眠い……。
昨日はあまり眠れなかった。五条さんと私と、どちらがベッドで寝るかでお互いに譲り合って無駄に夜更かしをしてしまったのだ。結局、体格差を理由に私がソファで寝ることになったのだが、決して寝心地が良いわけではない。ちょっとした居眠りなら良いが、やはり六時間以上眠るとなるとベッドの方が良い。そんな当たり前の事を再確認した夜だった。
ノートパソコンを開いてはいるものの、仕事は全く手につかない。外は雲一つない青空で、絶好のお出かけ日和だ。まぁ、今日は部屋で大人しくする予定だけど。五条さんからはしつこいくらいに大人しくしててくれと言われてしまったし、昨日の今日であの人――音羽さんと再会してしまうことを考えると出歩く気にはなれなかった。
私の眠気を察知したかのように業務用スマホの着信音が鳴り響いた。
「はい。都立呪術高等専門学校、事務局の――」
『お世話になっております。本日お祓いをお願いしております、○○ホテルの者ですが』
「お世話になっております。いかがされましたか?」
電話の相手はリゾートホテルの人のようだ。私は慌てて筆記具をかき集めて、メモの準備をする。
『実はお客様よりお祓いについて相談したいことがあるとのご要望がございまして』
「申し訳ございません。担当の五条は既に現場に向かっております。本日のお祓いについてご不安なことがございましたら、直接五条へお訊ねいただいた方がよろしいかと存じますが」
『いえ私共のお祓いとは別件でのご相談とのことでした。先ほど高専事務局の方へご連絡差し上げましたが、まずは秘書の方へご相談するようにと』
「そうでしたか。そういったことでしたら私がお話を伺います」
『では大変恐れ入りますが私共のホテルへお越しいただけますでしょうか。とにかく不安だから人目に付かない場所で、とご要望がありましたので、会議室をご用意しております』
横目でパソコン画面に表示された時間を確認する。予定ではもう帳が降りているはずだからこの前みたいに呪霊と鉢合わせることはないだろう。五条さんからは外に出るなと言われているけれど……
「承知しました。今からそちらに伺います。到着はおそらく十五分後になりますので、その旨お伝えいただけますか」
『かしこまりました。一階ロビーの入って右手側にございますコンシェルジュデスクの者にお声がけください。会議室までご案内いたします』
「コンシェルジュデスクですね。承知しました。どうぞよろしくお願いいたします」
仕方ない。五条さんはいろいろ言うかもしれないけど仕事なんだから。高専が私の連絡先を渡したということはそれなりに信頼できる相手なのだろうし。
私は荷物を手早くまとめて、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
現場のリゾートホテルはとても綺麗なところだった。観光シーズン真っ只中ということもあり、ロビーはかなり賑わっている。言われた通りコンシェルジュデスクに向かうと、すぐに案内してくれた。
エレベーターに乗っている間に、聞くべきことを頭の中で再確認しておく。それにしても依頼主はどこで祓除の事を知ったのだろう。身内にホテル関係者でもいるのだろうか。あるいはどこかでホテル従業員の“ここだけの話”を聞いてしまったとか?
