ご召喚は計画的に - 1/4

ご召喚いただきありがとうございます

 都内某所のオフィス街。天を衝くようなビル群が森の木々のように並んでいる。大きな窓に朝日が反射して煌めいている様子は、さながら神話世界の巨大建造物だった。
 その麓では人間たちが俯きながら歩いている。暗い色のスーツを身にまとい、己の食い扶持を稼ぐためにビルの中へと収監されていく。
 ――幸せな人生のお手伝いをいたします。
 いつの頃からか、オフィス街でそんなチラシを目にするようになったという。誰がどうやって置いているのかは分からない。ふと気が付くとエレベーター横の広告ラックの下から二段目にそのチラシは置かれていた。「幸せな人生のお手伝いをいたします」という怪しげな宣伝文句と、説明になっていないサービス内容の案内文。それらが笑顔の写真と共に配置されている。チラシの右下に連絡先のQRコードが印刷されていた。
 いかにも怪しげで胡散臭いチラシを手に取る者はいない。そもそも、日々の労働に疲れ切ってしまった彼らにはその存在すら認識できていないのかもしれない。数か月に一、二枚、物好きな人が興味を持つくらいだった。彼らはプラスチックの瞳でぼんやりとチラシを眺め、しばらくしてからはっと我に返り、何をしているんだと自嘲してラックに戻す。それだけだった。

 ある日、とある営業員の男がそのチラシを手に取った。取引先を訪ねた際にたまたま見つけたのである。いつもなら無視するのだが、その日は妙にそのチラシが気になった。そのチラシだけを持って帰るのは気恥ずかしかったようで、ラックに置いてあった他のチラシもいくつか手に取り、鞄に仕舞い込んだ。
 彼がチラシの存在を思い出したのは自宅に帰ってからだった。クレーム対応と部下の失敗の尻拭いのせいで、自宅に辿り着いたときには既に日付が変わっていた。度数の高い缶チューハイ片手に、鞄の中でくしゃくしゃになってしまったチラシを引っ張り出す。そしてキャッチコピーが陳腐だとか、必要な情報が書かれてないだとか、一通り腐してからQRコードを読み込んだ。こうなったら最後まで付き合ってやろう。そうだ。SNSに実録レポートを投稿してやる。こんな面白いネタ、食いつかない筈がない。アルコールの力で気が大きくなった男はそう考えた。
 QRコードを読み込むと、男のスマートフォンの画面が真っ暗になった。真っ暗な画面に下品な笑みを浮かべた男の顔が反射する。少しして黒地に紫の線で描かれた幾何学模様の画像が表示された。すわウイルスに感染したか、と男は焦りだす。画面がいつも彼が利用しているウェブブラウザに切り替わり、宅配サービスよろしく「もうまもなく担当者が伺います」というメッセージが表示された。
 男は急に怖くなって、スマートフォンの電源を落としてベッドの方へ放り投げた。だが少し待っても何も起こらない。すると今度は怒りがふつふつと湧き上がってきた。まだ買ったばかりだというのに、もうウイルスに感染してしまった。安くないセキュリティアプリを契約したのに全く役に立たないじゃないか。なんのために契約したんだ。一言文句を言ってやらなければ気が済まない。明日の昼休みに電話してやろう。男はイライラしながら缶チューハイに手を伸ばす。中身は空だった。男は舌打ちをして、缶を握りつぶして台所へ行こうと立ちあがる。
 そこにはスーツ姿の女が立っていた。濃紺の上下にオフホワイトのカットソー。きっちりと結い上げた髪と濃すぎず薄すぎないメイクが清潔感と誠実さを演出している。男は恐怖で顔を引きつらせながら後ずさりした。ドアの鍵はかけた。窓の鍵もかけた。そもそもここはマンションの五階だし、外部の人間は管理人のいる入口からしか入れないはずだ。一体どこから――
「ご召喚ありがとうございます。あなたの幸せな人生のお手伝いをさせていただきたく、伺いました」
 女は涼やかな声で男に挨拶をし、きっちりと指先を揃えて名刺を手渡した。

