『こちらN、ターゲットYに接触。少し緊張しているみたいだけど、問題ないです』
『ああ良かった。安心したよ。くれぐれも向こうに気付かれないように気を付けて』
『了解』
『こちらK、車は予定通りの場所に着けています。頼まれたものも積んでいますが……本当に大丈夫なんでしょうね』
『大丈夫だって。相手も一般人じゃないしさ、何とかするでしょ』
『こちらM、ポイントYに到着。特に異常はないんで計画通りに進めます』
『分かった。よろしく頼むよ。君の術式が鍵になってくるからね』
『はい』
『こちらY、計画通りエリアRの“掃除”が完了しました! 今はポイントHに待機してます! オーバー!』
『Y、うるさいよ。オーバー』
『あっ! すみません! 気を付けます。オーバー!』
『まだ声デカいよ。ボリューム落として。オーバー』
『了解! オーバー!』
『全然直んないね。Yは緊急時以外黙ってること。次うるさくしたら、高専に強制送還するから覚悟しとくように。オーバー』
『りょ、了解……オーバー』
『何なのよ、そのオーバーって。変な節ついてるし』
『自分の話は終わりましたって意味の合図らしい。映画で言ってるの見て使いたくなったんだろ』
『なるほど。オーバー』
『移ってんじゃねぇか』
◇ ◇ ◇
国内某所の森の中に、とある由緒正しき一族の別荘がある。
明治時代に建てられたこだわりの別荘で、かつては華やかなパーティーが催され、多くの有力者たちが腹を探り合い、時には手を結び時には相手を出し抜いたとか。ここ数年訪ねる者は一人もいなかったが、使用人たちによっていつ主人が訪ねてきてもいいように手入れされてきた。
いつもであれば近くを流れる川のせせらぎだけが聞こえるのだが、その日は多くの慌ただしい足音が大広間に響いていた。
当然である。その日は一族の大事な結婚式が執り行われるのだから。
古い呪術師の一族と政治家一族の婚姻。これは呪術界、とりわけ上層部を揺るがす大事件だった。このような婚姻自体はよくあること。大事なのは、上層部に口出しできる政界の重鎮の家とアンチ保守派の術師の家が姻戚関係になることだった。
術師が活動するには行政のバックアップが必要不可欠である。そしてそのためには政治家に術師の仕事について理解してもらわなくてはならない。上層部とはいえ、政治家に口出しをされれば従わざるを得なかった。でなければ行政の保護を失い、これまで術師の活動のためとして認められてきた特権が無くなってしまうからだ。
そして噂によると結婚相手は進歩的な考えを持っているらしい。そんな相手が呪術界の現状を見たらどう思うかは火を見るよりも明らかだ。改革は待ったなしである。
この結婚が呪術界にとって大きなターニングポイントとなるだろうと誰もが思っていた。
式は別荘の庭園で行われることになっている。瑞々しい花で飾りつけられた白亜の四阿から真っ赤な絨毯が伸びる。使用人たちは参列者たちの椅子が曲がっていないか、ごみは落ちていないかとその時に備えて入念に確認していた。
或る男がその様子を庭園の南端にあるベンチから眺めている。
陽光に煌めく銀色の髪。サングラスの隙間から覗くアクアマリン。すらりと手足の長い恵まれた体躯。仕立ての良い服を着崩して遠くを眺める様は、さながら一枚の絵画のようだった。
――随分と豪華な牢獄だ。
彼は四阿を見て嗤った。
円形のドームを支える柱がまるで檻のように見える。さしずめ白の布飾りが二人を逃がさない鎖ってとこか。
考えてみれば、僕も彼女も檻に閉じ込められた競走馬のようなものだ。血筋や家柄というステータスだけで交尾の相手を宛がわれて、優秀な子孫を残すことを最重要事項とされる。二十一世紀になって随分と経つのに僕らには制限付きの人権しか存在しない。そりゃそうだ。だって僕らは上層部からすれば“人じゃない”んだから。権利が欲しけりゃアイツ等に媚び諂って人間の仲間入りを果たさないといけない。
馬鹿げてる。でもそんな世界で僕らは生きてる。
――二度と大切な人を失わずに済むように。
そう願って僕は努力し続けてきたのに。文字通り全国を飛び回ってあちこちに頭を下げたし、僕のせいで彼女にも随分と嫌な思いをさせてしまった。それなのに結局僕の指の間から零れ落ちていく。