会議室前に着くと、まずはコンシェルジュが中に入っていった。中で依頼主となにかを話している。声を聞く限りだと依頼主は男性みたいだ。ううん。判断を誤ったかもしれない。何事もないとは思うけど、男性と会議室で二人きりというのは少し抵抗がある。せめて依頼者の属性くらい聞いておけば良かった。
コンシェルジュが部屋から出てきて扉を押さえ、どうぞと目で合図してくる。
こうなったら腹を括るしかない。深呼吸をして、会議室の中に入る。
「こんにちは。昨日振り」
「音羽、さん……」
会議室で私を待っていたのは、絶対に会いたくないと願っていたその人だった。
「こんなに早く来てくれて嬉しい。私の不安な気持ちを汲み取ってくれたんでしょう? あなたは“人を疑わない”という素晴らしい美徳を持っているのね」
音羽さんは心底おかしそうに笑った。その後ろには昨日と同じようにボディーガードの男性が立っている。さっきコンシェルジュと話していたのはこの人だったようだ。
「さ、座って。立ったままじゃ話しにくいし、疲れてしまうでしょ?」
おずおずと勧められるままに椅子に腰かけると、ギシと座面の革が擦れる音がした。きっと企業の経営者クラスの人たちが使うような会議室なんだろう。机も椅子も、何もかもが高級そうなもので揃えられている。そして音羽さんはそんな調度品に“馴染んで”いた。
場違いなのは私だけだ。
「そんなに緊張しないで。相談したいことがあるのは本当なの」
「五条さんに、ですか?」
「いいえ。あなたに」
彼女がボディーガードに目配せをすると、一枚の紙が手渡された。
「……雇用契約書?」
「そう。あなたに記憶の改ざんをお願いしたいと思って」
どくり、と心臓が大きく脈を打つ。
私の術式については面接を担当した学長と家入さん、事務局長、そして五条さんしか知らないはずだ。一体どこから……?
「余計なお世話かもしれないけど、もう少し縛りを緩くした方が良いんじゃない? 術式を使うためには紙の書面で契約を結ばないといけないだなんて、面倒だし情報漏洩の原因になっちゃうでしょ」
嫌な汗が止まらない。昨日の夕方ごろに出会ったばかりなのに、そこまで調べられてしまうだなんて。事務局の中枢まで影響力が及んでいるのであれば、もう逃げ場なんてないじゃないか。
「それで……、私は誰の記憶を改ざんすればいいんですか?」
「悟くんの記憶」
「え?」
「私ね、婚約破棄の件がどうしても納得できないの。だってそんな大事なことを現当主であるお父様に伝えずに爺様にだけ伝えるなんておかしいと思わない? 確かにお父様はいつも爺様にお伺いを立ててるけど、だからと言って一足飛びに爺様に伝えられたらお父様の面目は丸つぶれじゃない」
「だから婚約破棄の記憶を消したい、と?」
「それも必要だけど、それだけじゃ意味ないでしょ」
音羽さんはころころと笑う。
「悟くんと親しい女の子の記憶を、私と過ごした記憶に全て挿げ替えてほしいの」
耳元でごうごうと血液が流れる音がする。力を込めて押さえつけていないと手が震えてしまいそうだ。
「私と、五条さんの思い出を……、自分で消せ、ということでしょうか」
「必要なら。あなた、本物の彼女じゃないでしょ? 秘書であるあなたに彼女役を頼むってことは本命はいないんでしょうけど、意中の女の子がいないとも限らないから、そういう記憶があればそれもお願いしたいと思ってるんだけど」
音羽さんは涼しい顔をして私を見ている。私がどんなカードを切るのかを楽しみに待っているみたいだった。
「それは、できません」
「どうして?」
「改ざんする記憶のシナリオは前後の記憶との整合性が取れていないと定着しないのですが、脳に蓄積された記憶の全てを参照できるわけではありません。本人が意識すらしていないような小さな記憶は私でも確かめることはできないんです。メインストーリーを綺麗に整えても、些末な記憶との齟齬はどうしても残ってしまいます」
すっと音羽さんの目が細められる。私は何一つ悪いことはしていないのに、どういうわけだか罪悪感に襲われた。
でもここで引き下がるわけにはいかない。
「ちょっとした齟齬でも積み重ねれば大きな違和感に繋がります。対象者が自分の記憶を少しでも疑うと、改ざんした部分の記憶が破損してしまうんです。今回の条件ですと、改ざん箇所が相当な数になります。数が増えれば当然、リスクも高まります。そんな危ないこと、秘書としてお引き受けするわけにはいきません」
