麗らかな春の日差しが心地よい日だった。昨日までは鈍色の雲が空を覆っていたが、夜の間に風が吹き飛ばしてくれたらしい。抜けるような清々しい青空だった。
『朝七時に新宿駅で待ち合わせましょう。晴れると良いですね。楽しみです』
梓紗からそんなメッセージ届いたが三日前の話である。偶然日車の担当任務が中止となり、梓紗の仕事も落ち着いていた。開花状況を見てもこのタイミングで行くしかない、ということで二人揃って有休を取得したのである。日車は空き時間に百貨店へ行って数年ぶりに私服を新調した。帰宅してから靴も念入りに手入れした。基本は梓紗のペースに合わせるつもりだが、何でもかんでも任せっぱなしというわけにもいかないので軽く見学プランも考えてもみた。遠足前の子どものようで恥ずかしいとも思ったが、同行者が楽しんでいる方が発案者も嬉しいだろう。そう開き直ることにしたのである。
だがそういう時に限ってトラブルが起こる。前日になって日車に応援要請が入ったのだ。呪霊の数が想像以上に多かったのだという。他の一級呪術師は全員任務で出払っていて、急遽日車が地方へ行くことになってしまったのだった。とはいえ遅くとも夕方までには片付くと思われたし、梓紗の方も家のことをやりくりして一日予定を空けていた。二人は夜の部から見に行くことにしたのである。
「任務なら仕方ないですよ。それにこの時期はライトアップしているらしいんです。夜の部はまだ行ったことがなかったので、かえって良かったかもしれないですね」
謝り倒す日車に対して、梓紗はそう言って笑った。
「休みの日なのにお呼び出ししてしまってすみません」
運転席の新田がバックミラー越しに日車へ声をかけた。
「気にするな。仕事なんだから。それにこういうのには慣れてる」
日車はスーツのネクタイを緩めながら答えた。
「弁護士さんも急な呼び出しってあるんスか?」
「急な呼び出し、というのとは少し違うが、刑事事件の弁護を引き受けたら時間との闘いになる。そうなれば休日返上で働くことにはなるな」
「だからタフなんすね! 七海さんみたいに出戻りってわけでもないのに即戦力ってどういうことなんだろうってずっと不思議だったんですよ」
新田はけらけらと笑いながらハンドルを切った。
日車は今回の任務で初めて新田と仕事をしたが、伊地知とはまた違ったベクトルでやり易いと感じていた。新田は何といっても人の懐に潜り込むのが上手だった。呪霊の被害に遭った人に対してもその恐怖心に寄り添いつつさり気なく必要な情報を聞き出している。
「こちらこそ申し訳ない」
「何がっすか?」
「本来ならもう少し向こうに居られただろう。それを俺の都合でとんぼ返りだ。ありがとう」
「このくらいはとんぼ返りのうちにも入らないんで大丈夫っす!」
「……若いな」
「いやー、これでも体力落ちてきたんすよ。学生の頃は四徹くらいならどうにかなったんすけど、今は二徹が限界ですもん」
繰り出されるエピソードの若さに日車の意識が遠のいた。元々徹夜はしない主義ではあるが、そもそも三十も半ばを過ぎると徹夜などやりたくてもできなくなってくる。
「ところで、日車さんのとんぼ返りの理由って巽さんですか?」
「……いや?」
日車は努めて冷静に答えた。
「違うんですか? お二人、よく一緒にいますし最近日車さんから結界術を習ってるって聞いたんで今日もそうなのかと思ってました」
「知り合いに温泉でも行かないかと誘われたんだ。これから夏に向けて忙しくなるんだろう? 伊地知にもオーバーワークを心配されてしまったし、ちょうどいいと思ったんだ」
「伊地知さんにオーバーワークっていう概念があったんすね……」
新田は、嫌味などではなく、本気で驚いたように目を丸くする。想像通りの反応に日車は思わず苦笑いを浮かべた。
「ちなみにお二人は付き合ってたり?」
「しない」
「やっぱり」
やや食い気味に否定した日車に対し、新田は何故か満足げな顔をした。
