日車の場合
「日車さん」
どうやら私の口から飛び出した名前は硝子にとっては意外な人物だったらしい。硝子が珍しく驚いていた。
「随分年上にいったな」
「年齢を差し引いても、日車さん、良くない?」
「……あー、女子ウケするスペックだと思う。T大卒のエリートで弁護士。身長もそれなりにあるし、呪術師だから体も引き締まってる」
「違うの、硝子」
硝子が怪訝な顔をする。
「日車さんの魅力って意外性だと思うの」
「意外性」
「そう。クソ真面目なのかと思いきや、案外お茶目でしょ? この前も虎杖くんとナチュラルにコントみたいなやり取りしてたし。それが可愛い」
硝子は「よく分からない」という顔をしながら、軟骨串を咀嚼していた。私は残りのウィスキーを飲み干してさらに熱弁する。
「もちろん外見も素敵だと思う。鼻筋は通ってるし、硝子が言うように筋肉があって体が引き締まってる。でもやっぱり一番はギャップよ、ギャップ。ツンデレとか不良が猫を助けたとか、そういうギャップに惹かれるもんなの」
「そうか」
「あとは酒豪って噂だから」
「結局そこか」
「だって『酔っぱらっちゃったぁ』から始まるロマンス経験してみたいんだもん」
お酒を飲む硝子の目が、すっと細くなった。はいはい、どうせ呆れてるんでしょ。
「子どもっぽい願望なのは自覚してますぅ」
「それ以前に梓紗って酔わないでしょ」
「持続しないだけで酔わないわけじゃないもん。この前酔って硝子の家に泊めさせてもらったじゃん」
「あー、アンタが一人でウォッカ一瓶空けた日ね。それに日車さんを付き合わせんの?」
「これシミュレーション的な話だよね? そこは考慮しなくても良くない?」
「こういうのは具体的に考えた方が面白いだろ」
「……確かに」
「それで? 梓紗の言う『酔っぱらっちゃった』から始まるロマンスって具体的にどんなよ」
硝子はニヤニヤしながら、残りのたこわさをかっさらっていく。なんだか遊ばれてるような気がしないでもない。でも硝子の言うことも一理あるように思えた。
「んー、そうだなー……」
酒のメニューを眺めながら妄想の解像度を高めてみる。
場所はこういう気楽な居酒屋だ。日車さんと二人で楽しく飲んで、世間話に花を咲かせる。ほろ酔いでお店を出ると、金曜日の夜だからか駅に向かう大通りは大渋滞していた。人を避けようとしてよろけた私を、日車さんがさっと助け起こしてくれた。
「大丈夫か?」
「すみません。思ったよりも酔いが回ってるみたいで」
恥ずかしくて笑ってごまかす私を、日車さんはじっと見つめる。
「危ないからタクシーで帰ろう」
日車さんは私の返事も聞かないで流しのタクシーを捕まえた。そして私を後部座席に押し込んで、出口を塞ぐみたいに日車さんも乗る。日車さんに促されるまま、運転手のおじさんに私の家の住所を伝えた。
移動中、日車さんはずっと黙っていた。でも繋いだ手を離すことはしない。その手が温かくて瞼が重くなる。
「寝ても良いぞ。着いたら起こす」
そう言って日車さんは肩を貸してくれた。
うとうとしている間に私の家のすぐ近くに着いた。少し手前で降ろしてもらって二人で手を繋ぎながら私の家の玄関まで歩く。夜風が心地よくて離れがたい。
「あの、もしよかったら上がっていきませんか?」
そう言って日車さんを見上げると、日車さんは驚いたように目を見開いた。
「もう少しお話したいなと思って。無理に、とは言いませんけど……」
日車さんは大きく溜息を吐く。強い風が私たちの間を吹き抜けていった。その風に乗って、参ったな、と呟く声が聞こえた。
「すぐに断るのが同僚としての適切な対応なんだろうが――」
風で乱れた私の髪を日車さんが手櫛で整える。
「このあと『何か』が起こるんじゃないかと期待している俺がいる」
「それは私も同じですよ」
「……そうか」
「行きましょう」
「ああ」
私は日車さんの手を取って、震える手でマンションのドアを開けた――
「随分具体的じゃん」
「そりゃあ、昨日読んだウェブ漫画そのままだから」
「それってエロいやつ?」
「別にエロがメインではないけど、濡れ場はある……かな」
「へぇ。濡れ場がある漫画に自分と日車さん重ねてんだ」
後ろの席で何か大きなものが倒れるような音がした。私の心臓もバクバクいってる。
「たまたまね? たまたま、昨日そういうのを読んで、キュンとしたから……」
「ふうん?」
明らかに納得してない声と顔だった。
別に嘘は吐いてないんだから普通にしてればいいのに、硝子にそういう顔をされるとなんだか落ち着かない。気持ちを紛らわせるためにウィスキーを飲もうとコップを傾けた。でも何も口に入って来ない。コップの中身は空だった。
「梓紗は日車さんとそういう状況になったらセックスすんの?」
「えっ」
硝子の問いかけに反応して顔が熱くなる。
もしも……もしも、日車さんとそういう雰囲気になったとしたら。もやもやっと上裸の日車の姿が頭に浮かぶ。実際には上裸姿なんて見たことないから中途半端な合成写真みたいだ。ともかく、上裸になった日車さんが私を抱きしめて、それで――
