二〇一九年四月 清明

 夕暮れ時の道場。日車は梓紗と共に真剣な面持ちで床に円形に並べられた呪符を見つめていた。梓紗は片膝をついて両手を畳の上につけている。日車の携帯から無機質な電子音が鳴り響く。梓紗は呻き声を上げて畳から手を離してその場に座り込んだ。すると円陣を組む呪符の中央に灰色のポリバケツが現れた。
「もうこんな時間か。次で最後にしよう。今度は呪符を使わずにやってみてくれ」
「はい」
 二人は結界術の訓練の真っ最中である。毎週木曜日の仕事終わりに道場や体育館を借りて「隠す結界」を張る練習をしていた。帳と似ているし、結果が視覚に現れるので成功したかどうかもすぐに分かるからだ。
 伊地知の言うように、梓紗は飲み込みが早かった。教科書的な説明はすぐに理解したし積極的に質問もする。おかげで呪符を使う結界はすぐに習得できた。だが空間認識能力が低いようで、呪符を使わずに結界を張るのにはかなり手こずっていた。呪符のように何か目印がないと具体的な結界のイメージが描けないようだった。
 梓紗は額の汗を拭って、バケツを取り囲んでいた呪符を片付ける。そして大きく息を吐いてから掌印を結んだ。バケツは外側から透けていき、全体が半透明になる。だが変化はそこで止まってしまった。しばらく梓紗はバケツと睨めっこしていたものの、それ以上透明になることはなかった。
「そこまで」
 日車の声掛けを合図に梓紗は掌印を解いた。半透明だったバケツは画面が切り替わるように色を取り戻す。
「繰り返しにはなるが、呪力量が少な過ぎる。斑になってもいいからもう少し増やしてみろ」
「すみません。せっかくお時間いただいているのに……」
「気にするな。最初はこんなものだろう。高専一年生の時に練習を始めて卒業するぎりぎりのタイミングで何とか習得した、なんて話も聞いたことがある。そう焦らなくてもいい」
「そう、ですね。地道にやるしかないですよね」
「バケツが透け始めてから状態が安定するまでの時間は短くなってるんだ。安定して結界が張れるようになったのは大きな進歩だろう。できないことだけでなく、できるようになったことにも目を向けた方がいいぞ」
「はい」
 ありがとうございます、と梓紗は一礼してバケツと呪符を片付け始める。
「もう帰らないといけない時間なんじゃないのか? 片付けと戸締りは俺がしておくから巽は先に帰っていいぞ」
「お気遣いありがとうございます。実は昨日から祖父が遠方の親戚に会いに行っていて、今は一人なんです。だから今日は時間をそこまで気にしなくても大丈夫なんです」
「そうだったのか」
「久し振りの一人暮らしで少しほっとできると思ったんですけど、落ち着きませんね。やっぱりなんとなく淋しいというか」
「それなら、一緒に食事でもどうだ?」
 梓紗は呪符を片付ける手を止めた。
「次の任務まで三時間あるからそれまでに食事を済ませておきたい。どうせなら一人より二人の方が良いと思ったんだ。任務前だから酒は飲めないし、それほどゆっくりもできないが」
「いえ、誘っていただいて嬉しいです! 私で良ければぜひご一緒させてください」
「なら鍵の返却は俺がやっておくから、呪符の破棄を頼む」
「分かりました。校門を出たところで落ち合いましょう」
「ああ」
 梓紗は嬉しそうに自分の荷物と呪符を抱えて日車に会釈をしてから道場を出た。

