任務を終えた日車は真っ直ぐに事務所へと向かった。帰りの車の中で仕上げた書類を提出するためである。任務の報告はその日のうちに。それが日車のスタイルだった。
「任務報告書と経費申請書を提出したい。それと、この後自主訓練をしたいんだが、空いている道場はあるか? 呪具も借りたいから貸出手続きも頼む。訓練用だから学生が使うようなもので十分だ」
カウンターの補助監督に書類を手渡しながら、日車は手続きの依頼をする。
「あー、僕、担当から外れたんですよ。呪具貸出申請書の書式も最近変わったんで、少し待っててもらえますか? 後任から説明させますんで」
「分かった」
日車は言われた通り、事務所内の小さな打ち合わせスペースで彼の後任者を待つことにした。待っている間にタブレット端末で明日の祓除任務の概要を確認し、継続中の調査任務について“窓”から上がってきた報告に目を通す。一級呪術師ともなると、待ち時間を潰すのに困らない程度の仕事は常に抱えているのだ。
毒の投与から三週間。日車は健康そのものだった。投与後の検査では、日車の血液中に抗体が産生されているのが確認されたし、健康状態にも異常はない。体調に気を付けながら過ごしていた分、心なしか前より元気になった気すらする。
――術式の再解釈、か。
日車は先日の検査で家入から言われたことを反芻する。
梓紗の毒のもう一つの作用について家入に訊ねたところ、家入も知らなかった。少なくとも一年前に調べたときにはそのような効果は確認できなかったらしい。いつの間に身に着けたのかは家入にも分からないそうだ。釈然としない様子の日車に対し、家入が一つの可能性として提示したのが、術式の再解釈というものだった。
どうやら梓紗の術式の芯となる能力は「体液から毒を精製する」「精製した毒には一つだけ追加の効果を付与できる」という二つなのだという。五条が実家の蔵を整理していた際に、江戸時代に書かれた当主の日記にそのような記述があったのだそうだ。日記によると、巽家の呪術師は代々追加の効果として催淫効果を選択したらしい。それを梓紗が「催淫効果を付与した毒」だと勘違いして術式を再解釈したのではないか、というのが家入の考えだった。
日車にはどうしても梓紗がその仮説通りに考えたとは思えなかった。梓紗のことはよく知らないが、かつて彼女の事件を担当した時に前の職場の同僚は口を揃えて梓紗のことを「優秀だ」と証言していた。伊地知も「真面目で飲み込みも早いから助かっている」と言っている。その彼女がそんな単純な思い違いをするのだろうか。そもそも彼女は教育を受けられなかったとはいえ、産まれながらの呪術師なのだ。少なくとも最初の事件を起こした十代の時に術式と向き合ってるはずである。それだけの時間があって核心が掴めないなんてことがあるのだろうか。
――さすがに無理、か。
あの五条ですら呪いの世界は奥が深いと言っているのだから、核心を掴むというのは並大抵のことではないのだろう。呪術師を減らす方針の狗巻家の息子も幼い頃は自身の術式の扱いに苦労したというのだから、梓紗が術式を制御できないのも無理はない。
ちなみに巽家のその後については五条家当主の別の日記にも記載が残っていたらしい。巽家はそれなりに古い家系なのだが、ある時を境に呪術師が産まれなくなってしまったという。時代が下るごとに術式を持たない者が増え、呪霊すら視えない者が多数派となり、昭和初期には非術師と同じように暮らすようになっていたそうだ。
「お待たせしてすみません」
不意に聞き覚えのある声がして、日車は目線を上げる。そこにいたのは真っ黒なパンツスーツに身を包んだ梓紗だった。
「君は……」
「僕の後任の巽さんです。今後は彼女に申請をお願いします」
「よろしくお願いします」
梓紗は軽く会釈すると、日車に呪具の貸出申請書を手渡した。補助監督に見守られながら梓紗は記載方法を日車に説明する。緊張しているせいか、随分とぎこちない説明だった。補助監督はそんな梓紗に苛々しているようで、度々補足説明や訂正を入れていた。日車は二人から言われた通りに 申請書を書き上げた。それを彼女が確認して補助監督が間違いはないか再確認する。何も問題はなかったらしく、やっと補助監督の顔に笑顔が戻ってきた。
「お時間おかけしてすみませんでした」
「気にしないでくれ。この後に急ぐ予定があったわけでもないし、誰にでも初めてのことはある」
「それと今月から呪具保管庫に入るには補助監督の立ち合いが必要になったんです。巽さん、鍵は?」
「すみません。すぐに取ってきます」
彼女は風を切るような勢いで頭を下げ、小走りで事務所の奥へ向かっていった。
