誰かに肩を揺すられて、日車はゆっくりと目を開けた。
大きなデスクの上には書類の山。本棚には判例集や実務マニュアルがぎっしりと詰まっている。盛岡の事務所だ。
「良かった。ものすんごい顔で寝てたんで心配しましたよ」
肩を揺すっていたのは助手の清水だった。外出から戻ったばかりらしく、まだコートも脱いでいない。日車は清水に礼を言い、大きく伸びをする。そこそこ長い時間、椅子で眠ってしまっていたらしく、日車の背中や腰が悲鳴を上げる。
「……なんだか嫌な夢を見ていた気がするな」
日車はぼそりと呟いた。
「へぇ。どんな夢ですか?」
「あまり覚えていないんだ。ただ思い出そうとすると息が苦しくなる。そういう夢だ」
「疲れが出たんじゃないですか? 最近バタバタしてましたもん。大江さんの再審請求準備に、ご自身の結婚式でしょ? そりゃ嫌な夢も見ますって」
「結婚式……」
ぼんやりと清水の言葉を鸚鵡返しにする日車にぎょっとした清水は顔を歪めた。
「嘘……思い出せないんですか?」
「……ああ、いや。大丈夫だ。まだ寝ぼけているみたいだ」
日車は溜息を吐いて目頭を押さえた。
先週の土曜日、知り合いのカフェを貸し切って日車は梓紗とささやかな結婚式を挙げた。二人の家族、そして親しい人だけを呼んだ人前式である。お互いに仕事が忙しい上に東京と盛岡で離れて暮らしているからこそ、きちんと式を挙げたいと二人で相談して決めたのだった。
「日車さん、本当に大丈夫ですか? 今日はもう帰った方がいいですよ。梓紗さん、今週はこっちに来てるんですよね? 迎えに来てもらうよう連絡しましょうか?」
清水の提案に、日車はデスクに積みあがった書類と自分の手帳を見比べる。確かに調子は良くない。このまま仕事を続けるよりも、思い切って休んだ方が能率は上がるかもしれない。幸いにも急ぎの案件はなかった。
「済まないが、今日は早めに上がらせてもらう。梓紗には俺から連絡しておくから大丈夫だ」
「分かりました。今日の資料はいつも通り共有フォルダにアップしておきますけど、家で見ないでくださいよ。それじゃ休みにならないので」
「はは。肝に銘じておこう」
日車は梓紗にメッセージを送った。ちょうど彼女も携帯を触っていたらしく、すぐに既読が付いて迎えに行くとのメッセージが返ってきた。
日車の指はごく自然な流れで携帯の写真フォルダを開いていた。最新の写真を開くと梓紗とのツーショットが画面に表示された。式の時の写真である。ちょうど日車が彼女の左手の薬指に指輪をつけているときの写真だ。緊張していたからか、このシーンに関する日車の記憶はかなり曖昧だった。それでも彼女の手の温もりとひんやりとした銀の指輪の清廉な冷たさ、そして指輪を交換した後の梓紗のはにかんだような笑顔だけははっきりと覚えている。
「それにしても、まさか日車さんがご結婚されるなんて思いませんでした。しかも元依頼人の女性と!」
夢中じゃないですか、と清水はニヤニヤしながら日車を見る。自分の行動を見透かされた日車は、照れ隠しに一つ咳をした。
「言ってくれるな。俺が一番驚いてるんだ」
「でも別居婚って寂しくないですか?」
「寂しくない、と言ったら嘘になるな。だが彼女も高専の仕事にやりがいを感じてる。仕事を辞めて盛岡に来いとは言えないさ」
「呪術高専、でしたっけ。あんな漫画の裏組織みたいな学校、本当にあるんですね。しかも契約するとなったらこちらの言い値で即決! 都立なのにどこにそんなお金があるんだか。あ、逆に都立だとあるんですかね」
「あまり詮索しない方が良いぞ」
分かってます、と清水は口を尖らせた。
日車の上着のポケットで携帯が震える。梓紗だ。近くまで買い物に来ていたのだろう。随分と早い到着だ。日車の胸に温かな気持ちが広がる。日車はその幸せを噛み締めながら携帯の画面をタップした。
* * *
日車の視界に見慣れた天井が広がる。
「あ、起きた」
声がする方へ顔を向けると、ベッド脇には五条が座っていた。日車はぼんやりする頭で周囲を見回す。毒の投与を行った特別病室らしい。日車は目だけを動かして梓紗の姿を探すが見つけられなかった。どうやら病室には居ないらしい。
「日車さん、気分はどうですか? 何があったか覚えてます?」
