二〇一九年六月 芒種

 梓紗はホテルのベッドに腰掛けていた。最上階のスイートルーム。テーブルには花束とリングボックスが置かれている。リングボックスの中では銀の指輪がその出番を待っていた。花束と指輪の贈り主である男性は緊急の連絡が来たと言って客室の外に出てしまってなかなか戻って来ない。
 梓紗はこの後に起こるであろうことに思いを馳せる。先ほど彼にプロポーズをされた。返事をする前に彼が客室の外に出てしまったが、プロポーズを承諾するつもりでいる。であればその次は……。それを考えると胃がキリキリと痛む。この隙に逃げ出してしまおうか。そんなことも頭を過ったが、祖父のことを考えるとそうもいかなかった。
 梓紗とプレゼントの贈り主は一ヶ月ほど前、まだ日車の意識が戻る前にお見合いで知り合った。彼女よりも七つ年上で呪術師の家の一人息子だった。保守派の中堅どころらしいのだが、その年代と出自に反して紳士然とした物腰柔らかな人である。不躾な頼みをした梓紗の祖父に対しても敬意を払って接している。彼女の祖父の顔を立てて、会うだけ会って断るつもりだったらしい。だがお見合い当日、梓紗に一目惚れしてしまったのだと言っていた。そこから熱烈なアプローチを受けて、あれよあれよという間に今日になってしまったのだ。
  
 梓紗の鞄の中で携帯が鳴った。電源を落とし忘れていたらしい。鞄を開けると、一冊の文庫本が視界に飛び込んできた。術式について調べているときに、家入に貸していた短編集だった。身近に術式について教えてくれる人が居ない一般家庭出身の呪術師は、往々にしてそれまでに触れてきたフィクションを参考にして術式を解釈することが多いらしい。何か心当たりはないか、と家入に問われて思い出したのがその小説だった。待ち時間に読もうと持ってきていたのである。
 物語の主人公は大学に通う青年だった。下宿先の窓から隣に住む植物学者の庭を眺めているときに、その家の娘と出会う。二人はお互いに惹かれ合うが、その娘は青年に自分のことを忘れてこの町を出るようにと言った。二人が出会った庭に植わっているのは全て毒草で、その毒で養われた娘の体にも毒が流れていた。ひとたびキスをすれば相手は死んでしまうという。青年はそれでも構わないと言った。そして二人は月明りが照らす毒の園で、互いに抱きしめ合いながらキスをして死んでしまうのである。
 梓紗がこの小説を読んだのは高校生の時だった。ロマンティックな言葉で描かれた悲しい恋物語に心惹かれたのをよく覚えている。その一方で、容姿はともかく、似たような境遇の娘の最期に「やはり自分は死ななくてはいけないのかもしれない」と落ち込んだものだった。もう少し大人になると好きだったはずの幻想的で美しい死の描写が鼻についた。二度目の事件で中毒死した死体を見てしまったせいで幻想小説の魔法が解けてしまったのだ。それに、心中を決意するくだりが双方自分のことばかりで相手を思いやっているようには思えなかったのだ。梓紗はページを繰って最後のシーンを読んだ。ふと、脳裏に優し気に微笑む日車の顔が浮かぶ。
 ――日車さんだったら、一緒には死なないだろうな。
 もしも彼があの学生だったら、大学に通いながら毒を抜く研究をするかもしれない。解毒薬ができるまでは、とキスも我慢するだろう。藤を見に行った日も、最後に抗体産生作業をした日も、どちらも私から誘ったのだから。むしろ青年の方に感情移入してしまう。
「日車さん……」
 もう二度と呼ぶことはないであろう恋しい名前を口にする。一ヶ月前の抗体産生作業の日から梓紗は一度も日車に会っていなかった。会おうともしなかった。
 そもそもこの一ヶ月、梓紗は高専に出勤していない。祖父がいよいよおかしくなり、妙なことを口走るようになった。現実と妄想の境目が曖昧になり怒り狂う祖父を何とか宥めて出勤していたが、とうとう高専にまで押しかけてきて日本刀を振り回して大暴れしてしまった。梓紗は「しばらくの間、在宅勤務にしてほしい」と上司に頭を下げた。許可はすぐに下りた。あの様子では施設に入居するのも難しいだろうと誰もが思ったのだ。そうしてなんとか仕事は続けているけれど、仕事中に何度も祖父に呼びつけられて作業を中断せざるを得ないことが続いた。口を開けば見合いをしろ、仕事など辞めてしまえと言われ、頭がおかしくなりそうだった。祖父のことは大事に思っている。それに事件を起こした後も変わらずに接してくれて感謝もしていた。だが時折、全てを捨てて逃げ出したくなる。
 ――これで良かったんだ。
 梓紗は自分に言い聞かせる。
 もう会わないと決めて正解だった。彼には随分と甘えてしまった。その優しさに胡坐を掻いた結果、あんなことになってしまったんだから。人生は小説ではない。ロマンス小説みたいに、想いを寄せる相手と結ばれたからって事態が好転するわけじゃないのだ。いい大人が「白馬の王子様」の幻想を重ねるなんて。もしかすると、そんな幼い甘ったれた気持ちが自分の言動から滲み出ていたのかもしれない。十日ほど前に目を覚ましたと聞いたけれど、今日まで彼から何の連絡もない。特に意識障害があるとも聞いていないから、きっと愛想が尽きたのだろう。ちょうど良かった。

