水の音で目が覚めた。
ソファの上で身じろぎをすると、肩から大きなジャケットが滑り落ちる。読んでいたはずの本はローテーブルの上に置いてあり、飲みかけのお茶はいつの間にか片付けられていた。
「起きたか」
キッチンの方からやさしいテノールが聞こえてきた。日車さんだ。
「おかえりなさい。いつ帰ってきたんですか?」
「少し前だ」
水の音が止み、日車さんがキッチンから出てきた。シャツの袖を下ろしながらソファの空いている場所に腰掛ける。
「もしかして、私のマグ、洗ってくれました?」
「ついでだ。気にするな」
口から出かかった「ごめんなさい」を飲み込む。違う。そうじゃなくて――
「ありがとうございます」
こういうときは「ごめん」じゃなくて「ありがとう」。後輩から教わった人付き合いのコツだ。でもいざ実践してみるとどうにも落ち着かない。疲れてるのに洗い物をさせてしまった。申し訳ない。
「どうした、急に黙りこくって」
日車さんが困ったように眉尻を下げて笑う。何か言わなくちゃ。でも何を? まずは感謝でしょ。いや、そうじゃない。いやいや、それでいい。いやいやいや、それでもやっぱりごめんなさいが必要だろう。
ふぁ、と緩みきった声がした。隣の日車さんがあくびを噛み殺している。とろんとした目で笑いながらもう少し近くへ、とソファの座面を軽く叩いた。私だけが知ってる無防備な姿。
……駄目。それは反則。
「おおっ?」
突然の私のタックルに、日車さんのテノールが揺らいだ。鼻を擽る大好きな人の香りに、やんややんやと野次を飛ばしてた私たちも、だらしないニヤケ顔で静かにしている。現金なやつ。でもしょうがない。私は日車さんのお腹に顔を押しつけて、肺いっぱいにその香りを取り込んだ。汗と、柔軟剤と、木の香り。この前のオイルマッサージも良かったけど、なんだかんだで日車さんが一番癒やされる。
「今日はやけに甘えてくるじゃないか」
日車さんは愉快そうに口角を上げて、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「俺としては嬉しい限りだが、何かあったのか?」
「あったと言えばありましたし、無かったと言えばなかったというか……」
「曖昧だな」
「猪野くんから『上手く甘えるのも仕事のうち』って言われたんですよ」
「ほう?」
日車さんの片眉が上がる。
「猪野くんって甘え上手でしょう? なので甘えるコツを聞いてみたんです」
「それで、『上手く甘えるのも仕事のうち』、と」
「ええ。一緒に仕事をする仲間の好意を頑なに断るのも失礼になる。だから上手く甘えて、その分は別の機会にお返しする。その方がお互いに気持ち良く仕事ができるから」
「なるほどな」
「恥ずかしいんですけど、言われて初めて、日車さんの好意を無碍にしてたことに気付いて……」
日車さんは私よりもずっと忙しいはずなのに、いつも私に気を遣ってくれていた。さっきのマグにしてもそう。いつだってズボラな私を影に日向にフォローしてくれていた。
「私にできるお返しなんてたかが知れてますけど、せめて、日車さんの親切はちゃんと受け取りたくて」
「理屈は分かった」
だが、と日車さんは唸る。
「あまり面白くはないな」
大きな両手が私の頬をプレスする。
「俺が『甘えてほしい』と言った時は遠慮して聞かなかったのに、猪野の言葉なら聞き入れる。それが面白くない」
日車さんの纏う空気は冷たかった。その反面、私の頬を潰してる手は熱い。その温度差に頭の中で緊急警報が鳴り響く。
「そ、それは、やっぱり日車さんは年上ですから」
「それもだ」
「へ?」
「付き合ったときに名前で呼んでほしい、敬語はやめてくれって頼んだだろう。なかなか難しいのは理解しているが、そろそろ慣れてもいい頃なんじゃないのか?」
「で、でもまだ付き合って四ヶげちゅ――」
むぎゅ、とさらに力強く頬をプレスされた。
「同棲までしておいて時間を理由にするのは、いくら何でも無理筋だとは思わないか? それとも、俺には言えない理由でも?」
三白眼に睨まれて、小刻みに首を横に振る。日車さんは鼻を鳴らした。
「いいだろう。言い訳くらいは聞いてやる」
ようやく私の頬が解放される。たぶん中途半端に取り繕っても納得してくれないだろう。それなら全部白状してしまった方がいい。
「少しでも日車さんに相応しい人間になりたかったんです」
静かなリビングに私の情けない自白が響いた。