でも……随分前から彼女は僕に警告していなかっただろうか? もう時間がない、多少強引でも早く先に進めた方がいいって言っていたのに、それを一蹴してしまったのは僕ではなかったか。彼女には堂々と僕の隣を歩いてほしかった。たとえ祝福されなかったとしても、せめて彼女が安心して生活できるようにしたかった。そのためには正攻法でいくしかないって彼女を諭したけれど、その時の僕は本当に冷静だっただろうか。
……僕は大切に思っていたはずの彼女の言葉を蔑ろにして、彼女を失ったんだ。
男は指先を館へと向けた。狙うは新郎とその親族の控室となっている西側。このまま男が術式を発動させれば、文字通り全て消え去るだろう。
しかし男はそれをしなかった。
最強と謳われた彼の心は、すでに砕け散っていた。
◇ ◇ ◇
梓紗は珍しく緊張していた。
真っ白なAラインのドレスに身を包み、小さな椅子に座ってその時が来るのをじっと待っている。テーブルの上には愛用のピストル。明らかにこの場に相応しくない、無骨な武器を彼女はじっと見つめていた。
コンコン、と控え目にドアをノックする音がした。
「梓紗、入っていいか?」
「どうぞ」
声の主は硝子だった。
「綺麗じゃん」
「馬子にも衣装ってね」
「自分で言うな。本当に綺麗だよ」
硝子は空いた椅子に腰掛け、チラリとテーブルの上の銃に視線を向ける。
「やるんだな?」
「もう決めたからね」
「その割には手が震えてるけど」
硝子の両の掌が梓紗の右手を包む。冷えた指先に彼女の優しさがありがたかった。
「硝子姐さんには隠し事できないなぁ」
「ははっ。梓紗が私に隠し事だなんて百年早い」
梓紗は硝子の手を握りしめる。
「独りでいると考えちゃうんだよね。もし私と五条がもっとしっかり話し合っていたら、どうなってたんだろうって」
「うん」
「私はさ、別に良かったんだ。実家から認められなくても、五条と一緒に居られて、身近にいる大事な人に祝福してもらえれば」
梓紗の実家である巽家は、御三家には及ばないが、それに次ぐ古い家柄の出だった。鎌倉に幕府が開かれた頃、将軍に付き従った呪術師の末裔。元来はしきたりに縛られるのを嫌う血の気の多い一族だったらしいが、長い時間を経て格式を重んじるような家に変わっていったとか。忠義に篤く、実直。多くの術師が巽の家の人間をこのように評していた。
唯一の例外が梓紗である。彼女は自分のことを“先祖返り”したタイプと評していた。しきたりなんざクソ喰らえ。忠義なんかよりも自分の直感を信じてやりたいようにやる。それが巽梓紗という人間だった。当然、実家からは疎まれ随分前に勘当されているし、術師になってからも関係者からの消極的嫌がらせが断続的に続いていた。
「でもさ、五条が私のために奔走してあちこちに頭下げてんだよ? あの五条が。私が少しでも生きやすいようにって。それを無碍にできないじゃん。それで柄にもなく自分の気持ちに嘘吐いて、きちんと話し合わずにきたらこのザマだよ。さすがの私も湿っぽいこと考えるわ」
「はは。確かにらしくないね」
「でしょ? 『恋は熱病のようなものである』だっけ? 昔の人は上手いこと言うよね」
梓紗は困ったように微笑んで髪をかきあげると、耳元のイヤリングが蒼く輝いた。花嫁の幸せを願うサムシングブルー。それが五条からの贈り物というのは彼女だけが知っている秘密だ。
「それだけ本気ってことだろ」
「そうだね。本気だったよ」
「面倒な同期を持つと心労が絶えないな」
硝子はテーブルの上のピストルを手に取り、梓紗の手に握らせた。使い慣れたはずの相棒が、妙に重く感じられる。
「最初に梓紗の話を聞いたとき心底呆れたよ。映画じゃあるまいし、うまくいくワケないって思った」
「今からでも止めろって言う?」
ピストルを握る梓紗の手に力が入る。射貫くような彼女の視線に、硝子は降参というように両手を広げた。
「そうするのが友人としてあるべき姿なんだろうな。でも生憎私は梓紗の“悪友”だ。止めないよ」
「……ありがとう」
「どうせ止めたって聞かないだろ。私だって撃たれたくない」
「やだぁ撃たないよ」