 道場に残った日車は換気のために開けていた窓を閉めて回りながら、どの店に行こうかと考えていた。一人なら多少汚くても分煙が不完全でも構わないが、彼女と一緒ならそういうわけにもいかない。伊地知に教えてもらった洋食店はどうだろうか。高専でも一二を争うグルメだという七海が頻繁に訪ねていた店だという。好みはあれど味に間違いはないだろう。
 ふと日車は道場の窓に自分の顔が映っているのに気付いた。自分でも見たことがないようなにやけ顔に日車はぎょっとする。
「子どもか」
 そして自分の虚像を揶揄する。窓の向こうの日車の口元がぐにゃりと歪んだ。
 よく考えてもみろ。彼女の立場では誘いを受ける以外の選択肢はなかっただろう。男と女、呪術師と補助監督、教える側と教わる側。身休的にも権力的にも差があるのだ。それなのに何を勘違いして浮かれているんだ。呆れて物も言えない。
 ――浮かれているのか?
 日車ははたと足を止める。
 浮かれていること自体はいい。現実に浮かれているとしか言いようのない状態になっているのだから。そこは認めるしかないだろう。
 問題は何故浮かれているのか、だ。一般論として、食事に誘った相手からポジティブな反応が返ってきたらそれなりに嬉しい。けれど常に今日と同じ様に浮足立つかと問われれば答えはノーだ。過去に同じことが起きたのは随分昔の話――それこそ学生時代に密かに想いを寄せていた同期を飲みに誘った時だった。
「……まさか」
 だがそうとしか思えない。
 日車は己の導き出した答えに心底幻滅した。信じたくないとすら思った。だが過去の経験と照らし合わせるとどう足掻いてもその答えにたどり着いてしまう。しかもその仮説に則ってこれまでの感情の動きを分析すると、自身の不可解な心の動きがすっきりと説明できるのだ。例えば先日の親睦会。日車は五条と梓紗が親しく談笑しているのを見て、なんとも重苦しい気分になった。自分がひどく場違いな気がして、どういうわけだか気分が落ち込んだ。だから何故自分を血清精製の相手に選んだのかという至極面倒な質問をしてしまったのである。けれど理由は火を見るより明らかだ。どういうわけだか、ではない。そういうわけである。
 日車は半ば投げ入れるようにバケツを掃除用具入れに片付けた。彼女を人として好ましく思っていることは認めていた。不器用ながらも自分にできることは何か、そのためには何をすればいいのかを考えて頑張っている姿は好感が持てるし、高専で働くようになった経緯も似ていて親近感も持っていた。人当たりも良いし、信頼も寄せてくれている。好意を抱く下地はあった。
 けれどこれが本当に好意と呼べるものなのか日車には分からなかった。任務の過程で情が湧いたのを恋だと勘違いしているのではないか。彼女の毒の催淫作用のせいではないのだろうか。そんな疑念が水を差す。
 日車の胸ポケットの中でスマホが震えた。確認すると梓紗からメッセージが届いていた。
『先ほど呪符の処分が終わりました。追加の手続きが必要なので遅くなります』
 絵文字もスタンプも使われていないそっけないメッセージである。だがそのそっけなさがかえって日車の気持ちを落ち着かせてくれた。
 日車は同じような温度感のメッセージを送って、道場の明かりを消した。

 二人は次の現場近くにある小さな洋食屋に入ることにした。店は梓紗の提案である。やはり七海の行きつけの店で、煮込み料理が売りなのだという。七海は歩くグルメガイドだと笑う梓紗に、日車は曖昧な笑みで返した。
 店に入ると二人は二階の少し奥まった席に通された。木目の風合いが味わい深い飴色の柱が程よく他の客の視線を遮ってくれる。道場で立てた仮説のせいで少々過敏になっている日車は、通された席の選択に存在しない店主からのお節介を感じ取ってしまって内心苦々しく感じていた。
「日車さん、もしかして和食の気分でしたか?」
 それぞれが好きな料理を注文して店員が去ったあと、梓紗は小声で日車に訊ねた。
「何故そう思う?」
「その、ずっと険しい顔をされてるので」
「……済まない。次の任務のことを考えていた」
 日車は梓紗に小さな嘘を吐いた。罪悪感で日車の心がちくちくと痛む。
「どんな任務だか聞いてもいいですか?」
「最近流行っているホラーゲームのモデルになった場所で呪霊が発生したんだ。なんでも作中に登場する『イケメンすぎる僧侶」が惨殺された場所らしい。ファンの間では聖地になっていて、聖地巡礼をする若者が呪霊の被害に遭っているそうだ」
「そのホラーゲームってもしかして――」
 梓紗が口にした名前はまさに日車が担当している任務に出てくるゲームの名前だった。彼女によると厳密にはホラー乙女ゲームに分類されるらしい。今流行っているのは改訂版で、霊媒師たちだけでなく悪霊も攻略できるようになったのだという。そして一番の売りはハッピーエンドとバッドエンドの他に霊媒師勝利パターンと悪霊勝利パターンの四種類が用意されていることだった。組み合わせによってキャラクターの雰囲気がガラリと変わるため、特定のルート以外は認めないというような過激なファンも多いのが特徴らしい。今回問題になっている僧侶キャラはその霊媒師サイドの攻略キャラクターなのだそうだ。
「妙に詳しいな」
「前の職場の後輩が好きだったんですよ。彼女は僧侶キャラのファンではなかったらしいんですけど、そのシーンは作中屈指の鬱展開らしくて逆に人気らしいです」
「逆に」
 日車の脳裏に以前一緒に働いていた先輩弁護士の姿が浮かんできた。飲み会で娘の趣味が分からないと嘆いていたが、きっとこんな気分だったのだろう。
「それで、君はそのゲームをプレイしたことはあるのか?」
「ええ。スマホアプリ版があるので一通りは」
「ならその人気だというシーンについて詳しく教えてもらえるか? 俺も担当補助監督も乙女ゲームとやらには疎い。何か見落としがあるかもしれん」
「分かりました」
 