「ふとした瞬間に、日車さんの周りにいた女性って頭も良くてしっかりした人ばっかりだっただろうなって思うんです。スーツをバシッと着こなすキャリアウーマン、みたいな? 少なくとも酔って醜態を晒すような人はいなかっただろうな」
「おい」
「そういう人に負けたくなくて、せめて日車さんの隣に立っても恥ずかしくないように『きちんとした』大人にならなきゃ、って思ってたんです。でもやっぱり難しいですね! 結局マグカップも洗ってもらっちゃってますし。あはは」
あーあ。言っちゃった。膝の上の自分の手から視線が上げられない。
ふと、自分の右手のささくれに目が留まった。よく見れば手の甲はガサガサだし、この前の任務で出来た火傷が茶色い痕になっていた。そうだ。硝子からちゃんとケアしないと痕になるよって言われてたんだった。
「あー、えっと、お風呂入ります? 沸かしてあるので、湯船に浸かってさっぱりしてきてくださいよ。任務帰りでお疲れでしょ?」
火傷痕を左手で隠しながら、苦し紛れにお風呂を勧めてみる。
「そうだな」
そうだな、と言いつつも日車さんが動く気配は全くない。ただ、何か思い詰めたように口元を片手で覆って何もないローテーブルを見つめていた。
「君の自虐を真に受けるのも野暮だろうが――」
ぼそり、と日車さんが呟いた。
「コンプレックスがあるなら努力をすればいい。勉強をするのに遅すぎるということはない。仕事だって一級昇格を目指したいなら他の術師にアドバイスを請うのもそう難しくはないんじゃないか?」
「おっしゃる通りです……」
「だが、君に一番必要なのは正論の解決策ではないんだろうな」
私に向けて、というよりは独り言に近いような呟きだった。深い、深い溜息と一緒に、日車さん自身も沈み込んでいく。
ずむ、と日車さんの頭が私の首元に埋められる。くすぐったくて体を動かすと、動けないようにがっしりと抱きしめられて体重をかけられる。なんとか支えようとしたけど、私の腕は早々に限界を迎えた。私の体がソファに沈み込み、日車さんの下にすっぽりと閉じ込められる。
「俺からしたら、君は十分『頭も良くてしっかりした』女性だ」
「そんなこと――」
「俺がその手の嘘がつけるような気の利いた人間だと思うか?」
答えに詰まる。でも正直に首を横に振った。
「呪術師は文字通り生きてキャリアを積めること自体が大変なことだ。賢くなければ生き残れない」
胼胝のある少しかさついた手が私の右手を掴んだ。咄嗟に振りほどこうとしたけど、許してはくれない。
「俺からしたら君は綺麗だ。君から出張先の酒蔵の話を聞くも楽しいし、買ってきた土産をツマミに二人で晩酌をする時間は幸せそのものと言っても過言じゃない」
日車さんの指が私の火傷痕に触れた。軟膏を塗るみたいに、茶色くなった皮膚をゆっくり優しく撫でる。痛まないか? 頑張ったな。この痕すらも愛おしい。そんな言葉が指先から紡がれてるような気がした。都合良すぎるだろ、と頭の中で野次が飛ぶ。でも指先の熱が何よりも雄弁に語りかけてくる。
「俺はさほど陽気な性質ではないし、話が上手なわけでもない。せめて君に幻滅されないよう余裕のある大人を演じていたが、あまり上手ではなかったようだな」
「そんなことないですよ」
「俺がそう思っている、という話だ。君が俺に『相応しい』人間になりたいと甘えるのを控えていたのと同じようにな」
じゅわ、と胸のあたりから気持ちが溢れてきた。
掴まれたままの右手を伸ばし、日車さんの頬を掌で包む。似た者同士の体温が心地よい。そうだった。私が忘れてただけで、ずっとそうだったのだ。
ばちりと視線が重なって、唇も重なる。
「お互い、もう少し言葉にしないとだめですね」
「そうだな」
日車さんの口元が綻ぶ。ふざけてその口に噛みつくみたいにキスをした。お返し、とばかりに私の唇も丸ごと日車さんの口の中に収められる。
「一つ聞かせてくれないか?」
ひとしきりふざけてから、真面目なトーンで問いかけられた。
「俺の名前を呼ぶのは君にとってそんなに負担なのか? たとえば、前のパートナーと同じ名前だったとか――」
「違います! 断じて! そんなことはないです!」
日車さんの言葉を力強く遮る。その勢いに引かれたような気もするけど、気付かなかったことにした。
「日車さんって呼びたいんです。ひぐるま、って音の響きが気に入ってて。素敵じゃないですか」
「そう、なんだな」
何とも歯切れの悪い返事だった。どうやら私の演説はあまり響かなかったらしい。残念。感覚の問題だから仕方ないか。
ああ、と頭上から少し気の抜けた声がした。
「なら、こういうのはどうだ?」