「じゃあ絞め落とす?」
「え、私なんだと思われてんの?」
物騒な軽口を叩きながら、二人は笑い合った。
「そろそろ行かなきゃ」
チラリと時計を見て、梓紗が立ち上がる。スカートの裾をたくし上げ、ピストルをレッグホルダーにしまった。
「あ、硝子、せっかくだから一緒に写真撮ろうよ」
「いいね」
硝子も立ち上がると、スマホを取り出して梓紗に向けた。
「その前に。梓紗だけで撮らせて」
「なんで」
「五条に売りつける。どうせそのドレスも今日でダメにするんだろ」
「なるほど。そしたら猫十匹くらい被った感じでいくわ」
梓紗は飾ってあった造花のブーケを手に取り、窓際に近寄った。そして少々アンニュイな表情で窓の外を見つめる。
「相変わらず役者だね」
「実家にいた頃はバレエ習ってたからポージングだけは自信がある」
自信がある、と言うだけあって、レンズ越しの彼女はまるで別人だった。深窓の令嬢とタイトルを付けても誰も疑問を抱かないだろう。これでいて中身は狂戦士なのだから恐ろしい。
「まだ?」
「急かすなって。あともう一枚」
写真を撮り終えたのを確認すると、梓紗は硝子のスマホを取り上げて、隣にぴったりとくっついた。
画面の向こうの梓紗が満面の笑みを浮かべている。先ほどまでとは打って変わって元気いっぱいの弾ける笑顔に、硝子もつられて笑顔になった。
「行ってくる」
「気を付けて」
「写真、後で送っといて」
「分かった」
それじゃ、と梓紗は硝子に背を向けた。硝子の脳内に十年前に居なくなり、死んでしまった旧友の姿が浮かんで重なった。
「梓紗ッ!」
硝子の叫び声に、梓紗は足を止める。
「何があっても、帰ってこいよ」
「もちろん」
梓紗はにっこり笑って部屋を出ようと踵を返す。が、そこで足を止めた。
「うーん。やっぱり動きづらいわ」
梓紗はバリバリをドレスの裾を引き裂き、あっという間に膝丈にドレスを改造してしまった。そしてハイヒールを脱ぎ捨て、鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。
◇ ◇ ◇
コン、コン、コン、とゆっくりとノックする音が聞こえた。
「失礼いたします。ご準備はいかがでしょうか」
外からスタイリストが僕に声をかける。もうそんな時間だったのか。全く気が進まない。最悪な気分だ。空に雲一つないのも気に食わないし、爽やかで心地いい風が吹いてるのも面白くない。これほど呪ってやりたいと思った結婚式なんて初めてだ。
いっそのことバックレてしまおうか、とも思う。でもそれじゃあ梓紗に申し訳が立たない。この結婚は僕の夢――呪術界を変えるっていう夢を実現させるためには絶対に必要だ。だからこそ、梓紗は望んで僕から離れていったんだ。そんなキャラじゃないのに、それで術師の待遇が良くなるならって言って。
だから僕は逃げちゃいけない。梓紗のためにも、絶対に逃げられない。
「問題ないよ。今行く」
僕は真っ白なジャケットを羽織って、部屋を出た。
牧師の後に続いて、赤い絨毯の上をゆっくりと歩く。
ゲストは皆僕に向かって拍手してる。渋い顔をした爺、始まったばかりなのに号泣してるおばさん、僕の姿を見てどよめく新婦友人……年寄りが総じて渋い顔してるのはウケる。最前列の爺なんかパクチー十倍盛りにした料理食った後みたいな顔してるじゃん。あーあ、なんで僕が主役なんだろ。ゲストだったら絶対写真撮って酒の肴にしてやったのに。飲めないけど。
そういえば、悠仁たちはどうしたんだろう。彼らの呪力は感じるのに、姿が見当たらない。高専関係者にも招待状は出したって聞いてたけど、披露宴からだったかな。でもいなくて正直ほっとしてる。だってこんな情けない姿、可愛い教え子たちには見せたくないからね。
少しして、新婦が絨毯をゆっくりと歩いてきた。
僕の戸籍上の妻になる人は綺麗な人だった。なんて言うか……そう、ハイブランドのモデルになりそうな人。手足が長くて、骨格がはっきりしてて、目がぱっちりしてる。式の前に少しだけ話したけど、僕とほとんど変わらない年齢なのに落ち着いてて話も面白くて。彼女も呪霊が見えるらしく僕らの仕事にも理解があった。梓紗とは大違いだ。たぶん彼女は梓紗みたいに酔った挙句、僕の秘蔵のおやつを食い尽くすようなことはしないだろうし、鞄の中から一年前の任務報告書の紙がくちゃくちゃになって発掘されることもないんだろう。素敵なパートナーになるんだろうな、と素直に思う。