 日車は熱々の煮込み料理を食べながら、血腥い乙女ゲームのワンシーンについて梓紗からのレクチャーを受けた。日車の予想通り、誤った意味付けをしていた事象がいくつか見つかったし、被呪者たちの解呪の糸口となりそうな情報も得られた。仕事の話ではあったが、梓紗と一緒に知恵を絞って議論するのは嫌ではなかった。むしろ日車には心地よく感じられた。
「ありがとう。巽のお陰でスムーズに祓えそうだ」
「いえ、そんな……」
「悪かったな。結局仕事の話をしてしまって」
「気にしないでください。呪術師の皆さんがどう考えるか、どんな情報が必要になるのかを知ることができましたし、なにより日車さんのお役に立てて嬉しかったので」
「……そうか」
 無意識の領域に押し込んでいた好意が再び鎌首をもたげる。それも淡い期待を引っ提げて。厄介なことに、好意というものは相手の全てが愛おしく見えるように仕向けてくる。今の日車には梓紗の表情やちょっとした仕草などが輝いて見えた。それがまた恋心を増幅させる。
 日車は片肘を付いて口元を隠した。
 ――まずいな。
 この状態で抗体産生作業ができるのか? 意識する前から催淫作用でどうにかなりそうだった。このままではきっと彼女を傷付けてしまう。じゃあ取りやめにするか? だが何と言って? どう言い訳しても角が立つし彼女を傷付ける。
「日車さん? 大丈夫ですか?」
 倉庫前で顔面蒼白になった時のことが思い出されたのだろう。梓紗は心配そうに日車の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫だ。別の任務のことが気になったんだ」
 日車はあえてミスリードを誘う言い方をする。
「明日は千葉の方で祓除任務でしたよね。一級相当の呪霊が出たとかで」
 梓紗は特に不審がる様子もなく話を進める。
「ああ。日帰りだから移動時間の方が長くなる」
「宿泊できる距離なんですから一泊しても良かったんじゃないですか? 伊地知さんが心配していましたよ。ずっと任務だ自主訓練だとかで休んでいるのを見たことがない。オーバーワークなんじゃないかって」
「伊地知は人の心配をしてる場合じゃないだろう」
「ふふ。家入さんも同じことおっしゃってました」
 不意に会話が途切れ、他の客の話し声や食器同士がぶつかる硬い音が日車の耳に飛び込んできた。
「日車さんって呪術師になる前はお休みの日には何をして過ごしてらしたんですか?」
「休みの日か……」
 日車は記憶の戸棚をひっくり返す。呪術師になってまだ半年も経っていないのに随分と前のことのように思えた。
「勉強と、家事と……あとは体力が落ちないようにジムに通っていたくらいか」
 言葉にしてみると随分と味気ない。日車はさらに古い記憶を探してみる。趣味と呼べるものがあったはずなのだが、どうしても思い出せなかった。
「体を動かすのがお好きなんですね」
 梓紗のフォローも、どこか無理があるように思えて居たたまれない。仕事のために生きているつもりはなかったが、いつの間にかそうなっていたらしい。少し前の日車であればそれでも構わない、むしろ何が悪いのだろうとすら思っただろう。だが梓紗が同じように考えてくれるかは別問題である。この年齢でこんなことで悩むとは。情けなさと後悔が日車に襲い掛かる。
「君は? 休みの日は何をして過ごしてるんだ?」
 それを誤魔化すように日車は梓紗に訊ねた。
「私も似たようなものですよ。一人暮らしをしていたころは植物園とか植物公園によく行ってましたけど」
「花が好きなのか?」
「ええ。盛りの時期はものすごく混みますけど、やっぱり見ごたえがありますよ。前に藤の名所に行ったことがあるんですけど本当に素敵でした。なんだか別世界みたいで」
「それは見てみたいな」
「もし良かったら一緒に行きませんか?」
 日車の世界から音が消えた。
「そろそろシーズンなんです。チケットなんかは私が手配しますので日車さんさえ良ければご一緒にいかがでしょう」
 梓紗は期待と不安が入り混じった表情で日車を見つめる。
 ――駄目だな。
 潔く認めるしかない。
「俺で良ければ、ぜひ」
「良かった……断られたらどうしようかと思いました。年によって開花状況が異なりますので日程については――」
 喜色満面で今後の予定について話す梓紗に、日車の表情も自然と柔らかいものとなる。
 ――藤の時期までは死ねないな。
 日車は呪術師になって初めて、少し先の未来のことを考えた。

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