五条悟との観劇デートは心臓に悪い

 あの悲劇の“ロールケーキ事件”から一ヶ月。殺気立っていた事務局は落ち着きを取り戻した。
 思い出しただけで気が遠くなるような修羅場だった。私はたまたまロールケーキに手を付けなかったから被害を免れたけれど、動ける人がいないからとにかく業務が回らない。免許を持っておらず送迎を担当できない私は市役所への許可取りや警察との連携といった事務仕事を一手に引き受けることになった。疲れも溜まってくると、自分が今どの案件の書類に手をつけているのか分からなくなってくる。肩こりは悪化したし、座りっぱなしだから尻も死んだ。事務局長が寮母さんにお願いして、一ヶ月間私たちの食事を用意してくれたお陰で生きてると言っても過言ではない。
 ロールケーキを差し入れてくれた術師に悪気がないのは分かっていた。けれど事務局を機能不全に陥れた罪は重い。ちなみに件のロールケーキ術師はお詫びと言って山賊弁当を事務局に差し入れようとした。もちろん夜蛾学長にこってりと絞られたし、全ての術師・学生に向けて食品衛生に関する通達が出された。
 ともかく、そんな地獄を乗り越えて、私は何とか大千穐楽の日に有休をもぎ取ることができた。

 そして迎えた大千穐楽。私はかなりハイになっていた。周りの景色すべてが輝いて見えたし、街の人たちも今日という日を祝福しているように見えた。無事に今日という日を迎えたことに感謝の祈りを捧げたい気分だ。今なら絶賛遅刻中の五条さんのことも笑って許せる気がする。
「お疲れー」
 背後から聞きなれた声がした。振り返ると五条さんが手を振りながら悠然とこちらへ向かって歩いてくる。形だけでも急げよ、と思わないでもない。でも全く腹は立たなかった。だって今日は推しの舞台の大千穐楽だから。そんな小さなことは全く気にならない。
「なんか、いつもと雰囲気違うね」
 少し驚いたような顔をして、五条さんは私をじろじろと見る。ファッションチェックをされているようで落ち着かない。
「まあ、私服ですから」
「それにしたって別人みたいじゃん。なんで普段からそういう格好しないの?」
「目立ちたくないんです」
「えー、そんなの気にする必要ないじゃん。今度から事務局にそういう格好で出勤してよ」
「嫌です。そんなことより早く劇場に行きましょ」
 私は足取りも軽やかに、劇場へと向かった。

「おお……、これがNアートシアター……」
 生まれて初めて関係者受付からチケットとパンフレットを受け取り、劇場内に足を踏み入れる。
 そこは他の劇場とは一味違った佇まいだった。
 木目の床に赤レンガの壁。そこに深紅の座席がずらりと並ぶ。薄暗い照明も相まって、ものすごく雰囲気がある。小ぢんまりとしている分、舞台と客席が近くて表情は見やすそうだ。
「来たことないの?」
「はい。初めてです。あまりご縁がなくって」
 私たちの席は左側の一番端、バルコニー席だった。ちょっと狭いけど、そのブースには私たちしかいない。多少見切れるだろうけれど、花道も近いしお得な気分だ。
「僕、後ろの席でいいよ」
「え? いいんですか?」
「っていうか、僕が後ろじゃないと君の身長じゃ舞台見えなくなるでしょ」
「……それもそうですね」
 私は五条さんのお言葉に甘えて舞台に近い方の席に座らせてもらった。荷物を床に置くと、斜め後ろに座っている五条さんの脚がにゅっと飛び出していた。脚が……、長い。驚くほどに。
「そういえば今日の舞台ってどんな話?」
 本体の方も背後からにょっきり飛び出してきた。相変わらず距離感が近い。鼻をくすぐる良い香りにどぎまぎしてしまう。
「えっと、オペラの椿姫を題材にしたお話です。椿姫は知ってます?」
「名前だけ聞いたことある」
「元は青年貴族と高級娼婦の悲恋なんですけど、設定を戦後すぐくらいの日本に置き換えてるんですよ。ちょっと待ってください。パンフレット見ながらの方が分かりやすいと思うので」
 私はパンフレットを広げて、五条さんにザクっとあらすじを説明した。