だからこそ……彼女には本当に申し訳ないことをしたと思う。だって僕が一緒にいたいと思うのは梓紗だから。どんなにガサツでもゴリラでも僕が愛しているのは梓紗だけなんだ。
とはいえ、もうここまで来てしまった。籍こそまだ入れてないけど、今日から僕はあの人の夫になり、あの人が僕の妻になる。たとえ愛していなかったとしても、呪術界の改革のためには彼女とは良い関係性を築かなくてはならない。
僕は頭の中で大暴れしている梓紗を追い出して、彼女を見た。父親が急な体調不良で欠席することになったとかで、介添人と一緒にバージンロードを歩いている。上品な総レースのドレスは彼女によく似合っていた。新婦側の招待客は彼女の姿を見て嬉しそうにしていた。皆から祝福されている。きっと良い子に育てられたんだろうな。介添人の野薔薇もベールを持ちながら鼻をすすって……
……え?
ちょっと待って。なんで野薔薇が彼女の介添人やってんの? こういうのって新婦友人とか親戚の子どもがやるもんじゃないの? なんで野薔薇? っていうか、彼女と知り合い? どういうこと?
久し振りにパニックを起こした。こういう時に限ってアイマスクもサングラスもかけてないから、目が泳ぎまくってるのがゲストに丸わかりだ。いや野薔薇はなんで僕に向かってちっさく親指立ててんの。意味わかんないんだけど。
混乱する僕をよそに式は進む。訳も分からないまま讃美歌を歌って、ニセ牧師のありがたーいお言葉を聞く。でも僕としては式どころじゃない。
冷静になってみれば野薔薇と彼女が知り合いだとしたら彼女が僕にその話をしないわけがないのだ。彼女はそういう人だ。だから野薔薇が介添人をやっているのには必ず理由がある。可能性としては二つ。一つは僕の実家に抱きこまれて“生徒からも祝福された結婚である”という印象を周囲に与えるため。もう一つは、野薔薇がサプライズを計画しているため。生徒たちも僕と梓紗の関係を知っているから前者の可能性は低い。となると何か企んでることになるけど、野薔薇単独でやるとは思えない。近くにいるはずの悠仁や恵も一枚噛んでるはずだ。ただ……
「――さん。悟さん!」
彼女の声でふと我に返る。考え事をしているうちに誓いの言葉まで進んでいたらしい。彼女は少し強張った顔をしている。そりゃそうか。式の最中に新郎が他のこと考えてりゃ不安にもなる。
僕は大きく深呼吸をした。もう後戻りはできない。覚悟を決めて僕は――
ドルルルルルルルルル……
遠くから聞こえてきたエンジン音に邪魔されて、言葉がどこかへ飛んで行ってしまった。明らかに近づいてくるし、ガードマンが叫ぶ声もする。異様な空気に、会場にもざわめきが起きた。
どういうことだ。ガードマンには万が一に備えて僕の実家が選抜した術師を配置しているはずだ。それに招待状を持ってる人間しか入れないように帳も下ろしたって聞いてる。そりゃあ何事にも抜け穴はあるものだけど、それにしたって五条家のハレの日に警備に穴があるなんて考えられない。余程の手練れか裏切者がいるか……
「僕の後ろにいて」
万が一に備えて彼女に声をかける。すかさず野薔薇も彼女の側に駆け寄った。うん。その方が良い。敵に集中できる。
綺麗に整えられた芝生を蹴散らしながら、某漫画よろしくドリフト急ブレーキで派手に登場したのはハーレーダビッドソン。運転手は真っ白なドレスを着ていた。膝丈のドレスは引き千切られてるのか、ほつれて裾の方で糸が蜘蛛の巣みたいになっている。そこに真っ黒なフルフェイスヘルメットに真っ黒なグローブ、真っ黒なバイクブーツ。どう考えてもヤバい奴なんだけど、僕はその呪力に覚えがあった。
「梓紗……?」
はたして運転手は梓紗だった。ヘルメットを脱ぎ、彼女は不敵な笑みを浮かべる。やば、かっこいい。
「五条!」
彼女は叫ぶと、クイ、と親指でハーレーの後部座席を指さした。え、これってそういうこと? ドラマでしか見たことがないアレなの?
