日車は重い足取りを引きずって梓紗の待つ特別病室行きのエレベーターに乗り込んだ。今日は毒の投与日だ。繁忙期真っ只中ではあるが、家入の事前問診では所見なし。至って健康体であった。
植物公園に行ったあの日、二人は互いの気持ちを確認しないまま帰宅した。日車自身はお互いにお互いを想い合っていると認識している。帰りの車内では甘くて心地よい沈黙が漂っていたし、別れ際には梓紗にねだられて二度目のキスもした。本人に聞いてみないことには本当のところは分からないが、梓紗の性格を考えれば九割方そうだろう。日車は曖昧な関係のままにしておくつもりはなかった。だがそれには然るべきタイミングと然るべき場所が必要だとも考えていた。少なくとも最繁忙期の今ではない。そう思っていたのである。
だが時が経つにつれて、日車の中で憂鬱の虫が騒ぎ始めた。原因は梓紗の祖父の存在である。新田の話では、片っ端から見合いを持ち掛けていたという。それ自体は梓紗が方々に頭を下げて収めたようだったが、果たしてあの行動力の塊のような人がそれで大人しくしているだろうか。梓紗が知らないだけで、また相手探しに奔走しているのではないだろうか。それに高専所属の呪術師の実家に突撃していったことも気にかかる。五条家の日誌によれば巽家は昭和初期には呪術界との繋がりが途絶えているはずだ。ではどうやって高専の呪術師たちの実家を探しあてたのだろうか。繋がりが途絶えたと思っているのは外の人間だけで、本当は細々と付き合いがあるのでは? そして梓紗の与り知らないところで、その繋がりから誰かとの婚約が決まっていたとしたら。呪術師の世界は未だに戦前の価値観を引きずっているように見える。決してあり得ない話でもないように思えた。
梓紗が他の男に奪われると思うと腸が煮えくり返る。だが連日の疲労で活発になった憂鬱の虫は日車にこんなことも考えさせた。人殺しと一緒にいるよりも見ず知らずの呪術師の方が梓紗は幸せなのではないか、と。
日車の事件は「諸々の事情を考慮して」不起訴となった。そして総監部による呪詛師認定も取り下げられて、軽い処分で済んでしまった。釈然としない日車に対して、五条は呪術師の仕事は終身刑みたいなものだと言った。だが日車はしかるべき手続きを経て、公の場で裁きを受けたかった。遺族にとっては有罪判決が区切りとなり前を向くきっかけとなるのだ。日車が確実にできる償いは公の場で罪を認め、有罪判決を受けることだと考えていたのである。その機会を失い、日車は行き場のない思いを抱えていた。それはいつしか幻覚や悪夢となって日車を襲うようになる。梓紗と一緒にいると平気なのだが、一人の時はどうしようもなかった。そんな人間と一緒にいて梓紗は幸せかと問われると、どうしても疑問符が付く。そもそも、まだ自分の気持ちも伝えていないのに梓紗を「奪われる」と思ってしまうあたりが既に良くなかった。傲慢なエゴイスト。そんな言葉が日車の頭に浮かんだ。
間の抜けた電子音と共にエレベーターのドアが開く。すると、少し離れた待合スペースに梓紗がいた。隣の椅子にコンビニのビニール袋を置き、膝の上のノートパソコンで仕事をしていた。日車の到着にすぐに気が付いたようで、急いでノートパソコンを閉じていた。
「お久しぶりです」
「植物公園以来か?」
「そうですね。二週間ぶりくらいです」
「もっと前のような気がしていたんだが、そんなものか」
「本当に。一日一日は長く感じるのに一週間があっという間に過ぎていきますよね」
梓紗は植物公園に行く前までと変わらない様子で日車に話しかける。それが日車には淋しくもあり、少しほっとするようでもあった。
「今日は三〇一号室だそうです」
「分かった」
日車は梓紗の隣のビニール袋をひょいと持ち上げた。
「すみません! 私が持ちますから大丈夫です」
「良いんだ。俺が作業終わりに飲むための物だろう? 自分の飲み物くらい自分で運ぶさ」
行くぞ、と日車は言って病室に向かう。梓紗は小走りでその後ろを追いかけていった。