「記憶が破損するとどうなるの?」
「人によりますが……、悪条件が重なれば自分が誰だかすらも分からなくなって、その、普通に生活することも難しくなります」
「あら、それは大変」
妙に芝居がかった様子で悩んで見せる音羽さん。胸がぞわぞわする。高いところに命綱無しで立たされているような、そんな感覚だ。本当にどうしてノコノコと出てきてしまったんだろう。
「それなら、直近の記憶に絞ったらどう?」
「直近の記憶……」
「四ヶ月から半年くらい前から今日までの期間。対象者も一番仲が良かった子だけに絞りましょう。それだったらできる?」
「そ、それは……」
その程度であればできる。
できるけど、できない。
「まだ何か不安なことでもあるの?」
音羽さんは猫なで声で私に問いかける。
「遠慮しないで。疑問点はさっさと解消した方がお互いのためなんだから」
「その、他の女の子との思い出を書き換えて結婚したとして、馴れ初めを聞かれる度に他人との思い出を話すことになりますよね。音羽さんはそれでいいんですか?」
私ならきっと耐えられない。好きで好きでたまらない人が、他の女の子との思い出を楽し気に人に話してるのなんて見たくない。
一瞬、音羽さんから笑顔が消えた。そして大きく溜息を吐く。
「私は自分のためじゃなくて悟くんのため、そしてその他の女の子のためにお願いしてるの」
「どういう、ことですか」
「これは爺様から聞いた話なんだけど、昔、どこかの家で悟くんみたいに一方的に婚約破棄をして、一般家庭出身の女と結婚した当主がいたの。表向きは皆祝福したけれど、当主が留守の時にはそれはもう酷い目に遭ったみたい。ご飯に虫が入っていたとか、寝室のドアノブに漆の汁を塗られたとか。そのストレスのせいか元々の体質のせいかは分からないけど、二人の間には子どもができなかった。だから当主は妾を取ったの。少しして妾が男の子を産んだら、当主は妾のいる別邸に入り浸り。耐えられなくなった正妻は精神を病んでしまったみたい。これは公然の秘密なんだけど、しばらくして正妻は妾に毒を盛られて亡くなったそうよ」
「そんな……」
「酷いでしょう? でも決して珍しい話じゃない」
あなたはそれに耐えられる?
音羽さんの目が、そう語っている。
「悟くんがその当主みたいになるとは思わない。きっと奥さんを全力で守ろうとするでしょうね。でも……、そしたら悟くんはいつ休めるの? 外で馬車馬みたいに働いて、家でも奥さんを守るために気を張ってなくちゃいけない。そんなことしたら悟くんが倒れてしまうと思わない?」
音羽さんの言う事はもっともな気がした。
仮に五条さんとお付き合いするとして、この年齢にもなれば結婚ということも視野に入ってくる。結婚すれば当然五条さんの親戚やご実家の人たちともお付き合いをしていかなくちゃいけないわけで、そうなったときに五条さんを安心させてあげられるかと言ったら、答えはノーだ。私には上層部で行われているような駆け引きはできない。そうなれば自分の身を守るのにどうしたって五条さんの助けが必要だ。五条さんは最強だけど万能ではない。外でも家でも気を張り続けたら当然疲労は溜まる。そんな時に特級案件が入ってきたら……。
「悟くんが他の女の子の話をしていても平気かどうか? そんなことはどうでもいいの。悟くんが健康でそれなりに幸せで、五条家を盛り立てられるなら私の気持ちはどうでもいい。御三家当主の妻になるってそういうことだもの」
五条さんの……、五条家当主の妻に相応しいのはこの人だ。
そんな言葉が頭に浮かんだ。私には無理。そんな立場は背負えない。
「分かりました。この話、お受けします」
「分かってもらえて嬉しい。ありがとう。じゃあ早速だけど、ここにサインと拇印を押してもらえる?」
後ろの男性がすかさずペンと朱肉、それにウェットティッシュを差し出した。随分と準備が良い。絶対に契約させるつもりだったみたいだ。私は震える手で空欄となっている契約者欄に名前を書き込んだ。続けて朱肉に指を押し付けて言われた通りに拇印を押す。
音羽さんはざっと契約書を確認すると、満足気にほほ笑んだ。