「ボケっとしてないで、さっさと乗りな!」
「はい!」
反射的に返事をして、梓紗の側に駆け寄った。
梓紗はヘルメットを僕に投げて寄越す。僕は梓紗の後ろの席に座り、しっかりとヘルメットを被った。梓紗はレッグホルダーからピストルを取り出し、会場全体に響き渡る声で叫んだ。
「それでは皆さんごきげんよう!」
パァン、という軽やかな音と共に、銃口からひらひらと花びらが飛び散った。そして空からも大量の花とウサギが降ってくる。初めて見るけど、ウサギに込められた呪力は恵のもの。鵺で空から様子を伺いつつ、銃声を合図に花びらとウサギをばら撒いて会場を混乱させるつもりらしい。
「しっかり掴まってなよ!」
僕は梓紗の細い腰を掴む……いや、抱き着くって言った方が正確かもしれない。とにかく振り落とされないように梓紗にしがみつく。と、同時に梓紗はエンジン全開でハーレーを走らせた。
彼女にしがみつきながらも僕の中の大人な部分がこれはまずいと叫んでいた。結婚式当日に脱走するなんて、相手の顔に泥を塗って上から墨汁をぶちまけるような行為だ。そもそものきっかけは実家が勝手に持ち込んだ縁談だけど、上層部に切り込むには最高の武器になるのは間違いなかったからこそ僕も乗っかったのだ。それによって多くの若い術師が救われるだろう。
でもその一方で、この状況を愉快で仕方がないと思ってる僕もいる。当主としての責任だとか呪術界の改革だとかを全て放り投げて、ただ風を切って走ることの心地よさったら! 別にそれらが嫌なわけじゃない。好きでやってることだし。それでも背負った荷物を下ろして足を止めたくなる時ってあるじゃない。だって人間だもの。
僕だって飛べるけど、こんなに清々しい気分になったのは何年振りだろう。っていうか移動するっていう行為自体を楽しむのは初めてかもしれない。僕も大型二輪の免許取ろうかな。いや、やっぱり梓紗が運転して僕が後ろの方が良いな。その方が密着できるし、僕と一緒なら無下限で雨に濡れずに済むし貰い事故で衝突ってことも無くなるじゃん。僕、天才かも。ああ二人でツーリング行きたいなぁ。どうせなら一泊二日で温泉地行きたい。バイクで移動して温泉堪能して旨いもん食ってゆっくり観光して。そんで綺麗な夕焼け見ながらバイクで帰んの。もう最高じゃん。
僕の思考が妄想の世界を彷徨ってる間に、僕らは敷地の外まで辿りついた。道路の向こうにはミニバンが停まっていて、側に誰かが立っていた。野薔薇だ。こちらの姿を見つけると大きく手を振って急いで車に乗り込んだ。いつの間にこっちへ移動したんだろうか。
梓紗はミニバンの側にハーレーを停めた。僕らが降りると同時に影にずぶずぶと飲み込まれていく。恵の術式だ。めっちゃ便利じゃん。
「五条、車乗って! 助手席の方ね!」
梓紗に急かされて僕は慌てて助手席に乗り込む。なんと運転席に座っていたのは七海だった。
「意外。七海がこんな規程破りの極みみたいなことに協力するなんて」
「ええ。実に不本意です。ですが――」
七海がアクセルを踏み込む。
「巽さんに脅されましてね。協力しなければ向こう一年間私の背広にポップでキュートな落書きを施すそうです。逃げたら地獄の果てまで追いかける、なんて言われたら協力せざるを得ないでしょう」
うわぁ、地味だけど結構キツイ嫌がらせだ。
「ちょっと、そんな言い方してないんだけど」
「ああ、確かにこんな“言い方”ではありませんでしたね」
「クッソ、マジで可愛くない後輩だな。そもそも七海が素直に協力してくれれば、そんなこと言わずに済んだんじゃん」
「その可愛くない後輩に頼らざるを得なかった自分の人脈のなさを嘆いてください」
「ッカー! 七海、高専帰ったら落書き刑執行するから」
