるように顔を離す。
「はぁ……」
興奮状態にある体を落ち着かせるため、日車は大きく息を吐いた。
「何か飲みますよね。前回と同じでお茶にしますか? ミネラルウォーターも用意してますけど」
「いや、水がいい。ペットボトルのままで大丈夫だ」
梓紗は備え付けの小型冷蔵庫からペットボトルを取り出し、タオルと一緒に日車に手渡した。日車はあっという間に飲み干して額の汗をタオルで拭う。
「大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
そうは言ったものの、日車はかなり消耗していた。投与前に巡回監視対象の様子を見に行ったのだが、帰りに渋滞に巻き込まれてしまった。そのせいで到着がギリギリになって病室に駆け込んだのだ。血流が良くなると毒のまわりが早くなる。時間に余裕は持たせていたつもりだが、渋滞はどうしようもない。
――投与日当日は事務作業日にするか?
日車はベッドに横になって目を瞑る。
いっそ初回のように問答無用で眠ってしまえれば良かったのだが、抗体ができたことで初回ほどの疲労感もなかった。日車の体にもう少し毒への耐性がついたら、あるいは梓紗が安定して術式を発動させることができればまた違ってくるのだろう。だがそれは一朝一夕でどうにかなる話ではない。日車が梓紗の訓練に付き合う話も、五条の「ちょっと考えさせて」の一言で宙に浮いたままである。
日車は寝た振りをしながら梓紗の様子をそっと窺う。家入への作業終了連絡は既に終えていて、今は応接スペースで仕事をしている。梓紗は渋い顔をしながら軽快なリズムでキーボードを叩いていた。時折、業務用携帯の通知を確認しては呻き声を上げ、独り言を呟いている。日車が見ていないと思っているからなのか常にそうなのか、業務の進捗が全て表情や声に現れていた。
「はいはい二人ともお疲れー」
少しして、病室に家入と五条が入ってきた。五条はいつものアイマスク姿ではなく、ラフな格好にサングラスという出で立ちだった。梓紗は二人の姿を確認するとすぐに手を止めて、頭を下げた。ベッドに横になったまま動かない日車を見て、家入の表情が厳しくなる。
「日車さん、家入です。大丈夫ですか?」
「これ、狸寝入りでしょ。日車先生って意外とそういうことするんだよ」
狸寝入りという言葉に梓紗が悲鳴を上げる。どうやらあの百面相と独り言は日車が寝ていると思ってのことだったらしい。日車はゆっくりと起き上がって梓紗に軽く謝罪をした。
「紛らわしいことしないでください」
「……済まない。起きるタイミングを見失った」
「それで、調子はどうですか? 気持ち悪いとか胸が苦しいとかあります?」
「いや……頭はぼんやりするし疲労感はあるが、それ以外の不調はない」
「そうですか。とはいえ、まだ二回目です。急ぎの仕事がないようであれば、今日はもう仕事を切り上げることをお勧めします」
「そうだな。次の任務の資料をコピーしたら――」
「それは伊地知が手配済みだから大丈夫。今日の夜には綺麗にスキャンされたデータが日車先生の端末に送られてくるよ」
五条が日車の言葉を遮った。
「それよりも日車先生にはもっと大事な仕事があるんだ」
「ちょっと五条。人手不足なのは分かるけど、今日は無理はさせないでくれ」
分かってる分かってる、と五条はいたって軽い調子で答えた。
「そんなに大変な仕事じゃないよ。でも日車先生と巽さんにしかできない重要な仕事だ」
五条の言葉に梓紗は顔を強張らせた。日車の表情も少しだけ険しいものになる。補助監督を通さずに五条が直接依頼してきた仕事ならば相応の覚悟が必要だろう。高専で働き始めてから日の浅い日車でも総監部をトップに据える保守派と五条が対立しているのは知っているし、五条の理念に賛同する呪術師に対して保守派が影に日向に嫌がらせをしているのも知っていた。五条は緊張する日車と梓紗の顔を見て、ニヤリと笑う。
「やるでしょ、親睦会!」
* * *
「じゃ、これからは三人四脚で頑張ろう! かんぱーい!」
「か、乾杯……」