「なんだ。賭けでもしてたのか?」
「賭けはしてないっす。ただ、同期で呪術師になった子が絶対に付き合ってるって大騒ぎしてたんです」
「……ゴシップ好きなんだな」
「まー、女子は結婚相手見つけるために高専で仕事してるみたいなとこあるんで仕方ないっすね」
日車の皮肉めいたコメントを新田はさらりと打ち返した。
「まだ二十代前半だろう?」
「呪術師は殉職のリスクが高いじゃないっすか。だから早めに相手見つけて、どっちかが死ぬ前にさっさと結婚しないと」
「なるほど」
「私の同期は母方の方が家柄が良いらしくってプレッシャーが凄いみたいっすよ。相伝の術式を持った子を産んでこそ一人前だって親戚がうるさいって帰省する度に文句言ってました。まぁ巽さんとこよりはマシですけど……」
「どういうことだ?」
日車が眉を顰めたのを見て、新田は露骨に焦る。どうやら公然の秘密らしい。
「その、あまり言いふらすような話でもないんですけど――」
新田は二人しかいない車内で声を潜める。
「巽さんが高専で働き出してからすぐくらいの時に、巽さんのお爺さんが呪術師の皆さんのご実家に押しかけて、巽さんを嫁に貰ってくれって土下座したらしいっす」
「それは……」
「しかも本人に黙ってそんなことしてたもんだから、気付いた時には大事になっちゃって巽さん本人がお詫び行脚ですよ。一応は許してもらえたみたいですけど、いろいろ陰口を叩かれて孤立しちゃって」
――確かに、やりそうだ。
日車は弁護を依頼された時のことを思い出す。もしかしたら依頼を引き受けたことで誤学習してしまったのかもしれない。結果論にはなるが高専が介入したのだから、引き受けない方が良かったのかも。
ピロ、と日車の上着から電子音が鳴った。日車は新田に一言断ってから携帯を確認する。梓紗からのメッセージだった。
『日車さん、今どのあたりにいらっしゃいますか? レンタカーを借りたのでお迎えに伺いますが』
日車は地図で現在地を確認する。カムフラージュも兼ねて一度高専に戻るつもりでいたが、レンタカーで移動するならば駅前で降ろしてもらった方が便利かもしれない。
「済まないが、駅前で降ろしてもらえるか? 知り合いが車で迎えに来てくれるらしい」
「分かりました!」
「助かるよ」
日車は梓紗にメッセージを送信する。すぐに既読マークがついて、了解しましたとスタンプが送られてきた。
「どういうお知り合いだか聞いてもいいっすか?」
「元クライアントだ。案件が終わった後で思わぬ共通点が見つかって、それからプライベートでも親しくしているんだ」
「へぇ。世間は狭いっすね」
「ああ、本当に」
日車は穏やかな笑みを浮かべて窓の外を眺めた。
* * *
梓紗と合流してから二時間弱。二人は目的の植物公園へ到着した。
公園に着いて最初に日車を出迎えたのは見事な藤棚だった。一本の幹から蔓を伸ばし、池の上のデッキを天蓋のように覆っている。池には照明に照らされた藤が映り、紫の道を作って彩りを添えていた。
日車は梓紗に導かれるまま、藤の天蓋の下を歩く。紫色の花弁が夕焼けに照らされて美しいグラデーションを作り出す。マジックアワーの空で染め上げた花房は日車の顔のすぐ近くまで垂れ下がり、甘い香りを運んできた。
「綺麗……」
梓紗のうっとりしたような声が聞こえた。
「本当に、別世界だな」
「昼間に見るのとは全然違う感じがします。来た甲斐がありました」
梓紗は鞄から携帯を取り出して写真を撮り始めた。日車も彼女に倣って写真を撮ろうとカメラを起動させた。前回、誤ってインカメラにしてしまったようで、画面には疲れ果てた日車の顔が大写しになった。藤の花の世界がハレだとしたら、日車の周辺だけはケの世界だった。気を取り直して花の写真を撮ってみたものの、目の前に広がる光景に比べると色褪せて見えた。