病室に入って、諸々の準備を済ませた二人はいつものようにベッドの端に並んで座った。やはり何となく気まずいのか、作業を始めるでもなくお互いに黙ったままだった。アイスブレイクのための話題を探していると、新田の顔が頭に浮かんだ。そして一つの疑問が生まれる。
「聞いてもいいか」
「なんでしょう」
「その、君のご家族は血清精製について知っているのか?」
「祖父には話していません。また大騒ぎして皆さんにご迷惑をおかけしてしまうでしょうから」
「そう、かもしれないな」
「もしかして、誰かからお見合い騒ぎのお話を聞きました?」
日車は黙って頷く。それを見た梓紗は呻き声をあげながら両手で顔を覆った。
「すまない。詮索するつもりはなかったんだが」
「いいんです。いつかは知られちゃうだろうなとは思っていたので。ただ、それはそれとして日車さんには知られたくなかった……」
そう言いながら梓紗は深いため息を吐いた。
「それだけ巽のことを心配しているんじゃないのか?」
「――」
一瞬、梓紗の顔から表情が抜け落ちる。何かを呟いたようだったが日車には聞き取れなかった。
「心配するならせめてちゃんと売り込んでほしいです。私のことオールドミスって紹介して回ってたんですよ? ひどくないですか?」
彼女はすぐにいつもの笑顔に戻った。先程の真顔は気のせいのようにも思えたが、拭いきれない違和感がある。
「久しぶりにその言葉を聞いたな」
「確かに祖父の世代の人からすれば私はオールドミスになるんでしょうけど、そう言われて『では息子に会わせましょう』なんて展開になるわけがないじゃないですか。それ以前の問題として私に断りもなく見合い相手を探すこと自体が信じられないんですけどね。しかも高専で働きだしてすぐですよ? あんな事件があって何とか釈放された直後に見合いなんかさせますか、普通」
――ハイになっているな。
日車は梓紗の話に相槌を打ちながら、彼女の様子を冷静に観察した。
彼女から聞く家族の話には両親が登場しない。彼女の収入で生活していると言っていたから、別居しているのだろう。もしかすると疎遠になっているのかもしれない。他に頼れる人もいない状況で仕事も祖父の世話もというのは相当にストレスが溜まるはずだ。こうして吐き出すことで気持ちが晴れるのなら、いくらでも相手になろうと思う。
その一方で日車の直感が「彼女は隠し事をしている」と告げていた。ひたすらに喋り続けて日車に質問の隙を与えないようにしている。そんな風に思えてならなかった。梓紗とは初めに「今回は隠し事はしない」という約束を交わしている。それを意味もなく破るとは思えない。単にストレスのせいで様子がおかしくなっただけの可能性も大いにあるのだが、そうでないのだとしたら何か深刻な困りごとがあるのではないだろうか。
「巽」
日車は梓紗の言葉を遮った。
「俺は君を助けたいと思っている。弁護士資格は無いがそれなりに法律の知識はあるし、一応これでも一級呪術師だからその立場でできることもあるだろう。もし何か困っているんだったら手遅れになる前に教えてほしい」
梓紗は口を噤んだ。そして困ったように眉尻を下げた。
「日車さんには隠し事はできませんね」
不意に梓紗が日車との距離を詰めた。彼女の使っている化粧品の香りだろうか。上品な甘い香りがする。
「術式の実験台になっていただけませんか?」
「実験台?」
「もしかしたら毒の効果のバランスを自分の意思でチューニングできるんじゃないかと思ったんです」
梓紗曰く、被害者三人のことを思い出した際にふとそれぞれの症状の出方が異なっていることに気付いたのだという。最初は相手の体格の違いや自分の能力にムラがあるせいだと思っていたが、それだけでは説明しきれないように感じたらしい。そして一人で訓練していたのだそうだ。
「今はまだ二つ目の効果だけですが、これが成功すればきっと一つ目の効果も出力を調整できると思うんです」
「その、効果の配分は自分で分かるのか?」
「なんとなく、といったところです。なのできちんと思った通りの配分になっているのかどうかを日車さんで確かめたくって」
家入さんにも了承してもらってます、と梓紗は付け加えた。
――本当にそれだけなのか?