 梓紗は文庫本をテーブルに置き、携帯の電源を落とそうと画面をタップする。
『今どこにいる。話がしたい』
 ロック画面にメッセージ通知が表示されていた。送り主は日車である。梓紗は素早く携帯の電源を落として鞄の中に放り込んだ。
 ――気付かれた?
 梓紗の心臓が早鐘を打つ。
 今日まで一度も連絡してこなかったのに、今、このタイミングでメッセージが届くなんて。どこまで知ってるんだろうか。彼が動いてるんだとしたら、家にはもう行ってるはず。一級呪術師相手じゃ時間稼ぎにもならない。ここが見つかるのも時間の問題だ。
「大丈夫。さっさと始めればいいだけだから」
 梓紗は前向きな言葉を声に出し、自分を鼓舞した。ここはホテルの最上階。エレベーターも宿泊者のカードキーがないと停止しないし、窓からの侵入もほぼ不可能だ。指輪の贈り主が先に戻ってくればあとはどうとでもなる。
 コンコン。
 誰かが部屋のドアをノックした。
 ――間に合った。
 梓紗は姿見で乱れた髪を手櫛で整えて、ドアを開けた。

「見つけた」
 ドアの向こうに立っていたのは日車だった。右手にはガベルが握られている。額は汗で濡れているのに呼吸は全く乱れていなかった。耳にはインカムが装着されている。高専から派遣されてきたのだろう。梓紗はすぐにドアを閉めた。だが素早く差し込まれた日車の足に阻まれる。日車はその隙間をこじ開けて、客室内に入ってきた。
「少し不用心だな。扉を開ける前にドアスコープで確認すべきだろう」
 バタン、と重苦しい音を立ててドアが閉まる。その音を合図にして日車の背後に式神が姿を現した。真っ黒な胴体で、顔の部分だけ仮面をつけているかのように白い。目は閉じた状態で紐のようなもので縫い付けられている。穏やかな表情にも見えるが、それがかえって恐ろしかった。
「なん、で……」
「ん? ああ、ここが分かった理由か? それを説明するのは後だ」
 日車はガベルを振り上げて、宙を叩く。
 軽やかな、開廷を告げる音だ。
 
「領域展開」
 
 日車の宣言と共に、ホテルの客室が闇に飲まれていく。柔らかい絨毯は大理石の硬い床に変わり、二人を隔てるように木製の柵が現れた。領域の縁にはいくつもの巨大なギロチンが聳え立っている。確実に首を斬り落とすための斜めの刃と、その刃を吊るすための柱。そのいびつなアーチがどこか古代の神殿を思わせる。
「ジャッジマンはこの領域内にいる者の全てを知っている。これからジャッジマンは君をある罪状で起訴する。その起訴内容について俺から無罪を勝ち取らなくてはならない」
「模擬裁判、ですか」
「そうだ。ただし通常の裁判と違って、陳述のチャンスはそれぞれ一回のみ。判決は双方の主張と、この――」
 日車はどこからともなく茶色の封筒を取り出し、梓紗に見えるように掲げた。
「『証拠」をもとに下される。この『証拠』の中身は必ずしも君の罪を裏付けるものではない。中身を教えるつもりはない。ちなみにジャッジマンが知っていることは、この『証拠』を除いて俺には共有されないから安心してほしい」
 日車は一方的にルールの説明をしてから、ジャッジマンに対して始めるように声をかけた。日車の呼びかけに応えて、真っ黒な式神が口を聞く。
 
『被告人は二〇一九年六月、婚約相手の男性を毒殺しようとした疑いがある』
 
 日車の手が証拠の入った茶封筒の端を握りつぶす。何かを堪えるような険しい表情だ。梓紗はその顔を見て、目を瞑る。そして観念したように、小さな声で言った。
「間違い、ありません。過去にも二人を殺して、一人に障害を負わせました。死刑にしてください」
 梓紗の発言が終わるや否や、ジャッジマンの目が見開かれた。縫い付けられた双眸からは涙とも血とも言えない液体が流れ出る。そして形の良い口を歪めて判決を下した。

