“その日”が来たらしい

 都内某所――古書店が立ち並ぶその街には、喫茶店も多い。待ち合わせに指定された場所は路地に入ったところにある。高専時代、古本を買いに来たついでに荷物持ちの夏油と一緒に珈琲を飲んだ思い出の店だ。蔦の絡まる壁に埋もれているドアを開くと、カラカラとベルが鳴った。
 きょろきょろと店内を見渡す。待ち合わせ相手は店の一番奥、ステンドグラスのすぐ側の席――高専時代の私達の指定席だった――に座っていた。
「硝子ごめん! 待ったよね」
「それなりに」
 硝子は軽く笑って、空になったカップを掲げてみせた。シニカルな笑い方は昔と変わらない。少しだけ隈は濃くなったところ以外は記憶の中の硝子と全く一緒だ。
「お詫びに奢るよ。何がいい?」
「いいよ。私たちの仲だし」
「だからこそ、だよ」
「じゃあ……ブレンドをホットで」

 珈琲が来るまでの間、当たり障りのない近況報告をした。私が高専を辞めて大学に通い出してから、もうすぐ七年だ。たとえ当たり障りのない内容であっても、話題は尽きなかった。
「硝子は変わんないね」
「治療と任務の同行で遊ぶ暇がないから」
「えっと……国家試験、まだだよね?」
「そこは、ほら。大人の事情で」
 大人の事情というよりは呪術界の事情だろうな。聞かないのが身のためだ。
「そっちはすっかり垢抜けたね。綺麗になった」
「今日は硝子に会うから特別お洒落してきたんだ」 
 何だか気恥ずかしくて、誤魔化すようにカウンターの方を見る。銀のお盆に珈琲を二つ乗せている。他に注文をしていた客はいないから私達のだろう。

「それで、高専でのインターンはどうだった?」
 いかにも、“本題です”といった感じで、硝子が手を組んでこちらを見つめた。
「懐かしかった。仕事は大変そうだけど、“窓”のバイトもしてたし何となくイメージはできるかな」
「そっか。試験の方はどう?」
「なんとか合格できた」
「じゃあすぐにでも高専で働けるな。高専にカウンセラーがやってきたとなったら皆喜ぶよ」
 私が大学に入学した理由。それは心理職に就きたかったからだ。呪術高専に入学して、辛い思いをせずに済んだ生徒はいない。もしも、その辛い心の内を相談できる大人がいたら随分と違うのでは。どちらにしても私には術師としての適正はない。私なりに後輩たちを助ける手立てを考えた結果の進学だった。
 幸い勉強は嫌いではなく、大学院へもなんとか推薦入学をもぎ取ることができた。着実に前に進んでいる感覚は私を奮い立たせた。
「そうなんだよね。そうなんだけど……」
「なにか引っかかってる?」
「……夏油のこと」
 硝子が目を丸くして驚いている。中途半端な高さに持ち上げられたカップに描かれた猫と目が合った。窓際に寝転び、所在なげに毛糸玉と戯れている。
 ――くだらないことで悩んでるな、ニンゲン。
 そんな台詞が聞こえてきそうな表情だ。
 私は高専を中退後、当時付き合っていた夏油と連絡を断った。高認試験に入学試験。大学と大学院の授業。単純に勉強するのに忙しかったし、そもそも護衛任務の一件があってから夏油は私を避け続けていたのだから、私が連絡しなければ自然消滅は必然だった。

「インターン期間中、一回だけ夏油と鉢合わせたのよ」
「へぇ?」
「そしたら隣で失恋ソング歌われた」

◇ ◇ ◇

「久し振り」
 夏油が話しかけてきたのは、事務局の中にあるミーティングスペースで紙と格闘していたときだった。
「……久し振り」
「インターンに来てるって悟から聞いたんだ。なかなかタイミングが合わなくて、会えなかったけど」
 夏油は、まるでそこが自分の席だというような感じで、私の隣に座った。
 久し振りに会う夏油は随分と体格が良くなっていた。高専時代もがっしりしていたけれど、更に体の厚みが増している。そんな彼が隣に座るのだ。圧迫感が凄まじい。
「今は何してるの?」
「報道された不審死事件の記事のファイリング」
「ああ、確かに新聞の報道がきっかけで“湧く”からなぁ」
 夏油はまだ手を付けていない新聞をぱらぱらと捲る。
「手伝おうか」
「いいよ、私の仕事だし」
「次の任務まで少し時間があるんだ。別に見られて困るような書類でもないし、積もる話もある。いいだろう?」
「……じゃあ、切った記事を台紙に貼ってってくれる?」
「分かった」

