日車は会議室で資料を読み込んでいた。高専から貸与されたタブレット端末の画面には来月からの長期任務に関する資料が表示されている。任務について事前に話がしたいと五条に呼び出されたのだが、約束の時間を過ぎても五条が現れる気配はなかった。何もせずにぼんやりしているのも落ち着かず、今一度任務の背景について確認することにしたのである。
日車は体を震わせて、部屋の隅にあったハロゲンヒーターを自分の席のすぐ近くまで移動させた。東京の冬は寒い。日車が数か月前まで暮らしていた盛岡の方がずっと寒いはずなのだが、どういうわけだか東京の方が寒く感じられた。日車はかじかむ手をヒーターで温めながら資料のページを繰った。
次のページには女性の写真が載っていた。柔らかい素材のブラウスを着て艶のある長い黒髪を上品にまとめた姿は朝のニュース番組の女性キャスターを思わせる。
「巽、梓紗……」
日車は資料に書かれた女性の名を口にする。
日車は彼女を知っていた。否、ある事件における当事者としての彼女を知っていたと表現すべきだろう。日車が知っているのは彼女のほんの一部分に過ぎないのだから。
日車は己の脳に保存されている彼女の事件の記憶を手繰り寄せた。
二〇一五年十二月、会社員の男性に毒を飲ませたとして、梓紗は殺人容疑で逮捕された。被害者は梓紗の勤めている企業に出入りしていた営業員Aで、エレベーター内で倒れているところを他の宿泊客に発見された。駆け付けた救急隊によって病院に搬送されたが間もなくAの死亡が確認される。警察によると、エレベーターに設置された防犯カメラが犯行の瞬間をとらえていたという。Aは梓紗と共に夜十時過ぎにホテルを訪れ、エレベーターに乗り込んだ。Aはエレベーターに乗り込むと梓紗に覆い被さるように抱きつき体を触るなどしたが、ほどなくして床に倒れこんだ。梓紗はエレベーターを最寄階で停止させて被害者を置いてホテルから立ち去った。
彼女の同僚によると、Aは嫌がる梓紗をつけ回したりしつこく食事に誘ったりするなどしていたらしい。事件当日は彼女が勤務する企業主催で取引先関係者を招待しての忘年会が開かれていた。Aも招待されており、梓紗は上司に欠席したいと申し出ていたが、上司はそれを断っている。Aは梓紗に強引に酒を飲ませ、猥褻目的でホテルに連れ込んだとみられる。忘年会で提供された料理を調べたが毒物は検出されなかった。彼女の自宅や持ち物からも毒物は見つかっていない。取り調べに対し、彼女は容疑を否認していた。
「おまたー、日車先生。おっ、予習? ちょー真面目じゃん」
気の抜けた挨拶をしながら五条が会議室に入ってきて、複数ある空席の中からわざわざ日車の隣を選んで座った。日車はタブレットを避けてスペースを作る。五条は空いたスペースに持っていたビニール袋を置いた。
「その『先生』というのは止めてくれないか? 俺はもう――」
「弁護士じゃない、でしょ? 分かってるよ、日車先生」
五条はビニール袋から箱を取り出した。包みには青空と古民家と軒先に吊るされた柿が印刷されている。そういえば五条は今日まで北陸出張だったか。日車は会議室に来る前に伊地知と交わしたやりとりを思い出す。ならばあの包みは出張土産というやつなのだろう。
「あれ、日車先生って寒がり? そのヒーター使ってる人初めて見た」
「寒がりだと思ったことはなかったんだがな。建物の断熱性能の違いなのか、風の強さの違いなのか、何故か東京の方が寒く感じる」
「あー、そういえば悠仁も東京の風は冷たくて痛いって言ってたな」
五条は牧歌的な包装紙を容赦なく破り開け、箱から干し柿を取り出した。そして自身の糖分で真っ白に化粧した干し柿に噛みつく。どうやら自分用の土産物だったようだ。
「そうはいっても、やっぱり雪国の寒さはレベルが違うね。現場が山ん中だったからそれなりに防寒対策はしてったんだけど、それでも寒くてさぁ。目測誤って雪崩起こしちゃった。ま、僕だから被害ゼロで済んだけど」
相当甘いだろうに、五条は飲み物も飲まずに干し柿を食べ進める。日車も甘いものを食べる方ではある。弁護士時代、徹夜で書類を作成しなければならない時などはチョコレートを食べ過ぎて助手に叱られたものだった。そんな日車でも五条の甘党っぷりには毎回新鮮に驚いていた。
「寒いとエネルギーを余計に使うんだよな。僕、お菓子はクリームが入ってるやつが好きなんだけど、クリーム大福じゃ全然足んないんだよ。それで気分を変えて干し柿を買ってみたら満足度が段違い。保存食ってすごいね。あ、日車先生も食べる?」
「いや、遠慮しておく」
「そう? なら全部僕が食べちゃおうっと」
五条は残ったヘタと個包装の包みをゴミ箱に投げ入れ、新しい干し柿に手を伸ばした。