 主人公は売れない役者の青年である。実家は裕福だったが父と折り合いが悪く、家を飛び出して貧乏暮らしをしていた。
 ある日、主人公は居候先のバーで有名な映画俳優のヒロインと出会う。彼女のファンだった主人公はヒロインに弟子入りを志願した。最初は軽くあしらっていたヒロインだったが、主人公の誠実さとひたむきな気持ち、舞台への情熱に絆され、申し出を承諾した。
 二人はヒロインの家で一緒に暮らすようになった。ヒロインは仕事の合間を縫って主人公にレッスンを付ける。固い信頼で結ばれた二人はいつしか互いに惹かれ合い、将来を約束する。しかし主人公の父親が立ちはだかる。どうしても息子に会社を継がせたい父親にとって、ヒロインは邪魔な存在だった。父親は主人公に内緒でヒロインと接触し、縁を切るように迫る。ヒロインはその要求を呑み、書置きを残して主人公と共に暮らした家を去ると同時にショービジネスの世界からも忽然と消えてしまった。
「で、どうなるの?」
「そこは舞台を観てのお楽しみです」
「元のオペラから話変えてる?」
「どうなんでしょう。オペラの詳しいあらすじを知らないので何とも……」
「そっか。じゃあ実際の舞台を楽しみにしようかな」
 五条さんはニコニコしながら元の場所に戻っていった。
 タイミング良く開幕のブザーが鳴る。深紅の緞帳が上がり、客席が暗くなる。夢のひと時の始まりだ。

◇ ◇ ◇

「おーい生きてる?」
 虚脱状態の私の視界にグッドルッキングガイの顔が写り込む。普段なら距離の近さに文字通り椅子から転げ落ちるところだが、そのバグった距離感のおかげで何とかこちらの世界へ戻ってこられた。
「大丈夫?」
「な、なんとか」
 舞台は凄かった。凄いものを観てしまった。
 ヒロインが家を出て行ってからも主人公はヒロインの教えを守って努力を重ねた。数年後、主人公は押しも押されぬ人気俳優となり、舞台の中央に立っていた。
 ある日、公演を終えて楽屋に戻ると父親が訊ねてきていた。主人公の顔を見るなり父親は頭を下げて、ヒロインに主人公と縁を切るよう脅したこと、ヒロインを口汚く罵ったを謝罪した。そしてヒロインから託されたという手紙を主人公に手渡す。
 手紙には、自分が病魔に侵されていてそう長くは生きられないこと、急に消えたことへの謝罪、そして楽しかった日々への感謝が綴られていた。父親は主人公に見舞いに行くかと問う。けれど主人公はそれを断った。何があっても舞台に穴を空けるなというのがヒロインの教えだった。
 そして千穐楽の日、ヒロインは人知れず息を引き取る。
「熱演だったね」
「ほんとに……。なんか感情がぐちゃぐちゃです。だって最後のシーン、愛でしかないじゃないですか……。ううっ」
 思い出しただけで涙が溢れてくる。しんどい。

「それ、本人に言ってあげて」
「……はい?」
「じゃ、楽屋見学へ出発!」
 五条さんは私の返事は聞かず、がっしりと私の手を掴んで歩き出した。受付の人に名前を告げると、話が通っているらしくすぐに楽屋まで案内してくれることになった。
 スタッフの人に連れられて地下の楽屋入口へ。受付前の少し開けたスペースで待つように言われた。
「……ッ!」
 楽屋の廊下にはかなりの数の呪霊がいた。きっと等級は大したことないのだろう。でも私には恐ろしかった。上手く息ができなくてクラクラするし、手が震える。背中に冷気を直接流し込まれたような感覚、とでも言えばいいのだろうか。
 術師の人たちはいつもこんな怖い思いをしているのか。学生さんたちも、現場に出てる補助監督も。
「落ち着いて」
 五条さんが私の手をしっかりと握り直した。俗に言うところの恋人繋ぎだった。少しだけ手に力を籠めると、ほんの少しだけ強く握り返される。それだけのことなのに不思議と恐怖が薄れていった。
「大丈夫。僕がいるから」
「ありがとう……、ございます」

 少しして、主演の彼が現れた。終演後で疲れてるだろうに、そんな素振りも見せず弾ける笑顔で出迎えてくれた。けれどその体には結構な数の呪霊がしがみついている。肩に三体、胴に一体、左右の脚に三体ずつ。
「お待たせしました! 今日はありがとうございます」
「どうも。相変わらずたくさん“連れて”ますね」
「そうなんですか?」
「こんなにくっつけてるのに元気な人って滅多にいないですよ」
 飛んでいる虫を追い払うくらいの気軽さで、五条さんは手際よく呪霊を祓ってしまった。彼は肩をぐるぐる回したり跳んだりしてみせる。
「おお、やっぱり体が軽くなりますね。いつもすみません」
「これが僕の仕事なんで気にしないでください」
「それで、そちらの女性が例の?」
「そ。僕の助手兼彼女です」
「五条さんから聞きましたよ。僕のファンなんですよね」
 いつも応援ありがとうございます、と言って手が差し出される。推しから握手を求められている! あまりの事態に心拍数が急上昇して心臓が口から飛び出しそうだ。震えながら差し出された手を握る。思っていたよりもずっとすべすべの手だ。何か言わないと……。なにか、えっと……。
「あの、その……、いつも大変お世話になっております」
「ふふっ。こちらこそありがとうございます。今日の舞台、どうでした?」
「えっと、本当に素敵でした。最後のシーンで、ヒロインと師弟関係に戻って拳を突き合わせる仕草でぐっときました」
 そうなのだ。ヒロインと師弟関係だったころ、目標を達成する度に二人は拳を突き合わせて喜びあっていたのだが、ラストでヒロインが死ぬ直前、二人がその仕草をしたのである。
「その仕草に恋人の枠を超えた絆みたいなものを感じて……。師弟愛というか、友達同士の愛情というか。人間同士の大きな愛みたいなものが見えて、それが本当に素敵だと思ったんです」
 またもや涙が溢れてきた。すっと視界の端からハンカチが現れる。五条さんだった。私はその妙に手触りの良いハンカチで涙を拭う。
「そこまで言ってもらえると役者冥利に尽きます。嬉しいです」
「うぅ……。明日からの仕事も頑張れます」