やいのやいのと七海と梓紗が喧嘩……っていうか、梓紗が一方的に騒ぐから諫めようと後ろを振り向く。するともう一人、意外な人物が座っていた。
僕の戸籍上の妻になる筈だった彼女だ。恋人と元婚約者が二人並んで座ってる絵面は僕が悪いことをしているみたいでとっても居心地が悪い。しかも二人とも白いドレス着てるし。
「えっと……これってどういうこと?」
「どうって言われて言われても……五条の見たまんまだけど」
「私たち、最初から仲間だったの」
二人の話を総合すると、こうだ。
僕の結婚話を一度は受け入れた梓紗だったけど、時間が経ってやっぱり嫌だと思ったとか。そこで大胆にも、婚約者だった彼女に話をつけに行った。縁談が持ち上がってから決まるまでの時間が極端に短いことから、当事者同士も会ったこともないのではと踏んだらしい。それならばひっくり返せるかも、というわけだ。
梓紗の読みは大当たり。この結婚話は当事者である僕らを頭上で、親同士が双方の利益――五条家としては大きな後ろ盾、先方は年頃の娘を良い家柄の男に嫁がせたという世間体――のためだけに決まったのだ。当然、彼女の方も僕に恋人がいたなんて全く知らなかったし、そもそも互いの顔も知らないのに結婚だけが決まるという前時代的なやり方に不満を覚えていたそうだ。
けれど当事者同士が反対したとしても、家同士の繋がりだけで決まった結婚がそう簡単にひっくり返せるわけじゃない。それに、繰り返すようだが、この結婚によって呪術界の改革が大きく前進する可能性だってあった。そのあたりの事情は彼女も父親から伝え聞いたらしい。
そこで彼女が思いついたのが今回の“駆け落ち騒動”だった。彼女が大勢の人の目の前で恥をかかされれば、当然彼女の両親も黙ってはいないだろう。そもそもこの縁談は僕の実家が持ち込んだ話だった。当然、恋人がいる息子と結婚させようとしたのはどういうことか、という話になる。が、これは古い術師の家系ではよくあること。責められたとしても、慣習だからとしか僕の実家は答えようがない。それをきっかけに呪術界の腐った慣習にメスを入れられるのでは、というのが彼女の考えた策だった。政治家としては呪術界を保護して便宜を図る以上、あまりにも社会常識とかけ離れた行いを見過ごすわけにはいかない、という理屈である。
「でもそれだったら僕にも言ってくれればよかったのに」
「だって五条ずっと任務で居なかったじゃん」
それを言われるとぐうの音も出ないよ。確かにあの時期は忙しくて高専どころか東京にも近寄れなかったから。
「ま、結果オーライでしょ。五条の驚く顔も拝めたし」
「悟さん、ものすごくパニックになってましたよね。視線が泳ぐっていうよりも小刻みに震えてたって感じ」
僕の婚約者――今は元、が付くのか――はそう言って楽しそうに笑っている。
「不謹慎かもしれないですけど、映画みたいでなんだか楽しかったです。伏黒くんの、式神でしたっけ? あれにも乗せてもらったんですよ」
「いいなぁ。私、ずっと乗せてって頼んでるんですけど、一度も乗せてくれないんですよ」
「ふわふわの羽毛で空飛ぶの、とっても気持ち良かったですよ。あっ! 今度一緒に乗せてもらったらどうでしょう」
「それ、めっちゃ良いアイディア! 楽しいが確約されてるじゃないですか」
そして意外だけど梓紗とも打ち解けてるみたいだった。事前に知っていたとはいえ、この状況を楽しめるところを見ると、もしかすると彼女はスリルを求めてしまうタイプなのかもしれない。多分バンジージャンプも飛べるクチなんじゃないかな。
「でも、本当に良かったんですか? こんな形で破談になっちゃって」