「でさ、ここからが本題なんだけど、なんで今回の任務を引き受けようと思ったの? 寒くて判断力が鈍った感じ?」
世間話でもするかのような口ぶりで、五条は日車に質問を投げかけた。先ほどまでと同じトーン、同じ表情で発せられた問いのはずなのに、妙なプレッシャーがある。日車は己の肌が粟立つのを感じた。
日車がアサインされたのは、術式によって生み出された毒の解毒薬を精製する任務だ。梓紗はその術者である。呪術師の家系に産まれたが、訳あって呪いについて学ぶ機会を得られず、意図していないタイミングで術式を発動させてしまうのだそうだ。
「引き受け手がいなくて困ってたから、先生が任務を受けてくれたのはマジでありがたいと思ってるよ。でもそれなりに死線を潜ってきた呪術師でも嫌がる任務なのに、即答ってのがちょっと気になったんだよね」
この任務で精製するのは抗毒血清だった。彼女の毒を少量ずつ日車に投与して体内で抗体を作らせる。十分な量の抗体ができたら血液から抗体を分離して血清を精製するという流れだ。少量の毒であれば呪力で体を守って無害化できることが確認されていたし、投与の際には家入が体調の変化をチェックすることになっている。だがこれだけ手厚いサポートがあってもアサインを断られるような状況が一年近く続いていた。
原因は毒の投与法にあった。
梓紗の術式は体液を毒に変えるというものだ。人の体内に入ると呼吸困難を引き起こすのだが、体外では一分足らずで分解されてしまうという実に暗殺向きの性質を持っていた。そのため毒の量を管理して投与するには、術式を発動させた状態で彼女とキスをする等して体液を直に取り込むしか方法がなかったのである。真面目な呪術師はもちろんのこと、性に奔放なタイプの呪術師も毒のキスに怖気づいて引き受けたがらなかった。
「日車先生って真面目じゃん? 仕事で女子とキスできてラッキーってタイプでもないでしょ」
「人は見かけによらないものだ。俺もそういうタイプかもしれないだろう?」
「そうなの? じゃあ今度飲み会があったら日車先生と親睦を深めるために猥談でも振ろうかなー」
それが本当ならね、と五条は付け加えた。
――あまり意味のない冗談は言うものじゃないな。
日車は己の発言を反省する。
「済まない。冗談だ」
「だよねー。本当にそうなら『そういうタイプかもしれない』なんて言わないもん」
五条は椅子を引いて足を組み、テーブルに片肘をついた。そしてタブレットの画面を何度か指先でなぞる。
「日車先生、彼女の弁護人やってたでしょ。それで上層部のおじいちゃんたちが日車先生は彼女に対して良い感情を抱いてない騒いでたんだけどさ、本当のところどうなの?」
五条はタブレットを日車の方へ向けた。タブレットには事件発生を伝える小さな新聞記事のキャプチャが表示されていた。
梓紗の祖父が日車の事務所を訪ねてきたのは、彼女が逮捕された翌日のことだった。彼女の父が日車の大学時代の恩師と親交があり、その縁で日車に弁護を依頼しに盛岡までやってきたのだ。最初は東京にも優秀な弁護士はいると断った。だが梓紗の祖父はたった一人の孫娘をどうしても助けたいのだと土下座して泣くのである。その剣幕に負けて引き受けたのだった。
状況としてはあまり芳しくなかった。本人は容疑を否認しているし殺害方法もはっきりとは分かっていない。だが防犯カメラの映像を見る限りでは彼女以外に犯人がいるとも考えにくかった。おまけに殺害動機もある。検察の描くであろう筋書き――度重なるストーカー行為に腹を立てた彼女が毒を用意して殺害したというストーリーはいかにもそれらしく思えた。
しかも梓紗が中毒事件を起こしたのはこれが三度目であった。一度目は梓紗が高校生の時だった。当時はまだ毒性が弱かったこともあって一命を取り留めたものの、現在も後遺症が残っているらしい。この時は誤飲事故として処理された。二度目は就職したばかりの頃だった。この時は残念ながら被害者が亡くなっており、警察は毒殺の容疑で梓紗を逮捕している。毒物の入手ルートや被害者に毒を飲ませる方法も分かっておらず、事件当時使用した食器や口にしていた食べ物からも毒物が検出されなかったことから嫌疑不十分で不起訴となっていた。だが今回の事件を受けて、これら二つの事件についても再捜査となる可能性が浮上したのである。
もし過去の事件を含めて連続殺人として起訴された場合、最も軽い刑で懲役三十年。複数人を殺害していることから死刑も視野に入ってくる。殺人罪には執行猶予はつかない上に仮釈放も絶望的。誇張ではなく梓紗の人生がかかった裁判となるのだ。日車の脳裏には事務所の床に頭を擦りつける梓紗の祖父の姿が焼き付いていた。日車は少しでも量刑を軽くできる道を探して必死に動いた。