「お見苦しいところをお見せしてしまってすみません」
「彼女、いつもああなのか?」
「いや、いつもってわけじゃないんですよ。僕の教え方も悪いのかもしれないですし……」
自分の教え方も悪い、という言葉とは裏腹に、補助監督の口からは次から次へと梓紗への文句が飛び出した。要約するなら、どんくさい、何を考えているのか分からない、言った通りにできない。一度火が付くと止められないタイプらしく、日車が諫めたものの、補助監督の声はどんどんと大きくなっていった。相当にストレスが溜まっているようだ。
――こちらが厳しいのか、伊地知が甘いのか。
どちらもあり得る。この彼がやったように第三者の前で叱責しては萎縮してしまう。それでは本来の能力を発揮することはできないだろう。ただ、伊地知も伊地知で人への評価が甘い傾向にあった。
そんなことを考えているうちに、大きな鍵束と呪具の管理台帳を持った梓紗が戻ってきた。補助監督は半ば奪い取るようにして梓紗から鍵束を受け取り、鍵番号を念入りに確認する。どうやら正しい鍵束だったらしく、補助監督は梓紗に鍵束を返した。
「貸出の手順はさすがに分かりますよね? 僕が同行した方がいいですか?」
「い、いえ。大丈夫です。お気遣いありがとうございます。日車さん、行きましょう」
梓紗は補助監督に頭を下げ、日車と共に倉庫へ向かった。
「大変そうだな」
補助監督の姿が見えなくなったのを確認して、日車は彼女に声をかける。
「ご心配をおかけしてすみません」
「あの補助監督が君の教育係なのか?」
「実質の教育係、という感じです」
帳を下ろせない梓紗が働くにあたり、何人かに割り振っていた庶務が彼女の仕事として集約された。特定の誰かが教育係に任命されているわけではなく、業務ごとに前任者が仕事を教えているらしい。そういった庶務は往々にして新人や役職のついていない職員が担当する。例の補助監督はまだ二年目で、彼女が引き継いだ仕事の半数以上を担当していた。それで「実質の教育係」と彼女は表現したのだ。
――伊地知の評価が甘いわけではなさそうだな。
二年目ということは二十歳前後。誰かを指導する経験も少ないだろう。
「……大変そうだな」
先ほどよりも少しだけ重さのある「大変そうだな」に、彼女は曖昧な笑みを返した。
二人は事務所のある建物の外へ出て、砂利道を並んで歩く。会話の代わりに砂利を踏みしめる音が二人の間に響いていた。日車は先を行く彼女の後頭部を何とはなしに見つめる。
――誰か……誰かっ!
不意に日車の脳内に老人の声が響いた。彼女の黒髪に白髪頭が重なり、緑豊かな砂利道と壁に囲まれた法廷とが二重写しになった。
「ッ!」
記憶の幻影が日車を飲み込んだ。あの時と同じように、日車の心臓が猛スピードで全身に血液を送り出す。砂利を踏みしめる音で、血まみれの老人が地面に倒れている場面に切り替わる。視界の右端には日車の術式によって生み出されたガベルが映り込んでいた。
――落ち着け。
日車は己に言い聞かせる。これは現実じゃない。過去の記憶だ。今俺がいるのは東京の呪術高専であって法廷じゃない。今この瞬間の体の感覚に集中しろ。
日車は肺の中の空気を全て吐き出し、新鮮な空気をゆっくりと吸い込んだ。冷たい風が彼の頬を撫で、木々を揺らす。前を歩く彼女の足の下で落ち葉がかさりと軽やかな音を立てる。脈拍も少しずつ落ち着いていき、倉庫につく頃には息苦しさも薄らいだ。
「日車さん、大丈夫ですか?」
彼女は心配そうに日車の顔を覗き込んだ。
「中に椅子がありますので一度そちらで休んでいてください。私は家入さんに連絡します」
「いや、大丈夫だ。大したことじゃない」
「でも顔色が――」
「本当に、大丈夫なんだ。俺に構わないでくれ」
もう深堀りされたくない。そんな臆病さが日車の声を荒げさせた。彼女の体が強張る。怯えの色が混じった彼女の眼を見て、日車は瞬時に冷静さを取り戻した。
「……すまない。君は悪くないんだ。確かに少し体調が悪かった。だがもう落ち着いたし、原因も分かってる。だから気にしないでくれ」
「し、失礼いたしました」
彼女は倉庫の鍵を開けて、日車を中へ案内した。
呪具を物色する日車の後ろを梓紗がついて歩く。少し前に呪具を無断で持ち出して呪詛師に売ろうとした呪術師がいたらしく、取扱いが厳しくなったのだそうだ。
倉庫の中には素振りができるようなスペースがあった。日車は梓紗の持っている台帳を見て気になる呪具をピックアップした。それを梓紗が取ってくる。木刀、薙刀、十手、トンファー、棍棒。日車は様々な呪具を試しては戻し、試しては戻しを繰り返していた。