少し離れた応接スペースにいた家入が白衣を羽織りながらベッドサイドにやってきた。徐々に日車の思考の回転数が上がっていく。今どこにいるのか。誰と一緒にいるのか。そして目を覚ます直前に何が起きたのか。
家入は手際よく、日車の診察をした。そして体の何か所かを反転術式で治療する。毒で傷ついた部分を治したのだろう。日車は随分と体が楽になるのを感じた。
家入の治療を受けながら日車は夢の内容を反芻していた。笑ってしまうくらい都合の良い幸せな日常の夢だった。これが映画の導入シーンなら、間違いなくこの後にその幸せな日常が破壊される描写が入るだろう。自分にもそんな願望があったのかと驚きつつ、ベタなイメージしか思い描けないあたりに想像力の限界を感じるのだった。
「特に異常はなさそうですね。念のため明日は精密検査を受けてもらいます。今日は体を休めてください」
「済まない。ありがとう」
「ねぇ硝子。僕、日車先生とお喋りがしたいんだけど」
五条の申し出に、家入は露骨に渋い顔をした。
「大丈夫だって。そんな無理はさせないから」
「俺の方は大丈夫だ。さっきの反転術式のお陰で随分と楽になった」
家入は手元のカルテと日車を見比べた。そしてしばらく悩んでから、仕方ないとばかりに溜息を吐いた。
「三十分。それ以上は駄目だ」
「分かった。助かるよ」
「日車さん、くれぐれも無理しないでくださいよ。病み上がりなんですから」
日車は分かったと片手を挙げる。家入は何か言いたげに口を開きかけた。だが頭を振って病室を出てった。
「俺は何日くらい寝ていたんだ?」
家入が病室を出たのを確認してから、日車はベッドから起き上がる。
「二週間くらいかな。巽さんの毒、やばいね。このクッソ忙しい時に一級呪術師をものの十分で病院送りだよ。巽さんがすぐに硝子を呼んだのと、先生の体にできてた抗体のお陰で助かったけど、結構ギリギリだったみたいだよ」
「そうか」
「あんまり嬉しそうじゃないね。ま、それはいいや」
五条は脚を組み直す。
「早速だけど、あの日、巽さんに何して、何された?」
「聞いていないのか?」
「ざっとは聞いた。ただ、巽さんもかなり取り乱してたし、ちゃんと答えられる感じでもなかったからそこまで詳しくは聞けてない。それに、こういうことは両方から話を聞かないと」
「巽が毒の効果の強さをチューニングできるようになったかもしれないというから、その実験台になったんだ。だが彼女が『間違えて』催淫効果を強めてしまった。それで俺が彼女に性行為を迫った結果、返り討ちにあった」
「いくら何でも、あけすけすぎない?」
「概要は聞いているんだろう?」
それはそうだけどさ、と五条は後頭部を掻いた。
「それにしても二人がそういう仲になるとはね。巽さんの方は最初から好き好きオーラ出てたけど」
「そういう仲にはなってない。かなり序盤で毒が効いたお陰でお互い服も脱いでないから未遂みたいなものだ」
「……なんか、日車先生が可哀想になってきた」
「彼女の名誉のために言っておくが、性欲由来ではなく、意味があってやったみたいだぞ」
「そうなの?」
日車の話に興味がひかれたらしく、五条が少しだけ前のめりになった。
「巽の身内が高専の呪術師の実家に押しかけた話は?」
「知ってるよ。てか僕んとこも押しかけられた家の一つだし」
「どうもまた同じことをしているようだ」
「また? 懲りないおじいちゃんだなぁ」
「しかも今度は彼女と縛りを結んでいる可能性がある」
日車は五条に梓紗の話と自分なりの解釈を伝えた。
梓紗と彼女の祖父がどのような縛りを結んだのかは分からないが、梓紗には祖父の持ち込んだ結婚話を直接的に阻むことはできないようだった。そこで日車を利用した。術式の運用ミスという名目で催淫効果を強めた毒を投与し、襲わせようという魂胆である。梓紗をオールドミスと紹介するような祖父だ。孫が婚前交渉をしていたとなればさすがに諦めるだろうし、相手も見つからないだろうと考えた。縛りについては事故であれば邪魔をしたことにはならないと踏んだようである。
「あー、そういうことね」
「これはあくまでも俺の推測に過ぎない。あまりあてにしないでくれ。よく考えてみれば、彼女の家族で呪術師は巽一人だけだ。縛りが成立するとは思えない」
「いや、的外れってわけでもないと思うよ」
「というと?」