日車は気まぐれに写真撮影に夢中になっている梓紗の写真を撮ってみた。惚れた欲目、あばたもえくぼ、などと言うけれど、今の彼女はとても綺麗でそれを写真に収めておきたくなったのだ。何枚か撮っているうちに欲が出てきて、梓紗の目線が欲しくなる。日車はさり気なく彼女の斜め後ろに移動した。
「巽」
そして声をかけ、振り向きざまの笑顔を写真に収めた。
「もしかして、私の写真を撮りました?」
「いや? 撮ったのは藤の花だが」
「じゃあなんで私の事呼んだんです?」
「先に進もう、と言おうと思ったんだ。他にも見どころがたくさんあるんだろう?」
「日車さんって案外適当なことおっしゃいますよね」
「逆になんでそこまで写真を嫌がるんだ。別にこれを――」
ぐるるる。
日車の言葉を遮って、腹の虫が鳴いた。
「……日車さん、もしかしてお昼召し上がってないんですか?」
ぐぎゅううう。
日車の代わりに腹の虫が返事をした。梓紗が不自然にそっぽを向いた。僅かに見えた口元は笑いを堪えるかのように少し歪な弧を描いている。
「先に何か食べましょ。向こうに休憩スペースがあってキッチンカーが来ているんです」
「……済まないがそうしてくれるとありがたい」
「花は違いますが、お花見にはお弁当が必要ですから」
行きましょう、と梓紗は日車のすこし先を歩き出した。
植物公園は訪れた人を楽しませるために、エリアごとに少しずつ違った植物を植えている。休憩スペースは少し小高い芝生の丘の上にあって、パラソル付きの白いテーブルの後ろには黄色やオレンジ、マゼンタピンクのアイスランドポピーの鉢が並んでいた。
日車は買ってきた豚キムチ丼を頬張りながら周囲を見回す。一番目立つのは外国人観光客。その次が大学生くらいのカップルだった。その他に家族連れ、といった具合である。
――俺たちは一体どういう風に見えてるんだろうか。
くたびれたスーツ姿の男性とラフなパンツスタイルの女性。どう考えてもアンバランスだった。しかも今日は平日。かつて離婚調停を引き受けたときに依頼人から見せられた不倫の証拠写真がこんな感じだったような。万が一、服が汚れたらと思ってスーツを着てきたが、時間があったのだから途中で着替えてくるべきだった。
「考え事ですか?」
梓紗の声かけで日車は思考の世界から現実へ戻ってくる。
「あ、ああ。済まない」
「またお仕事のことですか?」
「いや、服装のことについて」
「服装?」
梓紗は怪訝な顔で、手に持ったおやきを頬張る。
「俺たちの服装が少しアンバランスだろう? それに平日の仕事終わりに落ち合うにしては早い時間だ」
「つまり?」
「不倫カップルに見えるような気がした」
「んぶっ!」
食べていたおやきが気管に回ったのか、梓紗が激しく咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「げほっ……大丈夫、です」
日車は梓紗にペットボトルのお茶を手渡した。梓紗は言葉をつかえさせながら礼を言って、そのお茶を飲み干す。
――巽さんのお爺さんが呪術師の皆さんのご実家に押しかけて、巽さんを嫁に貰ってくれって土下座したらしいっす。
不意に新田の言葉が日車の意識に上った。
「念のため聞くが、結婚は?」
「結婚どころか彼氏もいませんよ。そもそも、そういう相手がいたら抗体産生作業はその人にお願いしてます」
「それもそうだな」
「日車さんは? どなたかお相手はいらっしゃるんですか?」
「いない。いたら抗体産生の任務は断ってたさ」
「それもそうですね」
梓紗は愉快そうに笑って、おやきの入っていた包みを小さく折りたたんだ。
気付けば日も落ちて、随分と暗くなった。周囲の明るさに反比例するかのように客の数が増えてきている。
「そろそろ行きますか」
「そうだな。人も増えてきた」
二人は荷物をまとめて席を立った。
日車は再び梓紗の案内で藤の世界に入っていく。日が落ちた後の藤はまた違った表情をしていた。やや盛りを過ぎた紫の藤は、花弁の陰が夜の闇に溶け出しているようだったし、白の藤棚の下を歩いていると花が夜空に浮かんでいるようだった。
「あ! ここだ!」
梓紗が嬉しそうに橋の方を示す。太鼓橋の欄干がそのまま藤棚の支柱になっていて、薄紅色の藤がトンネルを作っていた。
「ここ、映画のロケ地になったんですよ。映画監督志望の主人公が、ここでヒロインと一緒に映画のロケハンをするんです。ものすごくロマンチックなシーンなんですよ」
その映画は日車も名前だけは聞いたことがあった。助手の清水が友人に誘われて観に行ったと言っていたはずだ。映像は綺麗だったが話はベタな恋愛ものと評していた記憶が残っている。
日車は頭上の藤をぼんやりと眺める。ふと、学生時代に教養科目として履修した日本文学の授業を思い出した。
古事記に藤が登場する話がある。あるところに兄弟の神がいた。兄は弟に、誰の求婚も受け入れない姫神をお前は射止められると思うか、と問うた。そして、もしその姫神と夫婦になれたら贈り物をしようと約束したのである。弟は早速母に相談した。母神は弟に一日だけ待つように言って、一晩で藤の蔓から上着と袴、靴、そして弓矢を作り上げた。翌日、弟は藤で作った衣を身にまとい藤で作った弓を携えて姫の元を訪ねた。姫の家に着くと、藤の衣と弓から藤の花が咲いた。その藤の花が決め手となって姫は弟の求婚を受け入れたという。授業ではその物語を解体して、藤の花は強い生命力が子孫繁栄に通じるだとか、古代中国における聖人君子を表しているなどと説明された。だが日車には花自体が持つ魅力が一番の理由のように思えた。美しい色と香りで人を魅了するからこそ、物語に登場させたくなる。毒にも薬にもならない、さほど美しくもない花ではこうもいかないだろう。
カシャ。
すぐ近くでシャッター音がした。振り返るとそこには携帯を日車に向けている梓紗が立っていた。
「さっきのお返しです」
梓紗は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「俺の写真を撮っても面白くないだろう」
「そんなことないですよ。結構いい写真が撮れましたし」
「見せてみろ」
日車は彼女の後ろから画面を覗き込んだ。
梓紗の言うように、悪くない写真だった。写真の中の日車は、視線こそ外しているものの、肩の力が抜けていてリラックスしているように見える。
「悪くないじゃないか」
「でしょう?」
「ちょうど良かった。俺が事故死したらメディアにはこの写真を提出してくれ」
「なんの心配ですか」
「ロクな写真が残ってないから、このままだと高校の卒業アルバムの写真が全国放送されてしまう。死んだ後のことは知りようがないが、十八年も前の写真が使われては俺が可哀想だろう」
「日車さんってたまに冗談なのか本気なのか分からないことおっしゃいますよね」
「そうか?」
「そうですよ。この前だって――」
不意に梓紗が頭頂部を片手で押さえて黙り込んだ。
「どうした?」
ぽつり。
日車の鼻の頭に水滴が落ちる。
「雨、か?」
「そうみたいですね。傘、持ってます?」
「いや、持ってない。いい時間だし車に戻ろう」
「そうですね」
二人は足早に橋を渡り切った。日車は橋の方を振り返る。ライティングの関係か、はたまた先ほどまで古代の世界に思いを馳せていたせいなのか、橋そのものが異界のように見えた。
二人が車に戻る頃には雨は本降りになっていた。
「何とか間に合ったな」
「ええ。スーツ、濡れちゃいましたけど、大丈夫ですか?」
「元々任務に着ていったスーツだ。気にするな」
助手席に座った日車は湿っぽいハンカチで肩のあたりを拭う。
「後ろの席に座ってくださっても良かったのに。明日も任務でしょう? 日車さんのご自宅までお送りしますから、寝ていただいて大丈夫ですよ」
梓紗もハンドタオルで髪を拭きながらナビを操作していた。目的地住所を入力している途中で、梓紗の指が止まった。