『有罪、没収、死刑』

 法廷は姿を消し、元のホテルの客室に戻る。先ほどまでと違うのは、日車の手にはガベルの代わりに燦然と輝く剣が握られている点だろう。
「……全部、ご存知だったんですね」
「ああ。君のおじい様が全て話してくれた」
 梓紗の祖父の目的。それは梓紗が呪術師の家に嫁ぎ、夫となった相手を毒殺することだった。

 話は七十年前まで遡る。まだ梓紗の祖父が子どもだった頃、彼の祖母――梓紗からすると高祖母にあたる人から巽家の昔話を聞かされた。巽家に呪術師が産まれなくなったのは先祖が呪われたせいだというのだ。呪ったのは呪術師でも名門と言われた家の次男坊だった。どうしようもないドラ息子で、このままでは家名に傷がつくと父親である当主から毒殺の依頼が舞い込んできたのである。依頼を引き受けた女呪術師は氏素性を隠して男に近付き、男が女呪術師に夢中になったところで術式の毒で殺した。今際の際に男は女を呪ったという。呪言師でもない男の戯言と気にも留めなかったが、男の吐いた呪詛の通り、巽家の呪術師は次第に数を減らしていった。
 梓紗の高祖母は自分の孫にこう言い残した。もしも女の子が生まれたら大事にしなさい。そして名門の息子に嫁がせなさい。きっとご先祖様の仇を取ってくれる。ゆめゆめ忘れるな。そして祖父に「その日が来たらこれで約束させなさい」と代々受け継いできたという呪符を渡したのである。
 梓紗の祖父には呪いの素養はない。だから梓紗の高祖母から聞かされた話は子どもを怖がらせて躾をするための作り話だと思っていた。実際、随分と長い間、昔話も呪符の存在も完全に忘れていた。梓紗が生まれてからはごく普通の「少々口うるさい孫煩悩のおじいちゃん」として過ごしていた。共働きの息子夫婦の近くに住み、幼い梓紗の面倒を見ていた。
 ある夜、梓紗が祖父の家に転がり込んできた。何があったかを訊ねると「お化けがいる」と母に言ったら家を追い出されてしまったと泣くのである。聞けば、これが初めてではなく、何度もそう言って母を怖がらせ、怒らせてしまったらしい。祖父は子どもの頃に聞いた昔話を思い出した。そして然るべき時が来たら梓紗を引き取る決心をしたのである。
 実際に梓紗が祖父と暮らし始めたのはその十二年後――梓紗が最初の事件を起こした後だった。その間に両親の仲はすっかりこじれてしまい、母親は父親に親権を押し付けるような形で離婚したのも理由の一つだった。二人は同居直後に縛りを結んだ。祖父は家長として梓紗を庇護し、梓紗は祖父に代わって目的を果たす。本来なら呪術師の素養のない祖父との縛りは成立しないのだが、高祖母の呪符を媒介することで成立してしまった。今回の件も、祖父はその縛りの件を持ち出した上で「ご先祖様に申し訳が立たない。やらないのであれば自分の手でこの家の血を絶やす」と梓紗の父親の殺害と自殺を仄めかしたのである。
 既に呪符は五条が破壊しているので締りは解除されたものと思われる。だが万が一継続していたときのために「日車に梓紗が襲われたので毒殺は失敗した」という体裁をとったのである。

「祖父は、どうなるんでしょうか」
「さぁな。俺には分からない。だが当面の間は五条が匿うそうだ」
「匿う?」
「君がお見合いをした相手なんだが、どうも母方が君のご先祖に殺された次男坊の血筋らしい。あちらはあちらで因縁があるらしく、君たち家族への報復に燃えていたそうだ。家同士のいざこざは本来高専の管轄外なんだが、君のご両親にも危害を加えようとしていたらしい。非術師への攻撃は呪術規定違反。それで五条が駆り出されたというわけだ」
「そう、だったんですね」
「君もここに留まっていると危ない。外で伊地知が待ってる。一緒に行くぞ」
 日車は梓紗の手を取ろうとした。だが梓紗はその手を弾く。代わりに日車の右腕を掴み、処刑人の剣を奪い取ろうとした。非戦闘員の梓紗に奪い取れるはずもなく、あっという間に両手を一つにまとめられて壁に押し付けられてしまった。
「何を考えているんだ! 処刑人の剣に斬られた者は例外なく死に至る。知らないわけじゃないだろう!」
「死ぬべきだったんです。四年前、あの事件で死刑になるべきだった」
「巽の罪状は重過失致死だ。殺人罪じゃない。それに君自身も罪を償おうと一生懸命働いて被害者家族へ送金もしていたじゃないか」
「もう、限界なんです」
 梓紗は鼻の奥がツンと痛むのを感じた。視界も歪む。両手は頭の上で日車に拘束されていて目元を拭うことはできなかった。梓紗は涙が零れ落ちないように少しだけ上を向く。
「どうして生きているのか分からなくなってきたんです。私が術式を持って生まれてきたばっかりに家族はバラバラになって、大好きだった祖父もおかしくなって……私のせいで未来を閉ざされてしまった人もいるのに、私は性懲りもなく恋をしてその人も死なせてしまいそうになった。そして今度は自分の意思で人を殺そうとしました。そんな弱い自分が許せなくなったんです。私が死んでも死んだ人が生き返るわけじゃない。でも死ねば今後は私の術式のせいで不幸になる人はいなくなります。だったら死んだ方が良いじゃないですか。どのみち高専が介入しなければ死刑になったかもしれないんです。あるべき状態に戻っただけのことでしょう?」
 