「あの、聞いてもいいですか?」
「どうした?」
「日車さんの術式って、ハンマーを出せるんですよね。それなのにどうしてわざわざ呪具を使って訓練するんですか? 術式で作り出したハンマーを使った方が実戦に近い気がするんですけど」
日車は少し考えてから、ガベルを発現させた。
「これにはガベルという名前がついている。で、このガベルは俺の意思で大きさを自由に変えられるんだ」
日車の言葉に合わせて、二十センチ程度だったガベルの柄が長傘ほどにまで伸びた。ガベルの頭が膨らみ、日車の胴回りと同じくらいの大きさになったかと思うと、次の瞬間にはミニチュアサイズまで縮み、元の大きさに戻る。大きさが変わる度に彼女は驚きの声を上げた。
「武器のサイズが変われば攻撃の流れも変わる。手札の多さは大きなアドバンテージだ。だがそれも俺が使いこなせてこその話だ。まずは実物の呪具で感覚を掴んでからでないと実戦でも扱えない」
「ストイックですね……」
「呪術師としてのキャリアが短い割に階級だけは高く判定されてしまったからな。そのギャップは自分で埋めるしかないだろう。努力しないと文字通り生き残れない」
日車はガベルを引っ込めて、近くに置いてあった薙刀を手に取った。
「今回はこれにする。台帳に今日の日付を書けばいいのか?」
「あ、はい。こちらに日付とお名前をお願いいたします。事務所にいますのでご返却の際にはまたお声がけください」
「分かった」
「ここの片付けなら私がやっておきますから、日車さんは道場に行っていただいても大丈夫ですよ」
「二人で片付けた方が早いだろう。数分の差を惜しむほど急いではいない」
日車は梓紗に小振りの呪具をいくつか持たせ、自身は大振りで重たいものを担いだ。そして少しぼんやりしている梓紗の脇を通り抜けて、棚の方へ向かった。
二人は棚の間をゆっくりと歩いて呪具を元の場所に戻していく。どの棚にも背板は付いていないため、ふとした時に隣の棚にいる梓紗の姿が目に入った。呪具の扱いに慣れていないせいか、慎重に、丁寧に呪具を棚に戻している。覗き見をしているような気分になり、日車は視線を逸らした。
「そういえばこの前『まだ』帳を下ろせないと言っていたが、練習でもしているのか?」
疚しい気持ちを誤魔化すように、日車は梓紗に訊ねた。
「ええ。日中だけでも任務同行に出て、もう少し稼ぎたいんです。内勤だけだと、その……お給料が減ってしまうので」
「そんなに生活が厳しいのか?」
日車は補助監督の懐事情に詳しいわけではないが同年代の平均よりはもらっているのだろうと推測している。職務に制限があることで給料が減っているとしても、普通に生活していて困るほどとは思えなかった。
「もう少し収入が増えたら安心、という感じです。二年前に祖父が病気で入院してしまって、退院した今も通院治療をしてますし、あの事件で納めた罰金は五条さんからお借りしているのでそれの返済もあります。あとは……」
「あとは?」
「その……被害者のご家族にお金を送っているんです」
曰く、梓紗は自分で稼ぐようになってから被害者家族宛に毎月手紙と共に幾ばくかの金を送っているのだという。他の被害者家族にも同様に金と手紙を送ったが、受け取ってくれたのは最初の家族だけ。二人目の家族からは受取拒否をされ、三人目の家族からは断りの手紙が届いた。
「治療費に充ててほしいと思って送金してますけど、ご家族からはお手紙のお返事をもらったことはありません。本当なら私の名前も見たくないでしょうし、断るのも負担になるから放置しているだけなのかもしれません。所詮私の自己満足だとは思っています。それでも私から送金を止めるのは事件を忘れるための口実にしているように感じるんです」
「そうか」
「でもまずは目の前の仕事をきちんとこなしてから、ですよね。今の仕事量でも失敗ばかりしてるのにこれ以上手を広げたら皆さんに迷惑をかけてしまいますから」
そう言って梓紗は苦笑いをした。
「呪力操作の訓練はどのくらいのペースでやってるんだ?」
「五条さんから直接教えていただくのは三週に一度くらいのペースです。理想は週に二回、最低でも週に一回は誰かに指導してもらうと変な癖がつかなくて良いらしいんですけど、五条さんご自身がお忙しい方ですし他の方にお願いするのも難しいみたいです」
「最低でも週に一回、か」
日車は少し考え込む。
「どうかされました?」
「五条が忙しくて訓練できない時は俺が帳を下すのと結界術を教える、というのはどうだ?」
日車の唐突な提案が呑み込めず、梓紗は呆然としていた。