「……」
「……」
 夏油は恐ろしく静かだった。紙を捲る音、カッターで切る音、テープのりの歯車が回る音、バインダーに挟み込む音。無機質な音だけが空間を支配する。
 気まずい。
 付き合っていた頃は気にならなかった沈黙に耐えられない。
 だから嫌だったんだ。積もる話があるんじゃなかったのか。恋人でもないのに肩が触れ合うような距離でひたすら作業とか、おかしいでしょ。そりゃあ作業は早く進むし、手伝ってもらえて助かっているのは事実だけれども。
 横目で夏油を盗み見る。随分と髪が伸びた。相変わらずの艶々ストレートな黒髪で、シャンプーのCMに出ているモデルさんみたいだ。羨ましい。神様は何故私に直毛を与えてくれなかったのだろう。私は癖っ毛で毎日整えるのも一苦労だというのに不公平だ。寝癖直しなんてのは――
「大学はどうだった?」
「へ?」
 一瞬、何を言われたのか分からず、間抜けな声を上げる。
「サークルだとか、ゼミだとか、そういうのに参加するんだろ?」
「ああ……まぁ、そこは人によるけど、ゼミには入ってたよ。サークルは入らなかった」
「そうなんだ。何でサークルには入らなかったんだい?」
「なんか、合わなくて」
 合うわけはないのだ。青春時代の思い出の中身がまるで違う。文化祭もなければ、体育祭もない。(姉妹校交流戦はノーカンだ。あれはそういうイベントではない)じゃあ何をしてたんだと聞かれても答えようがない。
「ふうん」
 思ったような話が引き出せなかったのか、あまり興味なさそうな返事だ。
 再び訪れる沈黙。何か。何か話題はないだろうか。

「夏油は――」
「彼氏は?」

「え?」
「なに?」

 二人同時に質問をして、同時に聞き返した。
 こういうところばっかり息が合う。落としたものを同時に拾うとか、エレベーターで譲り合っちゃうとか。
「先、いいよ」
「いや、夏油から話して」
「大した話じゃないから」
「何言おうとしたか忘れちゃったから」
「じゃあ……」
 そういえば高専時代に夏油を意識し始めたのも、こういうやり取りがきっかけだった気がする。
「大学では彼氏、できた?」
 ……それを聞くか。
「院に進学したタイミングで別れたけど、居た」
「そいつのこと、好きだった?」
「まぁ、一応。恋人になる程度には」
「そう」
 夏油はそれだけ言うと、再び紙の山に向き合った。もうこちらには顔も向けない。
 傷付くくらいなら聞かなきゃいいのに。

「――」
 少しして、隣からよく知った旋律が聞こえてきた。夏油が歌っている。ポルトガル語で郷愁、二度と戻らないモノを懐かしむ甘苦い気持ちを表す単語がタイトルの、あの失恋ソングだ。
「ちょっと、それ――」
「悪いけど、そろそろ任務の時間だから」
 夏油はこちらを一度も見ずに、打ち合わせスペースから立ち去った。

◇ ◇ ◇

「未練タラタラだね」
「……やっぱりそう見える?」
「別れたことに納得してないんじゃないかな」
「だよねぇええ」
 行儀が悪いのは分かっているけれど、思わずテーブルに突っ伏してしまう。ファンデーションでテーブルが汚れないように、使ってない紙ナプキンの上に突っ伏したから許してほしい。
「意味わかんない。自分から彼氏いたかどうか聞いて、勝手に傷ついて? それで当てつけみたいに失恋ソング歌うとか何なのよ。許してね、じゃねぇんだわ」
「高専時代はベタ惚れだったのに言うねぇ」
「ほほほ、そういう時期もありましたわ」

「で、どうなの?」
「はい?」
「焼け木杭には火は点く可能性は?」
 ちらりと顔をあげる。硝子の深い栗色の瞳には揶揄するような色は浮かんでいない。私の心の中を、私自身も気付いていない願望を探ろうとするような眼だ。
「……それはない、かなぁ」
 そりゃあ、夏油に情はある。一度は好き合った仲だし、お互いにお互いの“初めて”を交換した仲だ。数年前だったら間違いなく火が点いただろうし、エンカウントした時も作業している時も甘酸っぱい気持ちになったことは否めない。それでも、だ。
「私、三年の時に夏油に結構キツイこと言われたのよ」
「いつの話?」
「ほら、夏油一人で山間部の村に行った時があったでしょ? 双子の女の子を保護したときの」
「ああ、あれか」
 あれは酷い任務だったと聞いている。祓除ではない。村の人間が、だ。術式を持った双子の女の子を座敷牢に入れ虐待していたらしい。偶然、本当に何万分の一の偶然、近くにフリーの呪術師が滞在していて、大量の呪霊の気配(これは夏油が祓除のために使役した呪霊だ)に驚いて様子を見に来たからなんとか収まった。そうでなければ夏油は村の人間を皆殺しにしていたかもしれない。私は夜蛾先生からそう聞かされた。
「あの時、夜蛾先生に夏油のことを気にかけてやってくれって頼まれたのよ。私、バカ正直に会いに行って余計なこと言っちゃったんだよね。それで、君には分からないだろう、分かられたくもないって」
「それは……」
「今ならね、夏油の言い分も当然だって思うの。現場を見てない人間が軽々しく“分かる”なんて言っちゃいけないし、知識のない人間がカウンセリングの真似ごとをするのはもっての外」

