五条悟の記憶を改ざんした私は偽彼女失格です

 私は昔からあまりツイてない人間だった。
 大事な試験の日は天気が荒れるし、採用面接の日に電車遅延で身動きが取れなくなったこともある。そういえば前の彼氏と別れた時も、別れ話をした喫茶店で他のお客さんの鞄が私のコップにぶつかって、コーヒーでスカートを茶色く染めてしまったっけ。あのスカート、結構気に入ってたのに。ともかく、私の人生で重要な日には必ず何かが起こるのだ。だから、五条さんの記憶改ざん計画も上手くいかないんじゃないかと思ってた。
 事前の打ち合わせでは、私の役目は五条さんを音羽さんが指定した場所に誘い出すことだった。そこに音羽さんが姿を見せて五条さんの気を引き、その隙に私が術式を発動させて五条さんの動きを封じる。そんな手筈になっていた。絶対に上手くいくわけがない。だって五条さんは最強なんだから。
 でも馬鹿みたいに事は上手く運んでしまった。私のアンラッキー属性が呪霊を呼び込んだのである。音羽さんの登場と呪霊の出現により五条さんの意識は完全に私から離れた。否、離れたというのは正しくない。保護する対象としてしっかりと私を抱き寄せながら、その大きな体で楯になってくれた。
 呪霊は音羽さんに任せて、私は、五条さんを攻撃した。がくり、と大きな体が倒れるのを何とか支え……ることはできなくて、私は五条さんの下敷きになった。腰の辺りを打ち付けてしまったせいか、じんじんと脈打つように痛む。でも五条さんの体が床に叩きつけられるのを防げたのだから名誉の負傷だ。
 五条さんの体から這い出し、ゆっくりと床に寝かせる。五条さんが私のような非戦闘員の術式を食らうなんて普通ならありえない。それなのに事が上手く運んでしまったのは、五条さんにとって私が確実に五条さんを攻撃してこない人間だったからで、そういったある種の信頼を私は裏切ってしまった。
「思い切りが良いのね。『できません』って言いだすんじゃないかと思ってたけど」
「……仕事、ですので。引き受けたからには全力を尽くします」
 私が生きていくにはこうするしかないので。そう言えたら良かったのに。
「あなた、意外と術師の方が向いてるかもね。じゃ、始めましょ」

 私は結界を張り、五条さんの頭の中に手を突っ込んでタイプライターを取り出した。今回は古い記憶も改ざんするので、過去の記憶の束も引っ張り出す。事前の打ち合わせ通り、直近の記憶から遡って投影した。
 映っていたのはホテルで五条さんと一緒に寝た日の記憶だった。五条さん視点の記憶だから私の寝顔が大写しになる。記憶の中の私は口の端からよだれを垂らして気持ちよさそうに眠っていた。五条さんの手がサイドボードに置いてあったティッシュを取り、私の口元を拭っている。私はむにゃむにゃと口を動かして、布団を蹴って寝返りを打った。
『なんだよ、ajidesuって』
 私が寝間着代わりに着ていたTシャツが映り、五条さんの半笑いの声が聞こえた。
 ……恥ずかしい。あまりにも恥ずかしすぎる。五条さんにこんなだらしない格好を見られた上に口元を拭いてもらうだけでなく、その様子を音羽さんと私で観なければならないだなんて。しかも某有名スポーツメーカーのパロディロゴがプリントされたTシャツに高校時代のジャージのズボンという最低なファッションの私を。
 ちらと音羽さんの様子を伺うと、何とも形容しがたい顔をしていた。汚い物を見てしまった時のような嫌悪感と哀れみの混ざったような絶妙な顔である。
 端的に言って最悪だ。「私との思い出を消す」ことに対して感傷的な気分になっていたが、こんな恥ずかしい記憶なら喜んで消せる。生まれて初めて、私は自分の絶望的なダサさに感謝した。
「時間もかかりますし、気になったところだけ普通に再生にして他は倍速にしませんか?」
「そうね。それが良いと思う」