五条はテンション高くシャンパングラスを掲げた。梓紗もおずおずといった様子でティーカップを軽く掲げた。日車も二人に倣ってカップを軽く持ち上げた。
二人が五条に連れてこられたのは三ツ星ホテルのレストランだ。日車が梓紗に結界術を教える件について様々な審議を経てようやく許可が下りたとのことで、そのお祝いも兼ねてのスイーツブッフェだそうだ。案内されたのは窓際のソファー席で、ホテル自慢の庭園と都の有形文化財だという洋館が良く見える。三人の他には女子大生のグループやカップル、何かのお祝いと思しき家族連ればかり。誰もが特別な時間を過ごすために着飾っていた。
「なんだよテンション低いなぁ。巽さん、もしかして緊張してんの?」
強めの炭酸をものともせずにグラスの中身を一気に半分まで減らした五条が梓紗に絡む。もちろん五条のグラスの中身はシャンパンではない。そもそも酒ですらない。苺のシロップをハープで香り付けをしたソーダで割ったドリンクだ。
「緊張というか、場違いじゃないかと思って……」
「そう? 僕はそう思わないけど」
――確かに逆に馴染んでる気はするな。
日車はコーヒーを啜りながら周囲を見回した。
他人の容姿にそれほど興味を持っていない日車だが、そんな彼でも五条の容姿が世間一般では整っている部類に含まれるのは分かる。身長も高くて手足も長い。着ている服もシンプルでラフではあるものの仕立ての良いものばかりだ。一方、梓紗と日車は黒スーツである。ここまで服のテイストが違うとかえって「撮影のためにホテルを訪れたモデルとスタッフ二人」という組み合わせに見えなくもない。実際、日車が料理を取りに行ったときにすれ違ったマダムたちが五条を見て、あのモデルさんは誰だろう、と小声で話しているのが聞こえた。
「でもどうして親睦会でスイーツブッフェなんですか?」
梓紗はテーブルの上に所狭しと並ぶケーキやゼリーを眺めながら五条に訊ねた。ケーキの大半は五条の皿に乗っている。梓紗の皿の上にはイチゴタルトとムースケーキだけ。日車に至ってはローストビーフと海老のマリネで、もはやスイーツですらない。
「理由はいろいろあるよ。ちょうど三時のおやつの時間だし、ケーキにしか興味ない僕もセイボリーにしか興味ない日車先生も満足できるし、費用は経費にできる」
「経費……」
梓紗は何か言いたげに口をもごもごさせていたが、黙ってイチゴムースを掬った。これは経費にはならないのでは、といったところだろう。
「それにしても日車先生が巽さんに結界術を教えるって言い出すとは思わなかったなぁ。大丈夫? 相談料請求されてない?」
「はい?」
「あれ? 日車先生の武勇伝、知らない?」
「おい……」
渋い顔をする日車に向かって五条は意地の悪い笑みを向ける。そして真っ赤なドームケーキを口の中に放り込みながら、梓紗に池袋での日車の「武勇伝」を語り始めた。スーツを着たまま風呂に入っていたこと。悪徳弁護士を演じてみたかった、と説得を試みた虎杖に対して三○分五千円の相談料を吹っ掛けたこと。領域内の模擬裁判でまだ十代半ばの虎杖相手に容赦なく有罪を取りにいったこと。ハイになっていた時の言動を掘り返されることほど恥ずかしいものはない。かといってこの場から離れたら五条が梓紗に何を吹き込むのか分からない。日車には、己の黒歴史を聞きながら食事をする以外の選択肢など残されていないのである。日車は極力二人の顔を見ないようにしながらマリネを口に運ぶ作業を繰り返した。
「その……結構思い切ったことをされてたんですね。スーツでお風呂とか」
一通り話を聞いた梓紗は困ったように曖昧な感想を述べた。
「『やってはいけないと思い込んでいたことにチャレンジ』してたんだってさ」
「もうその話はいいだろう」
「えー、なんでー? 僕、その精神が日車先生の強さの秘密だと思ってんだけど」
五条は急に真面目な話へとハンドルを切った。梓紗は慌てて背筋を伸ばす。
「着衣風呂ってさ、自由な発想とそれを実践してみるフットワークの軽さが凝縮されたエピソードだよね。大抵はそういう発想に至らないし、思いついてもやらない」