「じゃ、僕らはこれで失礼します。……っと、その前に」
 五条さんは鞄から小さな呪符を取り出した。
「お札……ですか?」
「呪霊よけの呪符です。これから先も大きな舞台決まってるなら持っていた方が良いですよ。憑かれやすいから」
 彼はお礼を言って呪符をガウンのポケットにしまう。足元を蠢いていた小さな呪霊たちが一瞬で消し飛んだ。五条さんは非術師に渡すための力の弱い呪符ではなく、術師が使う“業務用”の呪符を渡したようだった。
「また是非観に来てくださいね」
「必ず、伺います! これからも頑張ってください」
 彼に見送られながら、私たちは楽屋を後にした。

◇ ◇ ◇

「毎回さっきみたいに呪霊を祓ってるんですか?」
 帰り道、ふと気になったので五条さんに聞いてみる。
「まぁね。劇場には呪霊が集まりやすいし、すぐ育っちゃうから」
「そうなんですか?」
「体感だけど、その辺のデパートとか商業ビルよりは等級高めのヤツが出るような気がするなぁ」
「へぇ。どうして劇場に集まりやすいんですか?」
「んー、これは僕の推測だけど、負の感情が劇場じゃなくて人に向けられてるのが関係してるんじゃないかな」
 何を言われているのか分からなかった。仕方ない。呪いについての基礎知識が無いまま生きてきたんだもの。就職したばっかりの頃に資料は貰ったけど、紙で読んだだけで分かるなら教師という職業は必要ない。

「分かりやすいように病院と比べてみようか。“病院が嫌い”と“劇場が嫌い”の違いは何だと思う?」
 きっと分かりやすくポカンとしていたんだろう。急に先生モードになった五条さんに質問された。戸惑いつつも少し考えを巡らせてみる。
「……分かりません」
「じゃあ“病院が嫌い”っていう言葉を深掘りしてみようか。どういう時に“病院が嫌い”って言う?」
「そうですね……、お医者さんがちょっと怖いとか、注射されるとか。あとご高齢の方だと“死に場所”のイメージが強いから嫌いって言いますね」
「そう。建物自体が嫌いなんじゃなくて、病院内での“体験”が嫌いなんだ。でも僕らは病院っていう場所そのものを主語にするだろ?」
「あ、ちょっと分かってきました。似たような表現でも、劇場の場合はその場所自体が嫌いってことですね」
 劇場で生まれる負の感情と言えば演目や役者への不満だったり観客側のマナー、スタッフの対応といったところだろう。けれどそれらを“劇場”という言葉で表現するのはレアケースだ。
「言葉遊びみたい」
「そうだね。でも人間は言葉で物事を考えるから言葉に思考が引き摺られる。主語の違いって思ってる以上に重要なんだよ」
「なるほど。でもそれと劇場に呪霊が集まりやすいこととどう関係するんですか?」
「人間に向けられる負の感情は底なしだ。特に芸能人は多くの人から注目される分、いろんな感情を向けられやすい。いわゆる“お茶の間の人たち”だけじゃなくて同業者からもね。そして劇場の中は現実世界とは切り離された一種の領域みたいな場所だ。閉じた世界に大量の負の感情が積み重なったら……」
「呪霊が育つ」
 正解、と五条さんは良い笑顔でサムズアップした。
 五条さんはきっといい先生なんだろう。説明は分かりやすいし、フランクで話しやすい。それに一緒に居れば何があっても大丈夫という安心感もある。等級の高い呪霊をちゃちゃっと祓ってしまう上に、あのルックス。そりゃあファンも増えるというものだ。