 少しずつ記憶を遡りながら再生していく。最初こそ、恥ずかしさで死にそうだったけど、映像を見ているうちに私自身の思い出も頭の中で動き出した。
 夜空を一緒に飛んだ時に見えた星空と町の灯り。
 五条さんに抱きしめられたときの香り。
 お昼休みに他愛のないことで笑い合ったときの声。
 初めて手を繋いだときに感じたぬくもり。
 初めて連れていかれたカフェで飲んだ紅茶の優しい苦み。
 思い返しては胸がときめく想い出や、忘れてしまっていた幸せな小さなエピソードの数々に甘い気持ちが胸いっぱいに広がった。どこかの国では恋をしているときのドキドキを「お腹の中で蝶が羽ばたいている」というらしい。確かに私のお腹の中では綺麗な色の蝶が羽ばたいて擽ったい。
 いつから好きになったんだろう。病院で助けに来てもらったとき? それともプラネタリウムデートしたとき? あるいは一緒に舞台を観に行ったとき? どれもしっくり来ない。五条さんはいつの間にか私の懐に入ってきてて、私も五条さんをいつの間にか受け入れてて、気付いたら好きになってた。
『あのさ、僕の恋人になってくれない?』
 映像の中の五条さんが私に向かって話しかける。記憶の中の私は口をあんぐりと開いて固まっていた。そりゃそうだ。だってこの頃の私にとって五条さんは芸能人と同じような存在だったんだもの。でももしかすると、私の中にいる蝶の最初の一匹はこの時に羽化したのかもしれない。決め手は昇給だったかもしれないけど、それでも五条さんのことを好ましく思ってなかったら偽彼女の話は断ったはずだから。なんで今さら気付いちゃったんだろう。なんで――

「止めて。もう十分」
 音羽さんの声で私の思考は途切れた。
「悟くんの直近の記憶の中で一番距離が近かったのはあなただけ。そして二人が知り合うきっかけも確認できた。さっさと次のステップに移りましょ」
 音羽さんの視線に促されるまま、私は辻褄合わせの方法を考える。
「改ざん方法についてですが、今回は全てを入れ替えるのではなく、音羽さんの存在を付け加える部分と入れ替える部分を混ぜようと思います」
「どうして?」
「私が五条さんの秘書をしていることは高専関係者なら誰でも知っているからです。その部分を改ざんしてしまうと今後の会話が噛み合わなくなってしまって記憶の信憑性が揺らいでしまう」
「そういうことなら、あなたのやり方に従う。その方が確実だものね」
 中途半端な仕事をしたら許さない。
 そんな副音声が聞こえたような気がしたのは私の被害妄想のせいだろうか。
「では、作業を始めます。改ざん結果については一ヶ月分ごとにまとめてお見せしますので、最終確認をお願いいたします」
「ごめんなさいね。私、大事な用があって少し離れなくてはいけないの。最後にまとめて確認するから作業を進めててもらえる?」
 私が黙って頷くと、音羽さんはいつものようにボディーガードを連れて結界から出て行った。
 私は自分の顔を両手で叩いて自分を奮い立たせた。もう退くことはできない。逃げ出したところで私は五条さんの信頼を裏切って攻撃したのだ。元の関係に戻れるわけがないし、戻ってもいけない。自分の役割を全うすべく、私は五条さんの記憶の束を手に取った。
 五条さんの記憶は情報の洪水だった。六眼の力であらゆる人の術式の情報が見えてしまうのに加えて、昔からの癖なのだろう、術式を持つ人間が安全かどうかを一つひとつ判断をしているようだった。よく「疲れた疲れた」と言っていたが、この記憶を見れば納得だ。こんなに情報で溢れた記憶は見たことがない。五条さんの側に「自分が守ってやらなくては死んでしまう妻」が増えたら過労死まっしぐらだ。
 記憶に修正液を塗って、タイプライターで打ち直す。白く塗って、打ち直して。そのサイクルを繰り返す度に私の腹の中の蝶が死んでいく。唯一の救いは、五条さんの記憶の情報量に圧倒されて泣いている暇がなかったことだろう。実際のところ、記憶の改ざん作業は外国語の翻訳作業に似ている。人によって異なる言語で書かれた記憶を“和訳”して読み解き、改ざん内容をその人の言葉に翻訳して打ち直すのだが細かなニュアンスまではなかなか拾いきれない。五条さんの記憶の言語はとても複雑だ。文法自体はシンプルで分かりやすいけど、どこかの時点で大きな変化が起きてるような痕跡があり、それが理解を難しくさせている。それに多義語が多くて文脈から慎重に読み解かないと誤読しそうだ。
 
 それにしても五条さんは私を随分と気に入ってくれていたらしい。ルーペを使うと映像に変換する際に情報の編集が行われて情報量が落ちてしまうのだが、五条さんの生の記憶に触れるとかなり好かれていたことが良く分かる。それが恋愛的な意味での好きなのか、友愛的な意味なのかは分からない。でも、自分のやってきたことが認められたような気がして嬉しくなる。
『仮に恋人じゃなくなっても、そこにあった繋がりが全て消えるわけじゃないって素敵ですよね』
 不意に五条さんの記憶の中の私が話した言葉が目に飛び込んできた。これはたぶん観劇デートをした時だ。私はこんな小っ恥ずかしいことを言っていたのか。これもついでに消してしまおう。そう思って修正液に手を伸ばした。
「全て消えるわけじゃない」
 修正液を塗りながら、自分の言葉を反芻する。
 そうだ。あの舞台での主人公カップルに大きく心を動かされたじゃないか。男女の愛だけではない、いろんな形の愛情で結ばれた二人。まぁ私の場合は男女の愛にはなれなかったけど、仕事仲間として、そして大事な友達としてこれからも付き合っていける。
 だから私は自分の中を舞い跳ぶ蝶の翅を毟った。止めを刺すなら自分の手で。その方が辛くないから。

 ◇ ◇ ◇

「進捗はどう?」
 最後の微修正が終わろうというタイミングで音羽さんが帰ってきた。
「ちょうど最後の修正をしていたところです」
「随分早いじゃない。打合せの時はもっとかかるかもって言ってたのに」
「思ったよりも集中できたので。……よし。修正、完了しました。最終確認をお願いいたします」
「ねぇ、それ、どうしても必要? このあとまた戻らないといけないんだけど」
「万が一があるといけないので、確認していただきたいです」
 音羽さんは、困ったわね、というような顔をした。
 私はあまり融通が利くタイプではない。その自覚はある。でも今回は改ざん規模も大きいし、相手は五条さんだ。何かあったときに責任を取りきれない。
「私はあなたの仕事振りを信用してる。だからあなたが大丈夫と言うならそれでいいんだけど……」
「ではこちらの確認書にサインを」
「確認書?」
「はい。繰り返しますが、今回の書き換え作業は広範囲に及ぶ難しいものです。加えて相手は御三家当主。事故が起きたときの影響があまりにも大きすぎます」
「何かが起きたときにあなたに全ての罪を被せることがないように、ってことでしょ。そういうところはしっかりしてるのね」
「私の術式は性悪説に基づいた縛りを性悪説に基づいて運用しています。音羽さんに限らず、この規模の改ざんの場合には全員に同じことをお願いしていますのでご理解ください」
「そのくらい言われなくても分かってる」
 音羽さんは私の手から確認書を奪い取り、さらさらとサインをする。確認書は淡い光を放ち、音羽さんの手の中に消えた。
「では、結界を解きます。結界を解いた瞬間から、五条さんと音羽さんは互いに想い合う許婚同士です。そのように振舞ってください」
「私と悟くんが二人で食事に行こうとしていたけれど、悟くんが過労で倒れたから少し休んでいた。こういう筋書きでいいのよね?」
「はい」
 心なしか、音羽さんの頬が紅い。そわそわと自分の髪の毛を触ったり服をいじったりする様子は年相応の恋する乙女そのものだった。
 
 私は事前の打ち合わせ通りに音羽さんのボディーガードの隣、使用人が立っているべき位置へ移動して結界を解いた。
 五条さんの目がゆっくりと開かれる。
「悟くん! 大丈夫?」
「……ここは?」
「覚えてない? レストランに移動する途中で倒れたんだよ。忙しいから食事は今度で良いって言ったのに」
「心配かけてごめん」
「いいの。今日はいったんお開きにしましょ。帰ってお医者様に診てもらった方がいいと思う」
 音羽さんは見事な役者だ。設定を完璧に頭に叩き込んで、“大切な許婚の体調を心配するヒロイン”の役を見事に演じてみせている。
 ぐにゃり、と二人の姿が歪んだ。
 まずい。この後、私は五条さんを送っていくために車の手配をすると声をかけなきゃいけないのに。脇役としての役割も満足に果たせないだなんて。何が確認書だ。何が念には念を、だ。
「車、呼んできます」
 声がひっくり返ってしまったが、何とか自分のセリフを言い終わって部屋の外へ出ていった。視界の端で、音羽さんと五条さんが抱き合っているのが見える。

 私の中に棲んでいた蝶の最後の一羽が、死んだ。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!