五条はショートケーキを二口で平らげて、イチゴソーダを飲み干した。
「でも日車先生はその二つのハードルを越えてきた。これって術式と向き合う上ではめちゃくちゃ大事なことだよ。解釈の独自性と柔軟性は手の内を悟られにくくするし、まずはやってみるっていうのは土壇場での決断にプラスになる。ま、それも地力があるのが前提なんだけどさ」
五条はチョコレートファウンテンにフルーツが追加されたのを目敏く見つけたらしく、チョコを浴びてくると言って席を立ってしまった。
「五条さん、行っちゃいましたね」
梓紗はチョコレートファウンテンのあるあたりを見つめて笑った。
「君は行かなくていいのか?」
「ええ。ケーキとムースとフルーツだけでお腹いっぱいになりそうなので。やっぱり男性は食べる量が違いますね」
「あれは度を越えているだろ」
「確かに」
梓紗は苦笑しながら、イチゴムースを食べた。
「俺で良かったのか?」
不意に日車が呟く。
「何がです?」
梓紗は不思議そうな顔をして日車を見つめる。
「血清精製の任務のことだ。本当に相手は俺で良かったのか? 他に引き受け手がいなかったとはいえ、俺みたいな殺じ――」
「日車さんが、良かったんです」
梓紗が日車の言葉を遮り、はっきりとそう言った。思ったよりも大きな声が出てしまったらしく、梓紗は少し狼狽えている。
「俺が高専に来た理由を知っているのか?」
「知っています」
彼女の答えは冷たい鉛となって日車の中に入り込み、心臓を冷やしていった。取り繕うために飲んだコーヒーも淹れてから時間が経ってしまったせいで嫌な酸味が口に残る。
――知らないわけはない、か。
事件を起こしたときには彼女は既に高専の補助監督だった。現場に出なくとも噂くらいは耳にするだろう。むしろ何故知らないと思い込んだのか。
「厳密に言うと、仙台で起きたことの概要は知っていました。ただ誰がやったか、という情報までは関係者以外には知らされていません。日車さんが当事者だったと気付いたのはつい最近です」
「それでも俺がいい、と。今でもそう思うのか?」
「はい。日車さんなら大丈夫だと思えるので」
日車は梓紗から顔を背け、皿に残った肉を口につめ込んで咀嚼する。重苦しい沈黙が二人のテーブルに漂う。肉にかかっていたソースが真っ白な皿の上で赤黒い染みを作り、やけに汚らしく見えた。
「俺を信用してくれるのはありがたいと思う。だが元弁護人とはいえ、どうしてそこまで信じられる?」
「日車さんは私の言葉を信じてくださったから」
日車は怪訝そうに片眉を上げた。梓紗はスプーンを置き、日車に向き直る。そしてゆっくりと、けれどしっかりとした意思を持って語り出した。
「私の弁護人になってくださった時、どう考えても検察の筋書きの方がそれらしいのに日車さんは私の言葉を信じてくださったじゃないですか」
「弁護人が被疑者の言葉を信じなかったら他に誰が信じると言うんだ。それに検察の描いたストーリーが道理にかなっていても、それが正しいとは限らないだろう」
「それはそうなんですけど、気持ちの問題です。お仕事とはいえ私の支離滅裂で不明瞭な話を、嫌な顔一つせずに根気強く聞いてくださった。そういう人ならきっと大丈夫だと思えたんです」
「……人から『騙されないか心配だ』と言われたことはあるか?」
「論理的でないことは分かってます」
梓紗は残ったイチゴムースをごっそりと掬った。
「それにしても五条さん、遅いですね。それほど混みあってるわけでもないのに」
「仕事の電話でもかかって――」
日車がその先を続けることは無かった。否、正確には窓の外に視線が釘付けになってしまい、言葉を発するのを忘れてしまった。そのただならぬ様子に、梓紗は日車の視線を辿る。
「ッ! 日車さん、あれ……」
日車の目を奪ったものは洋館の屋根の上に居た。建物の中央にある尖塔。その先端に巨大な梟の姿をした呪霊が止まっていた。三本ある脚で他の呪霊をしっかりと掴み、その体を啄んでいる。
「ざっと見積もって二級、あるいはもう少し上かもしれん」
――いけるか?