再び視線が重なった。
「君が俺の苗字を呼びたいというのなら、その気持ちは尊重したい。だから普段は苗字で呼んでくれて構わない。その代わり、恋人としての時間を過ごす時は名前で呼ぶ」
「なるほど?」
「これならイーブンだろう? どうだ?」
普段は苗字で、デートの時は名前。普段は日車さん。デートの時は……寛見さん。まだ口に馴染まない「寛見さん」の響き。でも馴染まないからこそのときめきがある。
「いいですね。そうしましょう」
ニヤ、と日車さんの口の端が吊り上がる。
「なら早速今から実行しよう」
ぴろろん、ぴろろん、ぴろぴん、ろん。
「お風呂……沸きましたね」
「ああ。今、沸いたな」
今、沸いた。その事実に「寛見さん」の煌めきで膨らんだ気持ちが急速にしぼんでいく。危うく日車さんを冷水風呂に浸からせるところだった。過去に着衣入浴を敢行したことがあるとはいえ、任務後に冷水風呂はいけない。
「すみません……予約ボタンを押しちゃったのかも」
「そういう日もある。君も任務帰りで疲れてるんだ」
日車さんは苦笑いをして私の髪を手櫛で整えた。
不意につつ、と日車さんの指が私の耳の縁をなぞる。
「ひぅ!」
急に変な触られ方をしたものだから、奇声を上げてしまった。私の情けない声に、日車さんは悪徳弁護士を演じるときのように口元を歪めて笑う。
「せっかくだ。一緒に入るか?」
明日は巡回が――
そう断ろうと思ったのに。
「入りたいです」
口から出たのは承諾の言葉。
断るなんて、とてもじゃないけど無理。だって、私はあの悪い顔に弱いんだもの。
「誰と?」
悪徳弁護士の尋問は終わらない。私の耳の縁をなぞった指はその熱を保ったまま顔の輪郭を辿り、焦らすように唇をタップする。指の背で頬を撫でたかと思うと、私の髪の毛を弄ぶ。
「あの……寛見さんと、一緒に」
ただ名前を呼ぶだけ。たったそれだけなのに顔が火照ってくる。恋人として過ごす時間、なんて言われたから。
「良かった。断られたらどうしようかと思ったよ」
日車さんは満足げに微笑みながら、白々しく安堵してみせる。断れないって分かってるくせに。
「明日、寝坊したら日車さんの――」
むに、と日車さんの指が私の唇に封をする。
「そうじゃないだろう? もう一度」
「別に大したことじゃないんですけど」
「こういうのは最初が肝心だ。ほら、続けて」
日車さんは私の上に乗っかったまま動こうとしない。こんなとこまでストイックにならなくてもいいのに。本当に大したことじゃないから、かえって恥ずかしいんだけどな。
「えっと、明日寝坊したら寛見さんのせいにしてもいいですか、って聞こうと思ったんです」
私の返答に、意外にも、日車さんは目を見開いた。でもそれはすぐに意地悪な弁護士の顔に切り替わる。
「構わないさ。そうだな……俺に勉強を教わっていたとでも言い訳してくれ。スパルタで、夜が明けるまで寝かせてくれなかった、と」
ちゅう、と音を立てて、吸い付くようなキスをして日車さんは荷物を置いてくると寝室に行ってしまった。
「やられた……」
ソファに寝転んだまま、私は独りごちる。どこがイーブンなんだ。完全に日車さん――いや、寛見さんの一人勝ちだ。もうニュートラルな気持ちで寛見さんって呼べない。なんてことをしてくれたんだ。
そっと自分の唇に触れて、去り際のキスの感覚を反芻する。困ったことに、そうやって寛見さんに翻弄されるのは嫌じゃない。恋人としての時間。さっきの「言い訳」。去り際のキスの甘さ。頭の中で思春期よろしく妄想劇場が繰り広げられる。最後に「恋人としての時間」を過ごしたのはいつだっけ。そんなに前じゃないはずなのに、大昔のように思える。寛見さんをもっと感じたい。もっと味わいたい。熱を分かち合いたい。どろどろに蕩けてしまいたい。
「あ」
ソファの端に寛見さんのジャケットが取り残されていた。カラーの部分を掴んで、布団みたいに頭から被ってみる。大好きな人の残り香。柔軟剤と木の香り。でもやっぱり抜け殻じゃ物足りない。温度がないもの。
私はジャケットを抱きしめて寝室に向かう。だん、と鈍い音がしてから一拍遅れて脛に痛みが走った。お気に入りのローテーブルに牙を剥かれたらしい。
寝室の向こうでもバタバタと喧しい音がした。
「大丈夫か!?」
寛見さんが寝室から飛び出してくる。シャツは脱ぎかけで、片手には靴下が握りしめられている。へへ。やっぱり似た者同士だ。
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