日車の疑念は解消されなかった。だがそれはそれとして、毒の効果がチューニングできるのであれば随分と安心できる。梓紗自身もいたずらに人を害する可能性がぐっと低くなるし、日車を悩ませている催淫効果についても効果が弱まる。成功すれば様々な心配が一気になくなるのだ。
「分かった。協力しよう」
「ありがとうございます! そうしたら万が一に備えて、日車さんの呪力量は少し多めでお願いします」
「少し多めだな」
梓紗はいつも投与の時にしているように日車にキスをした。
どくん。
日車の心臓が激しく脈打つ。視界が歪み、体が熱くなる。甘い。彼女の唾液も体臭も全てが痺れるくらい甘く感じられた。
日車は慌てて梓紗の体を引き剥がした。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……だが実験は失敗しているな。二つ目の効果が強く出ている」
「すみません。間違えました」
梓紗はベッドに上がって日車と向かい合うように跨った。むに、と日車の胸板に梓紗の胸が押し付けられる。
「まち、がえた?」
「ええ。間違えて二つ目の効果を強めてしまいました」
「ッ、どういう、つもりだ?」
「どう、とは?」
「間違えた、というのは、嘘だろう? 俺にまだ、隠していることがあるんじゃ、ないのか?」
梓紗の体が強張った。二つ目の効果はそれほど持続しないようで、日車の乱れた心拍は少しずつ落ち着きを取り戻した。日車は後ずさって梓紗の体の下から抜け出し、ベッドの上に胡坐を掻いた。梓紗も観念したようで、日車を追いかけることはせずにぺたりとその場に横座りになった。
「君が、問題を抱えているのは何となく分かった。俺にこんなことをする程度には切羽詰まってるんだろう。だからこそ、ちゃんと理由を話してほしい」
「……すみません。言えません」
「俺では力不足ということか?」
「そうではなく、これ以上は話せないんです。分かってください」
「話したくない、ではなく、話せない。そういうことか?」
梓紗は黙って頷いた。
日車は思考を巡らせる。話せない、という表現からは二つの可能性が読み取れる。話すことを禁じられているというのだとしたら脅迫が疑われるし、ピンポイントでその話題について話す能力が失われたのだとしたらそれは呪いの仕業だ。ざっと見た限りでは誰かに呪われている形跡はない。だから少なくとも術式による効果ではないのだろう。
――縛りを結ばされたか?