日車は己に問いかける。あの姿からして対空戦となるのは間違いなさそうだ。術式を没収したとしても飛び道具を持たないこちら側が圧倒的に不利だ。
「君は高専に状況を報告してくれ。高専側があの呪霊の存在を把握しているようなら、こちらは待機。把握していないようなら応援要請を頼む」
「分かりました」
「それと、五条を探してきて欲しい。荷物がこちらにあるから近くにいるはずだ」
「僕がどうかした?」
噂をすればなんとやら。五条がテーブルに戻ってきた。右手の皿にはチョコレートのかかったフルーツが山盛りになっている。
「五条さん、ホテルの敷地内にある洋館の屋根の上に呪霊が出現しました。これから高専に連絡してきます」
「うん。連絡しなくていいよ。もう把握してるから」
「はい?」
「あれね、僕が祓うことになってんの。で、担当補助監督が巽さん。日車先生は……付き添いかな」
「そういうことなら先に言ってくれ……」
日車は呆れたように呻いてソファにもたれかかる。
五条の言っていた親睦会でスイーツブッフェにした「いろいろな」理由。その一つがあの呪霊だったのだろう。確かにこの場所からなら呪霊の様子もよく観察できるし、一般客を怪しませないためであればスイーツブッフェ代も経費計上できる。
「本命は明日だったんだ。今日は様子見だけのつもりだったんだけど、出てきちゃったみたいだね」
「あ、あの、担当補助監督って……」
「ん? ああ、そのまんまの意味だよ。これから僕が祓いに行くから巽さんは帳を下してくれる?」
「そ、そんな!」
「大丈夫だって。八割くらいはできてんだから。あとは実地訓練あるのみ! じゃ、行っくよー」
呆然とする梓紗と未だソファに沈んだままの日車に向かって、五条はテンション高く宣言した。
外に出た三人は遠巻きに呪霊の様子を窺う。呪霊は「食事」に夢中でこちらには気付いていないようだった。
「支配人とはもう話をつけてて、一般人が立ち入らないように手配してくれてる。巽さんは洋館を中心に、あの簡易フェンスがあるあたりまでの大きさの帳を下してくれればいいから」
「わ、分かりました……」
「日車先生、巽さんのサポートよろしくね。じゃ、頼んだよ」
五条は二人に向かってひらひらと手を振ると、さも普通の通行人かのように洋館へ近付いていった。
「落ち着いて……呪力を流して……」
日車の耳に梓紗の独り言が飛び込んできた。両肩が不自然に上がり、掌印を結んだ手が小刻みに震えている。傍目に見ても可哀想なくらい緊張していた。
「巽」
「ッはい!」
「少し体に触るぞ」
日車は一言断りを入れて、梓紗の右肩に己の手を置いた。日車の掌が肩に触れた瞬間、梓紗の体が大きく跳ねた。
「緊張した時は自分の体の感覚に集中するといい。今は俺の手が乗ってる肩に意識を向けるんだ。体温、手の重さ、それらを受けて自分の体がどう変化するのかを感じ取れ」
「わ、分かりました」
「そのままゆっくり深呼吸を」
梓紗は日車に言われるがまま、ゆっくりと呼吸をする。呼吸をする度に力が抜けていき、不自然な位置で固定されていた肩が正しい場所に戻っていく。
「頭の中で洋館を覆うドームをイメージするんだ。ああ、さっき五条が食べていたドームケーキでもいい。表面に赤いゼリーの層があっただろう。あれを作るようなイメージで呪力を流せばいい」
日車は指先で宙に大きな半円を描いて見せる。梓紗の視線も指先を追って大きな弧を描く。梓紗はもう一度深呼吸をしてから掌印を結び直した。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
ちょうど呪霊の真上から真っ黒な液体が溢れてくる。呪力でできたその液体はあっという間に洋館を覆い、簡易フェンスすれすれの位置で地面に到達した。帳が完成する直前、五条は二人のいる方を向いてニカっと笑って親指を立てた。
「で、できた……」
梓紗はぽかんと口を開けて、帳を見続けていた。
「良かったじゃないか」
日車は梓紗の肩を軽くゆすって手を離した。じわじわと実感が湧いてきたらしく、梓紗は両手で口元を覆って小さく喜びの悲鳴を上げた。
「日車さんのお陰です。ありがとうございます」
「礼なら五条に言ってくれ。俺は何もしてない」
「さっきサポートしてくださったじゃないですか。一人だったらきっと失敗していました」
溢れんばかりの笑顔で梓紗はもう一度日車に礼を言った。日車はどうにもむず痒い気持ちになり、顔を逸らす。
「……巽は、もう少し自信を持った方が良い。それにまだ五条が帳から出てきてないぞ。五条ならまず大丈夫だろうが、祓い終わるまでは何が起こるか分からん。あまり気を抜くな」
「すみません!」
梓紗は慌てて表情を引き締めて真っ黒なドームを見つめる。
ふと日車の脳裏に先日の倉庫での問いが浮かぶ。何故不器用な彼女に不快感を抱かないのか。日車はその答えを掴みかける。だが帳が上がって五条が出てきたことに気を取られた隙に、その答えは日車の指の間をすり抜けて消えてしまった。
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