「今後の段取りについては改めて相談しましょ。連絡先、教えてくれる?」
私は言われるがまま、連絡先を交換した。
◇ ◇ ◇
「――、――きて。――、――引くよ? ほら、――」
大きな手が私の肩を揺さぶる。心地よい声に導かれて意識が浮上した。まだ半分も開いてない目を声のした方へ向けると、見覚えのある黒が視界を埋め尽くす。
「ごじょう、さん?」
体を起こすと、頭が響くように痛んだ。堪らずこめかみを指で押さえる。どうにも記憶が曖昧だ。直前まで何をしてたっけ。
「これ、一人で全部飲んだの?」
そう言った五条さんの手には小さな酒瓶が握られている。よく土産物屋で売っているような一合くらいの日本酒の瓶だ。それが二本。それを見て、寝ぼけた頭がようやく動きだした。
そうだ。音羽さんと雇用契約を結んで、何とか部屋に戻って、お酒を飲んだんだ。飲まなきゃ不安とかいろんなものに押しつぶされて、おかしくなっちゃいそうだったから。それで気づいたら眠ってたのか。窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。帰ってきたときはまだ淡いオレンジと水色のグラデーションだったのに。
眠気とアルコールで頭がふわふわする。でもちょうどいいかもしれない。今なら挙動不審でも全部アルコールのせいにできるから。
「なんか、飲みたくなっちゃって。おいしそうだったから」
「それにしても飲みすぎだよ。ほら、水飲んで」
五条さんの手が私の両手を掴んで、しっかりと水の入ったペットボトルを握らせる。冷たい水が喉を滑り降りていく感覚が心地よい。
「無事、呪霊は祓えたんですね」
「当然でしょ。僕、特級だよ?」
「さすがです。かぁあっこいい。よっ、世界一」
「そうだよ。なんてったって僕はナイスガイなグレートティーチャーだからね。ほらほら、さっさと着替えてさっさと寝るよ」
私は五条さんに引きずられるように寝室に連れていかれた。五条さんは私をベッドの端に座らせると、視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「今日は君がベッド使いな。ちゃんと化粧落として着替えて寝るんだよ?」
「ん……」
五条さんはわしわしと私の頭を撫でた。たくさんの人を守ってきた手だ。そんな手が私の頭を優しく撫でてくれている。なんて幸せなんだろう。
そんなことを考えていたからだと思う。五条さんの手が離れていくときに、私はその腕を掴んでいた。
「……どうしたの?」
「一緒に、寝ませんか?」
五条さんの目が大きく見開かれた。照れる、を超えて動揺しまくってる。昼間見た海を思い出させるような綺麗な青色の瞳が細かく動いていた。当代最強の呪術師が一介の事務員の言動に翻弄されているのを見るのは少しだけ面白かった。五条悟の弱点は色恋。なんだか小説みたい。
「やっぱり飲みすぎだよ。ふざけたこと言ってないで、さっさと着替えて寝な」
「ふざけてないですよ」
五条さんの動きがぴたりと止まる。そして私の肩を押して寝かして、その上に跨った。酔ってるせいもあって、五条さんに押さえつけられた手は全く動かせない。
「男と一緒に寝るってことはさ、こういうことされても文句言えないよ。分かってて言ってんの?」
「分かってます。でも……」
「でも?」
「さみしいんです」
声が掠れたせいで、思ったよりも悲し気な声が出てしまった。
別に何をされても構わない。どうせ私の記憶をなくしてしまうんだから。何をしたって結局五条さんには何も残らない。だったらせめて私の心が堪えられるように想い出が欲しい。そんな欲望が溢れ出てしまった。
五条さんはというと、苦し気に顔を歪めたかと思うと、私を痛いくらいに抱きしめた。
「酔っ払いってホント、勝手だよね。僕の気も知らないで」
「……ごめんなさい」
「さっさと寝間着に着替えな。僕もあっちで着替えてくるから」
「はい」
「念のため言っておくけど、一緒に寝るだけだからね」
「分かってます」
偽彼女だから一線を超える気はさらさらありません。
でも、最後くらいは私の我儘を聞いてほしい。それくらいは許してほしい。
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