 日車は梓紗を拘束したまま、険しい表情で黙っていた。そしておもむろにインカムのマイクをオンにした。
「伊地知、日車だ。もう少し時間がかかりそうなんだが、大丈夫か? ……いや、そこまではかからない。ああ。分かっている。そのつもりだ。済まないが頼む」
 通話を終えると日車は梓紗の拘束を解いた。
「血清精製任務を引き受けた直後、どうして任務を引き受けたのかと五条に聞かれたんだ」
 今なら処刑人の剣を奪えるかもしれない。そんな考えが梓紗の頭に浮かぶ。けれど日車の妙に落ち着いた表情を見ていると、そのような気にはならなかった。
「俺が君を殺すんじゃないかと疑われていたんだ。その時は質問に答える前にその懸念が払拭されたから、答えずに終わったんだが」
「どうして、引き受けてくださったんですか?」
 日車は上を向いて、ひとつ息を吐いた。
「上手くいけばこれで死ねると思ったんだ。仙台高裁で人を殺した後の人生は俺にとってロスタイムのようなものだった」
「ロスタイム、ですか……」
「ああ、今はアディショナルタイムと言うんだったか。まぁ俺にとっては『ロス』タイム、無駄な時間だから古い言い方をさせてくれ」
 日車はいつものシニカルな笑みを浮かべる。
「呪術師であるが故に公判も開かれず、総監部の呪詛師認定処分も取り下げられてしまった。贖罪のために祓除に励んでもみたが、それでも考えは変わらなかった。それにあの日以来、殺しの瞬間を夢に見るようになった。そんな時期にあの任務について打診されたんだ。俺があの任務を引き受ければ巽も先に進めるし、もしうっかり死んだとしても俺としては何の問題もない。希死念慮をポジティブな形で発露させた結果だ」
 日車の左手が梓紗の頬に添えられる。彼女よりも温かくて少しかさついた手が、梓紗の目元の涙を拭った。
「血清精製任務を引き受けてから悪夢を見ることが減ったんだ。何が良かったのかは分からない。単純に時間が解決してくれたのかもしれない。ただ、巽と一緒にいると肩の力を抜くことができた。俺にも多少の価値は残されているんじゃないだろうか、死ななくとも罪を償う方法があるんじゃないかと気持ちが上向きになった」
 頬に添えられた日車の手が肩に下りてきて、そのまま背中に回る。梓紗は日車の腕の中に閉じ込められた。
「月並みな表現だが、いつの間にか巽のことが好きになっていたんだ。確かに君が死ねば君の術式の被害者は二度と生まれない。だが君のお陰で救われて、君が死んだら悲しむ人間がここにいる。それを忘れないでほしい」
「……幸せに、なっても良いんでしょうか」
「巽は、俺が幸せになることをどう思う?」
「日車さんには幸せになって欲しい、です」
「それと同じだ。俺も巽に幸せになって欲しい」
 梓紗は日車の背に腕を回した。少し遅れて梓紗を抱きしめる日車の腕に力が入る。

『――』
 梓紗の頭上から声がした。日車は梓紗を離し、インカムに応答する。
「はぁ……伊地知か。今いいところだったんだが」
 わざとらしくうんざりしたような声を作ってみせる日車に、梓紗は思わず笑ってしまう。
「いや、そういう意味じゃない。……そうだ。ああ、もう大丈夫だ。すぐにそちらへ向かう」
 日車はインカムを切り、再び梓紗に向き直る。
「そろそろ移動するぞ。悪いが荷物は最低限で頼む。今日はそれほど持ってなさそうだが……」
「はい!」
 梓紗は鞄を掴む。そして少し迷ってから、テーブルに置いたままの文庫本を鞄に突っ込んだ。
「その本は?」
「すみません。もう少しだけ必要なんです」
「そうか」
 日車は再び手を差し出す。梓紗は迷わずその手を取った。

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