だが事件は思わぬ方向に転がっていく。検察は彼女を重過失致死で略式起訴をすると言い出したのだ。梓紗の弁護人としては降って湧いた幸運としか言いようがなかったものの、不可解でもあった。あれが過失――すなわち、本人の不注意によって引き起こされた事故だとは思えなかった。日車はそれとなく担当検事に理由を尋ねたが、新たな証拠が見つかった、本人も自白しているの一点張り。梓紗に確認してみても言葉を濁すだけで詳しいことは何も聞き出せなかった。
呪いや術式というものについて知った今であれば、重過失致死で略式起訴したのも納得できる。だが当時の日車は釈然としない思いを抱えて、事件の後始末をしたのだった。
「過失だとそんなに軽くなるの?」
「二人が亡くなっているから重大な過失ということにはなる。それでも重過失なら五年以下の懲役もしくは禁錮、または百万円以下の罰金で済む。今回は本人も罪を認めていたこともあって、正式な裁判ではなく検察の提出した書類のみで審理が行われたんだ。彼女は出廷する必要はない。判決が下って罰金を納付すれば即釈放だ」
「そりゃすごい」
五条は感心したように干し柿を齧った。
「とにかく、彼女の事件で俺は弁護人としての仕事はほとんどしていない。させてもらえなかったと言い換えても構わないが」
「え、なに。それで怒ってんの?」
「そうじゃない。被疑者の罪が軽くなったのは弁護人にとっても喜ばしいことだ」
「じゃあ何が気に喰わないのさ。あ、高専が介入したのを教えてもらえなかったこと?」
日車の眉間に皺が一本増えた。
彼も資料を読んで初めて知ったことだが、検察の不可解な決定には高専が一枚噛んでいたのだった。警察では過去の毒殺事件もあわせて連続殺人にできるかもしれないとちょっとした騒ぎになっていたらしい。それがきっかけで高専が介入するところとなったのだそうだ。高専は検察に梓紗の術式のことや彼女個人の事情を説明した。そして術式の運用と呪力コントロールの指導、そして抗毒血清の精製をするということで情状酌量を求めて交渉をしていたのである。検察は本人も罪を認めていること、そして高専側の提示した条件などを考慮して略式起訴とすることにしたのだった。その時の高専側の担当者が五条だ。
「高専が介入したとき、毒の特性を調べるために家入が彼女の身体検査をしただろう。被疑者の身体検査には専用の令状が必要となる。令状なしで身体検査をしたとなればそれは違法捜査だ。だが俺には一切知らされなかった。そんな大事なことを弁護人の俺に隠していたとなれば不信感を抱くのも無理はないと思わないか?」
だからといって彼女を害するつもりはないが、と日車は付け加えた。おそらく五条が一番聞きたかったのはそこなのだろう。なにせ日車は判決が不服だからと検事と裁判官を殴り殺したのだ。疑われるのも無理はない。
五条はニヤリと笑って携帯を取り出して何やらメッセージを打ち始めた。日車の答えは「正解」だったらしい。
「確かに上手くやったとは言えないよね。言い訳でしかないけど、呪詛師系の事件って普通は捜査の段階で高専に引き継がれるんだ。今回、初めて送検までいっちゃったから立ち回りのノウハウが蓄積されてないんだよ。あ、そうだ。今度日車先生の経験を活かして勉強会開いてよ」
「待ってくれ。彼女は呪詛師扱いになるのか? 術式のコントロールが未熟であることは考慮されて然るべきだろう」
まあね、と五条は苦笑いをする。
「呪詛師認定を下すのは呪術総監部なんだけど、総監部のジジイ共に都合の良いようにルールを捻じ曲げるわけ。だからこそ交渉の余地があるんだけど、彼女の場合はまたいろいろ面倒なんだよ。実家が――」
五条の言葉を遮るようにテーブルの上の携帯から電子音が鳴り響いた。五条はメッセージを確認して、手早く画面をタップする。
「時間切れだ。僕、この後任務があるからもう行かないと」
「もういいのか? 任務を引き受けた理由は話してないが」
「んー、気になるっちゃ気になるけど、一番大事なことは聞けたから問題ないかな。そっちは別の機会に取っておくよ。いやー、人気者は辛いな」
五条は残った干し柿を袋に突っ込んで外箱を潰した。
「あとで伊地知から連絡がいくと思うけど、事前検査やるみたいだからちゃんと受けてね。それと、今後の祓除任務のスケジュールも組み直しになるから間違って違う現場に行かないように。じゃ、頑張って」
それだけ言うと、五条はひらひらと片手を振って会議室を出て行った。
入れ替わるように日車の業務用携帯が上着の中で震える。画面には「伊地知潔高」と表示されていた。さすが仕事が早い。日車は任務予定を記録している手帳をテーブルに広げ、電話に出た。
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