「駄目だ。刺激が強過ぎて妄想回路が焼き切れた」
「妄想しようとはしたんだ」
「うん。だから日車さんとそういう雰囲気になったらすると思う」
またもや後ろの席から大きな音がする。もしかして会話聞かれてるのかな。別に顔も見られてないし、知らない人にどう思われても興味ない。でも聞かれてると思うとちょっと嫌。もう少し声のボリューム落とそうかな。
「それ、最早アイドルとかそういう存在じゃなくて普通に恋愛対象として見てないか?」
「……そう、なの?」
「逆に聞くけど、恋愛対象にならない相手でそういう妄想すんのか? しかも職場の同僚で」
確かに。そう言われてみればそんな気がしてくる。少なくともセックスをしたいと思う程度には好ましく思ってる。セフレを作れるほど器用なタチじゃないのは自覚してる。ということは、そういうことになる。
「もしかして私って日車さんのこと好きなのかな」
「私に聞くな」
「あれ、家入さんと巽さんじゃないっすか!」
タイミング良く声をかけてきたのは猪野くんと七海だった。
「珍しいな。七海がここに来るなんて」
「七海っぽくないチョイスだよね。猪野くんがお店選んだの?」
「いえ、日車さんです」
七海の放った言葉が私の体をフリーズさせる。硝子も眉を顰めた。
「伊地知君と日車さんがこちらの店で飲んでいると伺いまして、合流することになったんです。まさか家入さんたちの隣だとは思いませんでしたが」
「……え? と、隣?」
「ええ。ちょうど巽さんの後ろの席です」
七海は怪訝な顔をして私の後ろの席を指さす。そっちは私たちの話を聞いて、食器を落としてた人がいる席だ。まさか。冗談であってくれ。そう願いながら後ろの席を覗き込んだ。
「ひぇっ」
そこには気まずそうな日車さんと何とも形容し難い表情の伊地知くんが座っていた。ほろ酔い気分が一気に吹き飛ぶ。
「あっ! せっかくなんで、家入さんたちも一緒にどうっすか? 久しぶりにわいわい飲むのも――」
「猪野くんごめん! 私、今日はもう帰るわ! また誘って!」
「あ、え? 巽さん?」
「硝子、私が飲んだ分渡しとく! 足りなかったら請求して! じゃ! お先に!」
あくまでも笑顔で、でもできる限り素早くその場を立ち去る。後ろで日車さんが何か言ってたような気もするけど聞かなかったことにした。
店の外に出ると冷たい風が私の顔面めがけて吹いてきた。目にゴミが入ってめちゃくちゃ痛い。ついでに心も痛い。
「あーもう、一生の恥なんですけど!」
たまらず漏れ出た心の叫びに、通りすがりの酔っ払いのおじさんが驚いて文字通り跳びあがった。
最悪な部類の話を本人と生真面目な後輩に聞かれた。しかも動揺して二人に一言も謝らずに店を飛び出してしまった。生ものと一緒でお礼と謝罪は鮮度が命。その場で謝っておけばまだ挽回できたかもしれないのに。馬鹿すぎて自分が嫌になる。
「巽!」
名前を呼ばれて反射的に振り返る。そこには日車さんが立っていた。日車さんの右手には鞄。お店を出てきたんだろうか。
「良かった。まだここにいたのか」
「どうしたんですか? 伊地知くんたちは?」
「三人には申し訳ないが、先に出てきた。君と話がしたくてな」
話がしたい、という言葉にどきりとする。ヤバい。私は即座に日車さんに向かって頭を下げた。
「先ほどはすみませんでした」
「巽?」
「後ろの席にいらっしゃるのを知らなかったとはいえ、とんでもないハラスメント発言でした。すみませんでした」
「いや、それは別にいい。こちらも盗み聞きをしてしまった」
「でも……」
日車さんはバツの悪そうな顔をして自分の頬を掻いている。
「伊地知に対しては環境型ハラスメントにあたるだろうな」
「すみません」
「だが俺は不快だったわけじゃない。それに俺が君を追いかけてきたのは君の発言を責めるためじゃない」
風向きが変わった。日車さんの視線に熱いものを感じる。
「端的に言うと、君を口説きに来た」
「え?」
「酒から始まるロマンスに憧れてるんだろう? 君さえ良ければ二軒目に行かないか?」
「いや、その……あれはあくまでも妄想というか、いろいろ拗らせた末の戯言といいますか……」
「そうか? 俺は悪くないシチュエーションだと思ったんだが」
日車さんが妙にゆっくりと私に近づいてきた。
いや、日車さんの動きが遅いんじゃない。スローモーションに見えてるだけだ。
「日車さん、酔ってます?」
「アルコールの影響は否定しないが、嘘は言ってないぞ。それに遊びで終わらせるつもりもない」
どうする?
日車さんの問いかけが色っぽく聞こえた。
「そしたら、少しシーンを飛ばして、私の家に来ませんか?」
「いいのか?」
「駄目ならこんな提案しませんよ」
さっきは酔いも吹っ飛んだって思ったけど、やっぱりまだちょっと酔ってるかも。硝子、私だってウォッカ一瓶空けなくても酔うみたいだよ。
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます