守秘義務がありますのでお答えできません
日車はすっかり草臥れた様子で高専事務室のソファに座っていた。足を投げ出し、背もたれに肘を乗せて右手に飲みかけの缶コーヒーを持ったままぼんやりと天井を見上げている。
「お疲れサマンサー。あれ、マジですげー疲れてんじゃん」
そんな日車の視界に五条がカットインしてきた。あまり表情の変わらない日車であったが、疲れ切ってしまっているせいか取り繕うこともできず、眉をひそめた。
「人の顔を見るなりそんな顔するなよ。悟くん、傷ついちゃう」
「面倒な絡み方をしたのに嫌な顔をされただけで済んだのですから、むしろ感謝すべきでは?」
一緒にいた七海がばっさりと切り捨てた。任務帰りのようで、ジャケットを脱いでシャツの袖を捲っていた。
「隣、失礼します」
「ああ……」
日車は重い体を起こして、ソファに座り直す。そして気付けに缶コーヒーを呷った。
「随分とお疲れのようですね。大丈夫ですか?」
「日車先生、今、悪魔にストーキングされてんだよ」
「五条さんは少し黙っててください」
「いや、五条の言ったとおりだ。ふざけてるようにしか聞こえないと思うが、悪魔に付き纏われてる」
サングラスで隠された七海の目に困惑の色が浮かぶ。
「悪魔というのは、あの、悪魔ですか?」
「ああ。人間を誘惑して、魂を地獄に連れて行こうとするあの悪魔だ」
悪魔に魂をマーキングされた日車は、その日から本当に彼女から逃げられなくなってしまった。契約しないかと毎日毎日営業をかけられるのである。悪魔にとって場所の制約などあってないようなものだった。自宅だろうが、出張先だろうがお構いなし。相手が人間なら警察に相談すればいいのだが、残念ながら相手は人ではない。これにはさすがの日車も参ってしまっていた。
「もう散々聞かれたでしょうけど、その、日車さんに付き纏っているのは本当に悪――」
「七海、その質問をしてはいけない」
「悪魔ですよ」
日車の制止もむなしく、例の悪魔が音もなく日車の隣に現れた。今日はベージュのノーカラージャケットに紺のタイトスカート、髪の毛は相変わらずきっちりと結っている。日車は再び天を仰いでソファに沈み込んだ。
「初めまして。日車さんの担当悪魔、ナンバー六○八九一です。どうぞよろしくお願いいたします」
呆然とする七海と、悪魔との邂逅にわくわくが止められない五条。悪魔はそんな二人に一番の笑顔で名刺を差し出した。未だに会社員時代の癖が抜けきっていない七海は自分の名刺ケースを取り出そうとする。もちろん、すぐに日車に止められた。
「ねぇ、この名刺って君がデザインしてんの? デザイン、やばくない?」
五条は虹色太字の名刺を物珍しそうに眺めた。
「いえ、こちらは日本支店の総務担当がデザインしているんです。営業員からは『ヨーロッパ本部みたいにちゃんとしたデザイナーに頼んでほしい』という声が上がっているのですが、総務の担当者がどうしても自分でデザインしたいと言って聞かないらしくて。しかも古株だから誰も何も言えないんですよ」
「マジ? 迷惑だなぁ」
「ここだけの話、悪魔は死なないので、定年っていう概念がないんですよ」
「じゃあずっとこのデザインなの? かわいそー」
五条はけらけらと笑いながら名刺をポケットに仕舞った。七海には、悪魔と五条が意気投合しているように見えた。七海は、二人には聞こえないよう、余計な質問をしたと日車に詫びた。日車は力なく笑うばかりである。
「せっかく出てきてくれたから、君に聞きたいことがあんだけど」
「なんでしょうか?」
「さっき七海が君の話題を出したらすぐに出てきたじゃん? もしかして日車先生のこと、盗聴してんの?」
「違いますよ。摩訶不思議な悪魔パワーです」
曰く、悪魔が魂をマーキングすると相手の音声と動画が自動で脳内に流れ込んでくるらしい。人間で言えば常にテレビを点けっぱなしにしている感覚に似ているのだという。だが営業員もそれなりに忙しいらしく、一人の人間に構い続けているわけにはいかない。だから“摩訶不思議な悪魔パワー”で日本支店から貸し出された端末に脳内の映像を転送しているのだそうだ。導入当初は映像の転送だけだったのだが、システム開発担当の努力のお陰でどんどん便利になっているのだと自慢げに教えてくれた。ちなみに最近の端末アップデートで、映像内の会話を分析して特定の単語が会話に上ると悪魔の脳内に直接通知が行くようになったそうだ。
「盗聴じゃないですか」
「だから、違うんですって。摩訶不思議な悪魔パワーなんです」
「七海、本人が違うって言ってんだから違うんだよ。頭ん中に勝手に情報が流れてくる感じでしょ? あれ、しんどいよねー。僕もさ、この目のせいで見えなくてもいい情報が頭に入ってくるんだ。だから気持ちは分かるよ」
「えー! 分かってくれる人間の方に会えたの初めてです! 夕方ごろになると頭が重くなりませんか?」
「なるなる! 仕方ないからアイマスクで情報量を減らしてんだけど、それでもキツいんだよね」
七海はキャッキャと喜ぶ二人を渋い顔で見つめた。
「でさー、その悪魔パワーって魂をマーキングした人にしか使えないの?」
「いえ、契約いただいたお客様に対しても有効ですよ」
「じゃあさ……コイツの情報って持ってる?」
五条は日車の業務用端末を取り上げ、例の被害者の写真を悪魔に見せた。悪魔は眉間に皺を寄せて、画面に映された写真をじっと見つめた。日車は飛び起きたいところをぐっと堪えて、悪魔の注意が自分に向かないようにゆっくりと体を起こす。
「申し訳ありません。悪魔にも守秘義務がありますので、他のお客様に関する情報はお教えできないんです」
――意外とちゃんとしてるな。
妙なところがちゃんとしていて、日車は思わず感心してしまった。
「君を召喚したかどうかだけでも駄目?」
「申し訳ありません。お客様に安心してご契約いただくための規則なんです。悪魔との取引は一生に一度の大きな買い物ですから」
「えー。何それ。悪魔のくせに誠実じゃん」
魂をマーキングしてストーカーまがいの営業をするのが誠実なのか?