野薔薇が座席と座席の間から顔を出して彼女に問いかける。
「友だちには申し訳ないことしたとは思ってます。でも好きでもなければタイプでもない相手と結婚するよりはずっと良い」
「え、先生のこと、タイプじゃないんですか?」
急に野薔薇の食いつきが良くなる。掘り下げなくてもいいところだけどね。
「世間的にはカッコいい顔なんだろうとは思いますよ。でも好みではない」
「じゃあどんな人が好みなんですか?」
「私、もっとがっしりした人が好きなんです。それとこれは好みっていうよりは『こういう人とお付き合いしたい』っていう願望なんですが、本を読むのが好きなので、やっぱり本好きな人が良いです。真面目ならなお良しです。パンの食べ歩きも好きなので、お休みの日には一緒にパン屋巡りできたらいいなって思います」
「がっしりしてて、真面目でパンが好き……」
なるほどね。確かに僕は彼女のタイプじゃないわ。むしろ……
僕は運転席に座ってる七海をじっと見つめた。僕だけじゃない。梓紗も七海を凝視してるし、なんなら野薔薇も。
「えっと……皆さんどうされたんですか? 急に黙って」
「いや、私らの共通の知り合いで、イイ感じにその条件に当てはまる人がいて」
「そうなんですか? それってどんな……」
と言いかけて、彼女は僕らの視線の意味に気づいたようだった。車内に広がる何とも言えない空気。当の七海はというと、チラリとバックミラーを見て盛大に溜息を吐いた。
「巽さん、後ろ。どっちの家の方か分かりませんが追いかけてきているみたいですよ」
「マジ? せっかく面白くなってきたとこなのに」
「うわぁ、あれ僕の実家の連中だ」
余程腹に据えかねたとみえる。そりゃそうだ。僕らのせいで面目丸つぶれ。怒って当然だろう。
「ふふふ……やっぱり用意しといてよかった」
梓紗が嬉しそうに足元をごそごそしている。取り出したのは軽機関銃だった。
「あ、これサバゲ―用に売っているやつなんで合法なやつです」
どや顔で分かってますアピールをするけど、元婚約者が微妙な顔をしてる理由はたぶんそこじゃない。
「なんでこんな大きいの持ってきたの!」
「だって機関銃が良かったんだもん! 機関銃乱射して最後に『快……感……』ってやりたいじゃーん」
「『やりたいじゃーん』じゃないよ」
「はぁ? 赤川先生馬鹿にすんなし」
「馬鹿にはしてない。小説は面白いし、映画も良かった。でもそれとこれとは話が別。これ以上銃器増やしてどうすんの? 梓紗の家、武器商人の店みたいになっちゃうでしょ」
「もうなってるから問題ないですぅー。七海ぃー、サンルーフ開けてくれる?」
梓紗は僕の話を無視して座面によじ登った。
「ふふっ。二人とも息ぴったり」
元婚約者の彼女が笑う。
「梓紗さんも悟さんも、夫婦喧嘩は全て無事に終わってからにしないと。追い付かれちゃいますよ?」
「……言うねぇ」
梓紗は嬉しそうに笑うと、座面に立ち上がってサンルーフから上半身を外に出した。頭上から奇声と共に、タタタタタ、という乾いた音がする。遅れて、後ろの窓からカラフルな粉が飛び散っているのが見えた。視界を奪われた追手の車はどんどん遠ざかっていく。梓紗が汚い高笑いをしているのが聞こえた。
夫婦喧嘩。さっき彼女から言われた言葉が、今になって嬉しくなってきた。もう彼女と離れなくて済むんだ。その事実だけで涙が溢れそうになる。
「巽さん、笑い方えぐっ……悪役かよ」
ぼそりと呟いた野薔薇の言葉が耳に飛び込んできた。
「そしたら僕が姫かな。悪役に誘拐されちゃう姫」
違うのは、僕の心はとっくの昔に梓紗のものって所かな。
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