◇ ◇ ◇

「悪魔の営業員?」
 伊地知の話を聞いて、日車は少々驚いたように片眉を上げた。日車は任務の帰りに運転中の補助監督とよく雑談をしていた。伊地知ともいろんな話をしてきたが、まさかB級オカルト映画のような単語が飛び出すとは思ってもいなかった。
「ええ。少し前にSNSで話題になっていたオカルト話です。チラシのQRコードを読み取ると悪魔が召喚できるという話なんですけど、ご存じですか?」
 交差点に差し掛かったタイミングで信号が赤に変わる。伊地知は助手席に置いていた鞄から資料を取り出し、日車に手渡した。
「聞いたことならある。随分とシュールな設定だと思ったんだが……新しい任務か?」
「ええ。どうもそのチラシが“本物”だったようでして、人が亡くなっているんです」
 被害者はとある商社の営業員だった。二ヶ月前、商談の帰りにそのチラシを見つけ、チラシに書かれた連絡先にアクセスしたのだという。周囲の人によると、コミュニケーションが苦手でいつもぼそぼそと話すような営業員らしからぬタイプだったらしい。だが、チラシを見つけた日を境に性格がガラリと変わったというのだ。笑顔でハキハキと話し、気持ちよく後輩のフォローをしつつ上司を助ける。厳しい状況にある同僚を励まし、自分にできることがあれば何でもするからと声をかけた。
 周囲の人間は戸惑いながらも、彼の変化を肯定的に受け入れる。男の営業成績は右肩上がり。後輩からも慕われ、同僚からは一目置かれる。彼の周りには笑顔が絶えないようになった。彼女もでき、プロポーズも大成功。近々双方の両親へ挨拶をしようと計画していた。運気も上昇したのか、気まぐれで買った宝くじが当選したとも話していたらしい。まさに人生の絶頂。そんなときに彼は急死してしまった。死因は心不全。直前に受けた健康診断ではそんな兆候は全くなく、健康そのものだったという。
「富、名声、女の三つを同時に手に入れるが、契約満了で魂を取られ死んでしまう。いかにもな話だな」
「ええ。なので私たちも仮想怨霊の線で調べてみたのですが……」
 バックミラー越しに、伊地知の眉尻が下がるのが見て取れた。
 ――分かりやすいな。
 どうやら思ったような成果は得られなかったようだ。日車は資料に目を通しながら、いくつかの可能性と対処法について頭の中で組み立て始めた。
「一切痕跡が残っていないんです。チラシにも被害者の自宅にも」
「……まさか」
 日車は目を見開いた。状況から考えると何らかの呪いが関わっているのは間違いなさそうだった。呪いが関わっているのなら必ず何らかの痕跡が残っているはずである。資料によると、被害者が亡くなったのは数日前の話だ。時間経過で痕跡が消えてしまった線も考えにくい。
「す、すみません……お役に立てず」
 黙りこくった日車を見て、彼がネガティブな感情を抱いていると思ったらしい。伊地知の眉はさらに下がって、綺麗な八の字の困り眉になっていた。
「いや、君が謝ることじゃない。痕跡がないこと自体が大事な情報だ」
 伊地知を慰めつつ、日車は窓の外に視線を遣った。道路沿いにオフィスビルが壁のように聳え立っている。ビルの合間を縫って強い風が吹いているらしく、道行く人は服の裾や鞄を押さえながら歩いていた。
「そのチラシは高専にあるのか?」
「え? ええ。警察からお借りしていますが」
「そうか。高専に戻ったらそのチラシを持ちだせないか確認してくれるか? 立ち合いは……いや、いない方がいいな。被害者はおそらく一人でいるときに召喚している。それに合わせた方がいいだろう」
「ま、待ってください。まさかとは思いますが、QRコードを読み取ろうとされてますか?」
「ん? ああ、そうだが」
 一体何が悪いのか。
 そう言いたげな日車を見て、伊地知は宙を仰いだ。
「危険すぎます! もし本当にその悪魔が仮想怨霊だとしたら特級相当ですよ!」
「だが仮想怨霊なら噂通りの行動を取るはずだろう? その悪魔とやらは召喚した相手と取引をしようと営業をかけてくるそうじゃないか。仮に取引に応じたとしても今日明日で俺がどうこうなるわけじゃない。それに、いざとなれば俺の術式で呪霊の術式を剥奪すればいい」
「それはそうかもしれませんが……」
「呪いの痕跡が残されていないのなら、呪詛師が関与している可能性は低い。チラシの噂のこともある。もう二、三日調査をしても何も分からなければ試してみてもいいと思うんだが」
 伊地知は、困ったようにぶつぶつ呟いていた。信号待ちをしている間に鳩尾の当たりをさすっている。
「……分かりました。何とか話を付けてみます」
「頼む」
 伊地知は泣き笑いのような顔でハンドルを切った。