「そうもいかないだろう。別に俺たちは上司部下の関係じゃないし、そもそもプライベートでここに来てるんだ」
日車は梓紗に代わって住所の続きを入力した。一瞬、梓紗の手の甲と日車の指がぶつかって心臓の鼓動が早くなる。
「お気遣い、ありがとうござい、ま……す」
梓紗の視線が日車の頭のあたりで釘付けになった。そしてわざとらしく咳払いをする。
「俺の頭に何かついてるか?」
「あの……小さい藤の花がついてます」
「どこに」
困り顔の日車を見て梓紗は肩を震わせる。
「えっと、日車さんから見て左側です。少し上の方の」
「悪いが取ってくれるか?」
渋面の日車が梓紗に頭を差し出した。それを見てまた梓紗が咳払いをした。
「……面白がってるだろう」
「すみません……可愛くてつい」
「三十も半ばの男を捕まえて可愛い、か」
「なんか、大型犬みたいだと思って。すみません。体ごとこちらに向けてもらえますか?」
日車は言われた通りに体を捻って梓紗に頭を向ける。梓紗は運転席から体を乗り出して右腕を日車の頭へ伸ばした。梓紗の細い指が日車の髪に触れる。毒の投与日でもないのにここまで接近するのは初めてだった。心臓の鼓動が梓紗に聞こえてしまうのではないか。そう錯覚してしまう程度には日車の心臓は激しく胸を叩く。
「取れました」
梓紗は摘まんだ花を掌に乗せて日車に見せた。枯れた藤の花が付いていたようだった。かつては紫の天鵞絨だった花弁は、くしゃくしゃの紫紺の紙くずに姿を変えていた。
「きっと藤棚の下を歩いてた時に頭についたんですね」
二人の視線がかちりと噛み合った。
その刹那、するはずのない藤の芳香が日車の鼻を擽る。
日車は熱に浮かされたように、梓紗の頭に片手を添えた。そしてそのまま顔を近付ける。
「……済まない」
唇が触れるまであと数センチのところで、日車は顔を離した。
「申し訳ない、君の信頼を裏切るようなことをした」
日車は何かに拝むように両手を合わせて口元を覆った。そして己を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐く。
――これは、加害だ。
日車は己に言い聞かせる。
思わせぶりな態度を取られた。そういう雰囲気だった。もしかしたら彼女もその気だったかも。そんな言い訳は山ほど浮かんでくるが、それらは彼女の意思確認を怠る理由にはなりえない。それは日車自身が一番良く分かっていたし、だからこそ彼女も抗体産生の相手として日車を受け入れたのだ。未遂だからいいだろう、という話ではない。
日車はおもむろに携帯を取り出し、乗り換え検索アプリを立ち上げる。二十分後の電車に乗れば終電に間に合うようだった。
「日車さん?」
不安げな梓紗の声。日車は梓紗の顔を見ないように携帯をポケットに仕舞った。
「俺は電車で帰ることにする。君は何一つ悪くない。ただ……今の状態で密室に居るのは良くないと判断しただけだ」
「あの!」
日車の腕を梓紗が掴む。
「何だ」
「あの、行かないでください」
「……済まない。俺が俺を許せないんだ。未遂であってもさっきの行動は加害行為だ」
「なら、加害されたとは思ってないと言ったら一緒にいてくれますか?」
梓紗の言葉に日車の体の自由が奪われる。
「私の同意がないから加害だってことですよね。なら私も同じ気持ちだったと言ったら、どうでしょうか」
こっちを向いてください。
梓紗に命じられるまま、日車はゆっくりと彼女の方へ体を向けた。今度は梓紗の手が日車の頭に添えられる。目を瞑ると柔らかいものが唇に触れた。日車はその柔らかいものを啄む。梓紗も同じように日車の唇を啄んだ。再び甘い香りが日車を包み込む。
紫の花のまじないは、現代においても有効らしい。
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