七海と日車の脳内に同じ疑問が浮かび、お互いの顔を見る。そして相手が同じようなことを考えているのを察して、二人は安心した。
「じゃあもう一つ質問。悪魔ってことはアレできんの? ほら、ブリッジして階段降りるやつ。これなら守秘義務には引っかからないでしょ?」
その場にいた全員の脳内に、かの有名な悪魔祓い映画のメインテーマが流れ出した。ベッドに縛り付けられた少女が髪を振り乱して暴れ回り、口汚く神父を罵る姿はあまりにも有名である。
彼女は数回瞬きをすると、やれやれといった様子で首を横に振った。
「はぁ……『エクソシスト』はフィクションですよ?」
「えっ! じゃあ緑のゲロは?」
「コンプライアンス違反になるので吐きません」
「なんだ吐けるんじゃん」
「吐きません」
「大丈夫。誰だってゲロくらい吐くよ。それが緑だろうが紫だろうが問題ないって」
「だから吐かねぇっつってんだろいい加減にしろ」
さすがの悪魔も五条のペースには呑まれてしまうらしい。小動物系の可愛らしい顔を歪めて怒りを露わにした。
「なんか勘違いしてない? 僕は能力の話をしてるんであって、今ここで吐けって言ってるわけじゃない。コンプラ違反になるってことは、『吐けない』んじゃなくて『吐かない』ってことだろ。悪魔のくせに言葉に純感だな。そんなんで悪魔営業やってけんの?」
だがその程度で怯む五条ではない。待ってましたと言わんばかりに言葉で攻撃する。悪魔は何かを言いかけたが、舌打ちをするだけだった。
日車は彼女の様子を見て自分とのやり取りを思い出す。五条のコミュニケーションが最悪なのは確かだが、日車も友好的な態度を取っていたとは言い難い。何なら人間相手だったら絶対にしないような雑な対応をした記憶すらある。だが悪魔は日車に対して、砕けた口調になることはあっても、丁寧語すら取れてしまうことはなかった。
――あれでも一応は客として扱われていた、ということか。
あるいは五条のコミュニケーションがおかしいのか、その両方か。答えの出しようもなく、実はそれほど興味もない問いが日車の頭に浮かび、そして消えていった。
突然、悪魔が何かに反応するように何もないところをじっと見つめた。そして指先で宙に何かを描く。
「すみません。他のお客様からお呼び出しがありましたので、今日はこれで失礼いたします。金髪の方は七海さん……でしたよね? もし悪魔サービスにご興味があればいつでも伺いますので、お気軽にご連絡ください」
悪魔は七海と日車、それぞれに会釈をして消えてしまった。
「いつも、あの調子なんですか?」
周囲の様子を伺いながら、七海は小声で訊ねた。せっかく悪魔が帰ったのに、また舞い戻られては堪らないと思ったのだろう。
「おおよそは。普段はもう少し落ち着いてるんだが……」
日車と五条の目が合う。しまった、とさり気なく視線を逸らしたが遅かった。
「何よ! サトコが悪いって言うの!? サトコは日車先生のためを思って嫌われ役を買って出たのに!」
悪魔との舌戦に完封勝ちしたことでハイになった五条は日車にも面倒な絡み方をし始めた。
「はぁ……だからって挑発する必要はなかったでしょう? マーキングされてるのは日車さんですよ? この後面倒なことになったらどうするんですか」
「おいおい七海ィ、僕が何の考えもなしに挑発すると思ってんの?」
「ええ。思ってますが」
間髪入れずに七海が答える。
「ひどい! 七海のばか! もう知らない!」
それを受けて五条はさらに七海に絡むけれど、七海はどこ吹く風だった。その様子を見た日車は、七海が悪魔の事件を担当した方が良かったのではと思い始めた。七海はあのタイプの扱いに慣れている。幸い、悪魔も七海に営業をかけようとしていたし、今からでも遅くはない。
「実際のところ、彼女、なんか知ってるんじゃないかな。日車先生、どう思う?」
先ほどまでとは打って変わって、真面目なトーンで五条は日車に話を振った。
「どう、だろうな。先ほどの様子だと直接の死因ではなさそうだが……」
五条は悪魔に被害者の写真を見せて、彼の情報を持っているかと訊ねた。五条の質問は明らかに守秘義務に触れる内容である。もし本当に悪魔を召喚したかどうかも含めて話せないのであれば、写真を見るまでもなく回答を拒否するだろう。だが実際はそうではない。おそらくは守秘義務云々というのは嘘なのだろう。あるいは単に彼女がぼんやりしているか。