 三日後、日車と伊地知、それに五条が高専の職員寮の一室に集っていた。
「じゃ、僕は隣の部屋で待機してればいいわけね」
「ああ。手に負えないと判断したら木槌で壁を叩く。その時は部屋に突入してくれ」
 五条はわくわくしながら、伊地知は緊張の面持ちで日車の話を聞いている。
 日車の提案は条件付きで認められた。やはり調査が難航しているのが決め手だった。次の犠牲者が出るのを手をこまねいて待っているわけにはいかない。とはいえ危険なことには変わりない。有事に備えて少なくとも一級以上の呪術師が待機するように求められた。この話を聞いて待機要員として名乗りを上げたのが五条だった。どうしても悪魔に会ってみたい、とのことらしい。
「あーあ。僕も悪魔に会いたかったなぁ」
「同じ部屋にいたら共倒れになるだろう。それに先日の打ち合わせでも説明したと思うが、できるだけシチュエーションを揃えたい。加えて――」
「悪魔も存在しないかもしれない、でしょ? 分かってるよ」
 子どものように唇を尖らせて、五条は指定された部屋に入っていく。日車と伊地知は互いに顔を見合わせ、苦笑いをした。
「俺もそろそろ部屋に入る」
「ええ。くれぐれもお気をつけて」
「伊地知も。電波の都合で帳が下せない。何かあったら真っ先に逃げろ」
「ご心配いただきありがとうございます。安全確保に努めつつ、できる限りのサポートはさせていただきます」
 どうかご武運を。
 伊地知の祈るような言葉を背中に受けて、日車は部屋の中へ入っていった。
 部屋に入ると日車は備え付けの椅子に腰かけて、ポケットからチラシを取り出した。
「酷いな……」
 彼の口から思わず本音が飛び出す。件のチラシを簡単に表現するなら「素人が最低限のツールで一生懸命作った」デザインだった。幸せな人生云々という宣伝文句はやたらとポップな書体で虹色に塗りつぶされている。親しみを感じさせようとしたのか、抽象的なサービス説明の合間に、いかにも描画ツールで描いたような歪な猫が「やったー!」と喜んでいるイラストが挿入されていた。パソコンが一般家庭に普及し始めた頃に見かけたようなデザインに、日車は懐かしさすら覚えた。と同時に、何故被害者はこのチラシを見て連絡を取ろうと思ったのか、こんな胡散臭いチラシに頼りたくなるほど追い詰められていたのか、と要らぬ想像力も働く。
 日車は大きく息を吐き、業務用のスマートフォンを起動した。そしてチラシに載っているQRコードを読み込む。
 噂通り、スマートフォンの画面には黒地に紫で描かれた魔方陣の画像が表示された。画面はすぐに切り替わって、「まもなく担当者が伺います」という案内文が表示される。トンチキなチラシデザインはともかく、ここまでは全て噂通りに事が進んでいる。日車は気持ちを引き締めて、”担当者”の訪問を待った。

 その時は唐突に訪れた。
「ご召喚いただきまして誠にありがとうございます! 日車様の担当悪魔となりました、ナンバー六〇八九一でございます!」
 日車の背後に悪魔を名乗る女性が立っていた。噂通り、濃紺のスーツを着て髪の毛をきっちりと結っている。違うのは耳の上にくるくるの巻き角が付いているところだった。
 悪魔は営業員スマイルで日車に名刺を差し出す。彼女の勤務先と思しき社名が七色のポップ体になっている。チラシと同じデザイナーがデザインしているようだ。
 ――彼女から呪力は感じないな。
 日車は名刺を受け取りながら、相手を刺激しないよう様子を観察する。呪力を感じられないなら呪霊でも呪術師でもない。
「日車様は当サービスのご利用は初めてでいらっしゃいますか? 差し支えなければ説明させていただきたいのですが、お時間三十分ほどよろしいでしょうか」
「待て。その前に聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「君は……呪れ――」
「違います」
 彼女は日車の問いに食い気味に答えた。
「呪い関係の方に勘違いされがちなんですけど、あくまで悪魔なんですよ。呪霊の皆さんって多少の知性があっても、こう……かなりご自由にふるまわれるでしょう? 私たち悪魔はきちんと営業規程に則って活動をしておりますので」
「そうか。それは、すまなかった」
「いえいえ。確かに“不思議な力を持っている、人にあらざるモノ”という点では似ていますから」
 そう言って笑ってはいるものの、彼女の口の端が不自然に痙攣していた。どうやら彼女にとっては気分の良い質問ではなかったらしい。
 ――さて、どうしたものか。
 日車は考え込む。彼女の言うことをそのまま信じるわけにはいかない。仮にも悪魔を名乗るモノが日車に正直に話すとも思えなかった。それにこれほどの知性があるのなら嘘を吐いたり悪魔を演じてみせることくらい簡単なはずである。
 だが呪霊や呪詛師が悪魔を演じているのなら、必ず呪力を感じられるはずだ。けれど目の前の女性からは一切の呪力を感じない。では一般人かというとそれも考えにくい。一般人が高専の誰にも気付かれずに職員寮に侵入するなど、不可能だ。
 ――五条と引き合わせた方がよさそうだな。
 彼ならどんな些細な呪力も見逃さない。それに彼女がやってのけた瞬間移動が生得術式によるものなのか、あるいは呪具によるものなのかも分かる。引き合わせると面倒な事態になりそうではあるものの、彼女の言葉を信じるよりはずっと確実だ。