 そして同時に俳優さんというのは本当にタフな人たちだと思う。あれだけの数の呪霊がくっついていたら体調だって悪くなるだろう。それでも表ではそんな様子を出さないし、ハードな舞台もこなしているのだから。とんでもない精神力の持ち主だ。そういえば有名な演出家が自分の舞台にアイドルを起用する理由を問われて、「アイドルは大衆の欲望を一身に引き受けて、大衆の欲望に応えているから」と答えてたっけ。それだけの生命力というか力強さというかパワーみたいなものが、俳優という仕事には必要なのだろう。私の推しがそういう第一線で活躍している俳優さんの仲間入りをしたというのはとても嬉しい。そしてそれを陰ながら支えてくれていた五条さんにも感謝したい。
「なにニヤニヤしてんの?」
「してないです」
「僕のこと考えてた? それとも推しのこと?」
「二対八の配分で両方考えてました」
「少なっ! もう少し僕に興味持ってよ」
 別にいいんだけどさ、と五条さんは足元に転がっていた小石を蹴っ飛ばした。まるで漫画のような拗ね方でちょっぴり可愛かった。
「すみません。今は推しへの愛が溢れ出てるので」
 それでも二割は五条さんのことを考えてるのだから、私にしてはかなり考えてる方なんだけど。

「君、愛ってよく言うよね」
「そうですか?」
「普通そんなに使わないよ。アンパンのマーチ歌う時くらいでしょ」
「五条さんでもあのアニメ知ってるんだ……」
「君、もしかして僕が戦前の子どもみたいな生活してたと思ってる?」
 違うんですか?
 そんな私の心の声が聞こえたのか、五条さんは盛大に溜息を吐く。
「そんなわけないでしょ。普通にテレビも観てたし、ゲームだってやってたよ」
「ほぇー」
「で、話戻すけど、物語みたいな恋愛してみたいとか思ってたりすんの?」
「いえ、必ずしもそうゃないです」
 そうなの?
 五条さんのそんな心の声が聞こえてきたような気がした。
「自分が誰かとそこまで深く関係するところが想像できないんですよ」
「付き合ってたヤツいるんでしょ?」
「一人だけ。でも対等な関係ではなかったです。私は“素敵な彼氏である俺”を演出するための小道具だったので」
 五条さんの顔が曇る。しまった。また言わなくてもいいことを。
「あー、その、物語みたいな恋愛も素敵だなって思いますよ。特に今日の舞台みたいな恋人であり、信頼できる友人であり、尊敬できる仕事仲間であるような関係って憧れます。深い絆で結ばれてる関係って最強じゃないですか。仮に恋人じゃなくなっても、そこにあった繋がりが全て消えるわけじゃないって素敵ですよね」
「なるほどねぇ」
「五条さんは? どうなんですか」
「僕は……、そうだなぁ」
 五条さんの足が止まった。反応が遅れて、私と五条さんの間に数歩分の距離が産まれる。
「僕はね、愛ってのは人同士を雁字搦めにしてしまう厄介で歪な呪いだと思ってる。今日の舞台の愛もフィクションだからこそのモノだ」
「……はい」
「でも、実現可能性とは別に、そういう関係って悪くないなって思ったよ」
 一歩。五条さんが私との間の距離を縮めた。そしてバシバシと私の背中を叩いた。体幹が弱いから上半身がぐらぐら揺れる。なんで私叩かれてんの?

「せっかくここまで出てきたんだし、なんかケーキ食べたいな。どっかカフェ入ろうよ」
「いいですよ」
「この近くだったらどこが良いかなぁ」
 五条さんがスマホでお店を調べ始めた。また妙にお高いお店を提案されては堪らない。私も予算に合うお手頃なお店を調べようと鞄に手を突っ込む。
 指先に滑らかな布の手触りを感じた。引っ張り出すと五条さんのハンカチだった。
「五条さん、ありがとうございました」
「ん? ああ、ハンカチ? いいよ、そのくらい」
「いや、ハンカチもそうなんですけど、そうじゃなくて」
 スマホの画面から私の顔へ、五条さんの視線が移動する。
「その、楽屋で呪霊から守ってくれて。いや、その、守るってほどのことじゃないのかもですけど、でも安心しました」
 五条さんの長い睫毛がぱちぱちと合わさる。少し遅れて顔にさっと赤みが差した。
「非戦闘員を危険に晒さないのは基本のキだからね」
 じゃあ行こうか、と五条さんはスタスタと歩き出してしまった。私は小走りでそのあとを追いかける。
「ハンカチ、洗ってお返ししますね」
「ああ、うん。そうね。そうしてくれる?」
 五条さんの声が少しだけひっくり返っていた。こんなの、ファンの女の子にいくらでもやってもらってそうなのに、新鮮に照れるのだから思わずにやりとしてしまう。
 私は五条さんににやけ顔を見られないよう、スマホを弄る振りをした。

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