 けれど、それこそ“ベタ惚れ”の恋人に拒絶されて、子どもだった私には耐えられなかった。
「それで大学に?」
「そ。夢とか目標とか格好いいこと言ってみたけど、ホントのところは夏油から――いや、夏油と呪術師っていう仕事から逃げたんだよね。ただでさえ辛い仕事なのに、夏油からも拒絶されたら続けられないって、気持ちがぽっきり折れちゃった」
「でもそれは仕方ないんじゃないかな」
「うん。仕方がなかった。頭では分かってる」
 でも子どものままの私が叫ぶのだ。イチ抜けしたくせに、と。同期や後輩たちは今も死と隣合わせの任務に奔走してるのに、自分だけ安全圏にいるなんて。
「そうはいっても、意義のある仕事だと思ってるし、絶対に高専にはカウンセラーが必要だと思ったからインターンには行ったの。もう大人なんだし夏油のことは割り切らなきゃって」
「でも向こうは違った、と」
「うん」
 何で勝手に居なくなって強制終了させたんだ、とでも言いたげな顔。いや、顔は見てないな。これは私の想像だ。でもきっとそんな顔をしてたと思う。じゃなかったらあのタイミングで失恋ソングなんか歌わない。
「もう感情が大忙しよ。そっちが先に冷たくしてきたんじゃんってムカついたり、いやいや逃げた私にそんな資格ないだろって落ち込んだり。それにやっぱりあの頃のこと思い出してしんどくなるから。だから火は点かないと思う」

「でも話を聞いてる限り、アンタも未練があるように聞こえるんだけど」
「まじで?」
「まじで」
「うぇぇええ」
 この場に全く相応しくないうめき声を発して文字通り頭を抱える私。向かいの席から呆れたような笑い声が聞こえる。
「そんなに嫌がらなくても」
「だって私が一方的に離れてったんだよ? それで未練アリとかクソ面倒な女じゃん」
「未練があること自体は否定しないんだ」
「……それは言わないお約束じゃない?」
 自分とは異なる体温を手に感じる。硝子の手は少し冷たい。感情と理性との攻防戦で知恵熱を出しそうな私にはとても心地よかった。
 そういえば、夏油もこんな感じで手を握ってくれてたっけ。夏油の手は、もう少し温かかくて、やっぱり心地よかった。

「どこがいいの?」
「顔」
「即答だな」
「厳密に言えば表情。ソトの人間には余所行きの顔してるけど、ウチの人間にはいろんな表情見せるでしょ。それがなんか気難しい犬猫みたいで好きだった」
「なんだそれ」
「ウチの人間には懐くし年相応の我儘とか冗談とか言うんだけど、ソトの人間には絶対にそれを見せない。なんかそれが愛おしくって」
 夏油は機微に聡いのだと思う。だから滅多にウチの人間とは見なさない。でも一度ウチの人間と見なしたら、とことん大事にする。
「なるほどね」
「夏油のそういうところに私は甘えちゃったんだよね……私が関係を壊したんだよ。だから私にそんな資格ないの」
 もし焼け木杭に火が点いたら水を掛けて消さなきゃいけない。夏油が大丈夫だって言ったとしても、私が自分を許せない。

 がたり、と大きな音を立てて硝子が席を立つ。
「ちょっと場所変えようか」
「え? ちょっと待って、まだ珈琲残って――」
「いいから」
「待ってってば。ごちそうさまでした!」
 硝子は私の腕を掴んで、店を出ていこうと引っ張る。私は慌てて荷物を引っ掴む。ドアのベルが一際大きな音を立てて鳴り、店員さんの心配そうな挨拶の声を掻き消した。
 これが漫画だったら二人の頭の上を「ずんずん」という文字が躍っていることだろう。そして私の後頭部からいくつもの水滴が飛んでいるはずだ。
 硝子が足を止めたのは少し離れた駐車場の一番端に停めてある車だった。あれよあれよという間に後部座席に押し込められた。硝子らしくない。何か気に障ることを言ったのだろうか。思い当たることは何もないけど。
「えっと、車の免許、取ったんだね」
「さぁ」
「さぁって……ねぇ、私なんか気に障ることでも言った? 硝子、なんか変だよ」
「そりゃあ、私は硝子じゃないから」
「は?」