「他にご質問などございますか?」
 悪魔を自称する彼女は、接客用の笑みをキープしたまま、日車に問いかける。
「いや、特には」
「承知いたしました。それでは改めて、プランのご説明をさせていただきます」
「すまないが、君と取引をするためにQRコードを読み込んだわけじゃないんだ」
「えっ?」
 日車は彼女に事情を掻い摘んで説明した。SNSでの噂話。不自然な死に方をした被害者。被害者の部屋から見つかったチラシ。話を進めるにつれて、彼女の顔色はみるみる青ざめていった。
「というわけで、君なら何か知っていると思ってQRコードを読み込んだんだ」
「つまり……今のお話を総合すると、日車様は契約をするためではなく、その事件について私に聞き取りをするためにQRコードを読み込んだ、ということでしょうか」
「ああ。申し訳ないが、悪魔と取引してまで叶えたい願望はない」
「そんな……!」
 彼女はこの世の終わりのような顔をした。ショックのあまり、営業員スマイルを取り繕うことすらできていない。
「悪いが契約なら他をあたってくれ」
「で、でも、せっかくなんでお話だけでも聞いていきませんか? 最近は積極的に願いを叶えるプランだけじゃなくて、生きづらさを軽減するようなプランもあるんですよ」
 悪魔はいびつな笑顔を貼り付けて、食い下がってきた。日車は思わず彼女から距離を取る。
「いや、今のところ生きづらさも特に感じてはいない。必要ならこちらから連絡をする」
「そういうわけにはいきません!」
 生暖かい風が日車の頬を撫ぜた。窓もドアも開けていない。それなのに風が吹いている。彼女の仕業だった。
「ご存知かとは思いますが、悪魔を召喚したからにはそれなりの覚悟を持っていただかなくてはいけません」
「それで? 君はこれから俺をどうしようっていうんだ」
「そうですね……」
 良く言えば優し気、悪く言えば舐められやすい外見をしている悪魔。だが、そんな彼女から強烈なプレッシャーが発せられている。後手に回っては危ない。そう判断した日車は木槌を発現させた。
 日車が領域展開を宣言するよりも前に悪魔が指を鳴らす。すると日車の体は硬直し、ぴくりとも動かせなくなった。
 ――まずいな。
 日車の額に脂汗が浮かぶ。体が宙に浮き、悪魔の方へ滑っていった。悪魔は品定めをするように日車の体を観察する。
「では、失礼いたします」
「いっ!!」
 突然、彼女が日車の前髪を毟った。指先に緑色の炎が点り、毟られた髪が一瞬で燃え上がる。と同時に、日車の体を戒めるものがなくなり、支えを失った体は重力に従って床に落ちた。
「……一体何をした」
「日車さんの魂にマーキングをさせていただきました」
 ずい、と悪魔が顔を近づける。悪魔は硫黄の臭いがすると言われているが、彼女からは硫黄と爽やかな木の香りがした。
「ずぇったいに契約していただきますからね! 覚悟してください」
 そして悪魔は煙のように消えていった。

 残された日車は呆然と床に座っていた。
 ――面倒なのに捕まったな。
 ガシガシと頭を掻きながら、ゆっくりと立ち上がる。話を聞きたかっただけなのに。けれど、悪魔を自認しているモノと対峙するには、いささか無防備だった。目先の面倒くささに目を瞑って五条を同席させておくべきだったのかもしれない。
 日車は一通り反省会をして、ぐっと体を伸ばす。先ほどの金縛りのせいで、ほとんど動かしていないのに体が強張っていた。年齢のせいか、はたまた彼女の能力のせいなのか。日車は溜息を吐いた。
 ふと、鼻の奥に彼女から漂ってきた硫黄と木の香りを感じる。
 ――温泉に行きたい。
 二十代後半を過ぎたあたりから、温泉のありがたみが骨身に染みるようになっていた。全身の疲れは取れるし、体が温まるお陰で夜もよく眠れる。日車の体は完全に温泉を求めていた。
 日車は早速スマートフォンで日帰りできそうな硫黄泉の温泉地を調べた。当然ながら、どこも翌日の任務に支障を来しそうな立地である。
「……銭湯だな」
 日車は妥協を知っている大人だった。

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