呪術師は他者と縛りを結ぶことを何よりも警戒する。破った際のペナルティがどのような形で与えられるかが分からないからだ。そして誰と誰が縛りを結んでいるのかは第三者からは分からない。それを利用して強制的に何かの縛りを結ばされたのだとしたら、彼女のあの反応も頷ける。そしてもし本当に縛りなのだとしたら、理由を聞きだすのはまず無理だろう。
「なら代わりにいくつか質問をさせてくれ。その答えでもって判断する。話せないことについては黙っていても構わない」
「……分かりました」
「一つ、アドバイスをしておこう。人は沈黙にも意味を見出してしまうことがある。黙っているからには何か後ろめたいことがあるんだろう、というやつだ。何を話して何を話さないかは慎重に選ぶ必要がある」
言いたいことは分かるな。
日車が言外に込めたメッセージを梓紗はきちんと受け取ったらしい。しっかりと日車の目を見て頷いた。
いくつかの質問の結果、日車は梓紗は誰かに脅されて縛りを結んでいる可能性があると結論付けた。詳しい内容までは分からなかったが、その相手が不利になるような言動は制限されているようだった。
「これが最後の質問だ。さっき魔が差したと言ったな。あれは現実逃避か?」
梓紗の瞳が僅かに揺れる。
「たまに思うんです。私をオールドミスと呼ぶ祖父は孫娘が傷物になったらどうやって売り込むんだろうって」
「巽……?」
日車の頭に恐ろしい可能性が浮かび上がる。身内に対してそんなことをするだろうか。だが、話の流れからそうとしか考えられない。
「もしもの話ですよ? 本当にそうなってしまってはいけないので、そんなことが『起きないように』チューニングの練習をしてみることにしたんです。でもまだ練習中なので『偶然』失敗することもあるじゃないですか」
梓紗の手がシーツを掴んだ。指の関節が白く浮き上がるほどに力が入っている。
「ただ、仮に失敗してしまったとしても、好きな人が相手だったら構わないと思ったんです」
日車の心臓が再び鼓動を速めた。どくどくと全身に血液を送り出す音が外にまで聞こえるんじゃないかというくらい激しく脈動している。
「その、好きな人が、巽のことを乱暴に扱うと思ったことはないのか?」
「ありませんよ。信じてますから」
二人の視線がかち合った。
お互いの手を重ね、そのまま指を絡め合う。そしてどちらともなく唇を重ねた。あの甘い香りが日車の嗅覚を刺激する。かさり、と手首に巻いた呪符が音を立てた。それを合図に日車は梓紗を腕の中に閉じ込めた。唇を舌で割り開き、梓紗の舌の縁をゆっくりとなぞった。梓紗もそれに応えて日車の舌の表面をなぞった。呼吸のために口を開く度に、艶めかしいリップ音がする。梓紗がそのようにチューニングしているのか、はたまた日車が毒の催淫効果を受け入れたからなのか、今は程よく感覚が鈍くなっている。
「――はっ」
「ひぐるま、さん」
日車は軽い力で梓紗の肩を押した。梓紗はその力に抵抗せずに、ベッドに仰向けに寝転んだ。そして彼女の上に跨った日車の首に自らの腕を巻き付ける。
「名前で、呼んでくれませんか?」
「なら君もそうしてくれるか?」
梓紗は返事の代わりに日車の唇を軽く啄んだ。日車もお返しとばかりに梓紗の唇の柔らかさを楽しむように食んだ。日車は毒から与えられる甘い痺れと火照りを甘受しつつ、何度も梓紗の唇にキスを落とした。
「寛見さんってキス魔ですか?」
何度目かのキスのインターバルに梓紗が少々意地悪な笑みを浮かべて日車を揶揄う。
「そうらしいな」
日車は苦笑いをして、梓紗の手を握った。体温の低い彼女の手は心地よく感じられた。
「梓紗、本当に良いのか?」
「ええ。これは『事故』ですから」
「できる限り、無理はさせないようにする」
そう言って、日車はもう一度梓紗にキスをしようとした。
「――ぁ」
どくり、と心臓が不規則な動きをした。
「寛見さん?」
梓紗の心配そうな声が日車の耳にはやけに遠く聞こえる。体を落ち着かせようとゆっくりと呼吸をするが、上手く息が吸えなかった。
「かはっ……あっ……」
日車の体がベッドに沈み込んだ。
日車は何度か呼吸を試みるも、十分な酸素を取り込むことはできなかった。何度も明滅する視界の端で、目を真っ赤に充血させて取り乱す梓紗の姿を捉えた。
大丈夫だ。
日車は梓紗に向かってそう声をかける。だがそれは声にはならずに、ぜーぜーと気道を鳴らしただけだった。
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