「任務に同行するなら帳が下せるのは最低条件だ。補助監督として長く働きたいなら結界術も覚えておいて損はない。本来、術式の運用と結界術は違う能力らしいんだが、案外結界術で身に着けた感覚が術式の運用にも良い影響を与えるかもしれないだろう。もちろんそこは五条とも相談する必要はあるが」
「えっと、ありがたいお話ですけど、日車さんもお忙しいんじゃないですか?」
「確かに暇ではない。だが週に一度、一時間くらいなら捻出できる。少なくとも毒の投与日の前日と当日は任務に出られないからそこで一回は確保できる。もう一回くらいどうにでもなるさ」
戸棚越しでも梓紗の視線が宙を泳いでいるのが見て取れた。
「嫌なら断ってくれても構わないぞ」
「いえ、そんな……ただ、日車さんにご迷惑をかけてばかりで申し訳ないと思って」
梓紗は最後の呪具を戸棚に仕舞い、日車に台帳と筆記具を手渡した。
「今さらですけど、外回りに出たい理由をあそこまで詳しく話す必要はありませんでしたよね。そんなつもりは無かったんですけど、あんな言い方をしたら親切心を強要しているみたい」
「親切心の強要か。言いたいことは分からないでもない」
日車は台帳にサインをしながら呟く。斜め下から彼女の息を呑むような音が聞こえてきた。
「あ、君がそんな風に感じた理由が理解できるという意味だ。親切心を強要されたと思ってるわけじゃない。ただ、家のことで気もそぞろとなると呪力コントロールが乱れて毒の量が制御できなくなるかもしれないだろう。君のためでもあるが、俺自身のためでもある」
「ご心配おかけしてすみません……」
「と、ごちゃごちゃ言ったが、実は単に話相手が欲しいだけかもしれない」
「はい?」
「盛岡にいた時はお喋りな助手がいたから気付かなかったんだが、俺も話好きだったらしい。呪霊や呪詛師じゃ会話にならん」
ニヒルな笑みを浮かべておどけるように肩をすくめる日車に、梓紗の表情が緩む。
「では、お言葉に甘えてお願いしてもいいですか?」
「分かった」
「すみません。ありがとうございます」
頭を下げようとする梓紗を制止する。
「畏まらなくていい。俺は――」
そんな価値のある人間じゃない。
日車はそう続けようとしたが、梓紗の顔を見て飲み込んだ。
「俺は呪術師になったばかりだし、高専で働き始めたのも君より遅い。君の方が先輩なんだ」
「えっ! その、職歴としてはそうですけど、呪術師と補助監督じゃ立場が違います」
「俺は術師歴三ヶ月ちょっとだぞ? 術式を持っている者を呪術師と呼ぶのであれば、生得術式を持っている君の方がずっと先輩だ」
「で、でも、日車さんの方が年上じゃないですか」
「年齢は関係ない。学生でも一級呪術師なら俺と対等だ」
「それは! そうかもしれませんが……」
「要するに、もう少しフラットに接してほしいんだ」
「ッ!」
梓紗ははっとしたように息を呑んだ。
T大法学部卒。元弁護士。呪術師歷三ヶ月の一級呪術師。犯罪歴あり。日車に関するこれらの情報は少なからず高専関係者たちのコミュニケーションに影響を与えた。日車に話しかけられると過度に恐縮する者もいるし、やたらと張り合う者もいる。媚びるような者もいたかと思えば面と向かって呪詛師だと罵る者もいた。こうした反応はある程度していたものの、想像以上に日車の精神を疲弊させた。
「分かりました。最初はどうしても緊張はしてしまうと思うのですが、努力します」
「ありがとう」
「五条さんには私からお話します。ちょうど明日が五条さんに見ていただく日ですし、今後の働き方のこともご相談したいので」
「済まないが頼む」
「道場の時間もありますし、そろそろ行きましょう」
「そうだな」
二人は揃って倉庫を出た。数回の素振りでもそれなりに体は温まるらしく、頬を撫でる冷たい風が心地よく感じられる。
「私は戸締りがありますので、こちらで失礼いたします」
「ああ。ありがとう」
日車は梓紗から道場の鍵を受け取り、校舎へと向かった。少し離れたところで倉庫の方を振り返ると、梓紗はまだ倉庫の扉の前に立っていた。どうやら施錠に手間取っているらしい。
――不器用だな。体の使い方も、生き方も。
慌てる梓紗の後ろ姿を日車はじっと見つめた。
きっと要領のいいタイプではないのだろう。彼女の指導役に疎まれるのも理解できなくはない。日車とて彼女にはやきもきさせられているのだから。けれど不快だと思ったことはなかった。
――憐れみか? それとも……
いや、それ以上は彼女に対して失礼だ。考えるのを止めた方が良い。
日車はかぶりを振り、この後の自主訓練のメニューについて考えることにした。
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