大事なのは、彼女の中に「情報を絶対に渡してはいけない」という強い意識があるわけではないということ、そして彼女はそれを隠し通せるほど器用な性質ではないということである。上手に水を向ければ喋ってくれるかもしれない。
「直接の死因ではなさそう、って随分曖昧な表現するじゃん。僕が写真を見せた時の感じ、『なんかどっかで見たことあるなー』って顔じゃないの? ぼんやりしてても契約した相手のことは覚えてるでしょ? 逆に全く知らない相手でもあの反応にはならないと思うんだけど」
「別人と勘違いしている可能性もある」
「あー、そっか。それはあるな」
「どちらにしても、もう一押ししてみるしかないだろうな。気は進まないが」
日車は何度目かの溜息を吐いて、コーヒーを飲み干した。
「少し、よろしいでしょうか」
七海が二人の会話に割って入る。
「最初に戻りますが、あれは……私たちが祓うべき対象のモノではないのですか? 夏油さんが持っていた口裂け女や玉藻前と同族のものだと思っていたのですが」
七海は慎重に言葉を選びながら二人に問いかけた。五条は唸りながら腕組みをする。
「うーん。僕も最初はそういうのだと思ってたんだけどね。実際見たら日車先生の言った通りだったよ。あれはよく分かんない」
「よく分からない?」
五条によると、彼女には生得術式も呪術師としてやっていけるだけの呪力量もないらしい。だが一般人のように呪いが垂れ流しになっている様子はなかった。かといって呪術師のように体内を巡っているわけでもない。彼女の呪力は角のあたりで停滞していた。その在り方はどちらかと言えば呪霊や呪骸に近い。角を核とする呪霊だとするならば、彼女の呪力量ならせいぜい四級程度。壁のすり抜けくらい造作もないだろう。理論上は高専事務室に急に現れるのは可能だ。
「でも呪霊だってんなら高専のアラートがビービー鳴るはずでしょ? でもアラートは鳴らなかった。アラートに引っかからないとしたら呪骸か一般人ってことになるけど……」
「四級程度の呪力量の呪骸ではまともに会話するのは無理でしょうね」
「そ。完全自立型呪骸なら問題ないだろうけど、完全自立型呪骸は学長しか作れない。でも彼女の造形は学長の趣味じゃないでしょ。あとは一般人が呪具を使って悪さしてる可能性だね。でもさすがに瞬間移動できる呪具なんて聞いたことないからなぁ。そんなのあったら絶対有名になってるし、真っ先に僕が手に入れてるよ」
五条は近くのテーブルに置いてあった箱から小さなお菓子の包みを手に取った。誰かが置いていった出張のお土産のようだった。どこにもお菓子の情報は書いていない。
「呪詛師ではない。かといって呪霊でも呪骸でもなさそう。一般人の可能性も低い。そうなったら変に決めつけないで、どう転んでもいいようにいろんな可能性を考えて動いた方がいいでしょ」
「それはそうですが……」
「迷信かお伽噺の類だと思っていた呪いがあったんだ。俺たちが知らないだけで悪魔だっているかもしれないだろう?」
「おっ、日車先生、良いこと言うじゃん」
五条は嬉しそうにお菓子の包みを開けて、中のお菓子をじっくりと観察した。
「確かに……実在するエクソシストも悪魔祓いの案件の中にはごく稀に本物があると言っていましたね」
七海は腕組みをしながら渋い顔で呟いた。二人への共感を示すための言葉ではなく、自分を納得させるためのものに見えた。一般家庭出身の七海でも、さすがに悪魔の存在は受け入れがたいものがあるようだった。後天的に呪術師となった日車とは感覚が違うのだろう。
「でも仮に本物だとしたら、私たちの手に負えないのでは?」
「そうだな。そうなったらエクソシストに繋いでくれ」
「日車さん、連絡先をご存知なんですか?」
「いや? でも伊地知ならなんとかして調べてくれるだろ。後で頼んでおくか。それこそ俺がブリッジで階段を駆け下りたらいろんな意味で大事件だろう?」
おどけて肩をすくめて見せる日車に、七海は苦笑いをして近くの新聞ラックの新聞を広げた。日車も次の任務の準備のために業務用端末を手に取った。
「ねぇ! コレ、緑色だから抹茶大福だと思ったらメロン大福だったんだけど!」
五条の叫びは、誰に拾われるでもなく、事務室に響いた。
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