 火にかけたチーズがどろどろになって千切れ落ちるみたいに、目の前でみるみる硝子が――いや、硝子のガワが溶けていった。中から現れたのは、黒髪ロン毛の大男。つい先ほどまで話題にしていたアイツだ。
「なに、これ」
「最近面白い呪霊が手に入ってね。憑りついた人間の姿かたちをコピーして分裂するんだ。コピーも人間に憑りつくことができるから諜報活動に使えると思って試してみたんだけど、思った以上に気付かれないものだね」
 ああ、そういう事か。偶然だと思っていたものは全部仕込みだったわけだ。店も席も手の握り方も全部……
「マジで最低」
「返す言葉もないよ。でもこうでもしなきゃ、いろんなものが邪魔して冷静に話せないだろ。君も、私も」

 フロントガラスから古書店の看板がオレンジに染まっているのが見える。ビルの狭間から見える空は、夕暮れが近いのだろう、青とオレンジのグラデーションだ。
「それで? 人を騙してまで何を話すの」
「まず、君に謝りたい」
「謝るくらいだったら最初から硝子に化けなきゃ――」
「そうじゃなくて、高専の時のこと。すまなかった」
 夏油はその大きな体を窮屈そうに丸めて、私に頭を下げた。
「……聞いてたでしょ。あれは仕方がなかった。私も子どもだったし、夏油は余裕がなかった。どっちが悪かったとか、そういうものじゃないよ」
「でも君を傷つけたことには変わりないだろ? 余裕がなかったからって謝らなくても良い理由にはならない」
「やめて。夏油に謝られると、辛くなる」
「それは君が私の前から逃げたと思ってるから?」
 何なんだよ。
 何がしたいんだよ。
 ずっと私を振り回してばっかり。

「ずっと君に捨てられたと思ってた。最初こそ怒ったよ。自分のことは棚に上げて、私からも呪術界からも黙って逃げるなんて最低だと思った。だから私からも連絡はしなかった。私にベタ惚れだった君に捨てられた、という事実を認めたくなくてね」
 夏油は肩をすくめて自嘲気味に笑う。表情はあの頃と一緒。でも中身は随分と変わったみたいだった。
「だから君がインターンにやってくる、しかもカウンセラーとして就職することが内定してるって聞いて、驚いたよ。そして自分を恥じた。君は君なりに生徒や呪術師の仲間のことを考えて高専を離れたのに、私は自分の事しか考えてなかった」
「……止めてよ。そんなの後付けだし」
「きっかけは何であれ、君はその夢を叶えるべく七年勉強したんだよ。その努力は認めてあげたら?」
「それで? 結局何が言いたいの? 上から目線で労いたいだけなら降ろしてくれる?」
 車の後部座席はスモークガラスになっていて光を通さない。目元が濡れていることに気付かれないことを祈りながら、強い言葉を使う。声が震えないように、少しだけ声の出し方に注意する。もちろん夏油の方は見ずに、窓の外を眺めている振り。我ながら嫌な女だ。
「もし……もし本当に私への気持ちが残っているんだったら、やり直したい。さっき『そんな資格はない』って言ってたけど、私はそうは思わない。君は逃げてなんかいないんだから。夜蛾学長と相談して、少し方向転換をしただけ」
 違うかい、と問われて、頬を滑り落ちた雫が私の服を汚す。こういう時に限って、化粧直しセットを家に置いてきてしまった。マスカラが落ちてパンダになってなければいいのだけれど。
「返事は今すぐじゃなくていい。待ってるから」
 夏油は私に触れようと、手を伸ばした。けれどその指先はあと数センチのところでピタリと止まる。夏油には、私が無下限呪術を使っているように見えてるらしい。空中で止まった手は少しの間だけ宙を彷徨い、力なく夏油の膝の上へと戻っていった。
「時間を取らせてすまなかった。少し外に出ているよ。鍵は開けたままにしておくから、落ち着くまでここに居たらいい」
 無下限なら、使っている人間が解かなくては。

「待って」
 今度は私が夏油の腕を掴む。ピシ、と夏油の体が固まる。
「その……本当に、いいの?」
「何が?」
「私が、もう一度火を点けても」
「君以外に点けられる人はいないだろう」
 夏油の指と私の指が絡み合う。思い出の中と同じ体温だ。
「……ごめんなさい。勝手にいなくなって。自分のことしか考えられなくて」
 七年かけて凍らせたのは恋心だけではなかったらしい。自分本位の謝罪が次から次へと口から溢れ出てくる。
 そんな身勝手な私を、夏油はしっかりと抱きしめた。服が涙とファンデーションで汚れるのも厭わず、何も言わず。

 この温度を感じる日は二度と来ないと思っていた。だから今日だけは、甘えてもいいだろうか。
 口には出していないのに、夏油はその問いに答えるかのように私の頭を優しく撫でた。

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