「日車先生が寝てる間に、巽さんのおじいちゃんが日本刀持って高専に乗り込んできたんだよね」
近年稀に見る大捕り物だったらしい。抜き身の日本刀片手に日車はどこだ、成敗してやると暴れ回ったのだそうだ。職員の身内ということもあってあまり乱暴なこともできないし、かといって日本刀を振り回している老人を放置するわけにもいかなかった。それだけではない。呪いすら視認できないのに、結界で入口が隠されているはずの高専の敷地内に侵入したのだ。梓紗は入口の場所を教えた覚えはないという。つまり梓紗の祖父に侵入方法を教えた第三者がいるわけで、それは呪術界との繋がりが切れていないことを示唆していた。
「確かにそれなら縛りを結ぶのもあり得なくはないだろうが、それにしたってやりすぎなんじゃないのか?」
「そうだね。孫の結婚がゴールならやり過ぎだ」
五条は意味深な笑みを浮かべて日車を見た。
――試されているな。
日車は毒を投与する前に五条と面談をした時のことを思い出していた。ここで五条の望む返答ができれば梓紗が抱えている厄介事の中身が明かされるのだろう。
「……そうか」
だが日車はあえて間違いを選んだ。
「え、待って。それだけ?」
「悪いが病み上がりで本調子じゃないんだ。そろそろ帰ってくれ」
「オイオイ、マジかよ。愛しの彼女のピンチにその反応?」
「別に俺と彼女は恋人同士じゃない。それにもし本当に縛りが結ばれているなら、ますます俺が関わるべきではない」
「それはそうかもしれないけどさ、日車先生はそれでいいの?」
「俺個人の感情は関係ない」
日車の脳裏に意識を失う直前に見た梓紗の顔が浮かぶ。彼女のことだ。きっと自分のしたことを悔やんでいるだろう。日車は彼女の助けになるどころか、逆に彼女の心を傷付けてしまったのだ。それがどうしても許せなかった。
「うーん。実は僕が抱えてる仕事の中に巽さんが関わってる件があるんだよね。彼女との関係性とかを考えて日車先生にお手伝いをお願いしようかと思ってたんだけど」
「済まないが他をあたってくれ。冷静に対処できる自信がない。今回の件で身に染みたんだ。あの時、巽が追い詰められていて視野が狭くなっているのに気付いていた。毒の影響下にあってもな。本来俺がすべきことは性行為ではなく彼女から話を聞いて、他にベターな解決策が無いか考えること。そんなことも分からなくなる程度には俺も視野が狭くなってしまった」
「えぇ……そこまで入れ込んでるんだったら、ごちゃごちゃ言ってないで手伝ってよ。リベンジマッチしようぜ」
五条は足を投げ出し、椅子の背にもたれかかって宙を仰いだ。
「あんまり詳しくは言えないけどさ、巽さん結構ピンチなんだよ。別に僕一人でも全然処理はできるけどね? でも多分僕のやり方だと巽さんは辛いままだ。日車先生が関わってくれれば巽さんの傷が浅くて済む」
日車は俯き、自分の手をじっと見つめた。
真っ白なシーツの上に血塗れになった法廷の床が重なる。ガベルを振り下ろした時の感触が生々しく思い出され、苦いものがこみ上げてくる。
「呪術師の仕事って――」
五条は椅子に座り直して言った。
「間に合わないことが多いんだよね。万年人手不足だから、どうしたって被害者が出てる事件から手を付けざるを得ない。もちろんそうならないように巡回監視はしてるけど、それだって限界がある。本筋からは逸れるんだけど、日車先生の件も東京で祓い損ねたことが原因だし、これでも責任感じてるんだ」
「……何が言いたい?」
「この先、何百人何千人と見ず知らずの人を助けても、たった一人の大切な人を助けられなかったらそれをずっと悔やむことになる。今回は数少ない間に合うケースなんだ。それをふいにするのは勿体無いってこと」
不意に日車の指先に優しい体温の記憶が蘇る。そして夢の中の幸せな日常と白のドレスに身を包んだ梓紗の控えめな笑顔が浮かぶ。
「ま、無理強いしても仕方ないし、そろそろ硝子に怒られそうだから退散するよ。気が向いたら僕に連絡して」
「……そう、だな。覚悟が決まったら連絡させてもらおう。五条『先生』」
「えー、何それ、嫌味?」
日車はいつものようにニヒルな笑みを浮かべた。それを見た五条も満足げに笑い、病室を後にした。
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