今日は彼女が医務室勤務の日だ。
彼女は週に一回、医務室で仕事をしている。詳しくは知らないが都からの補助金を申請するのに医務室設備の使用状況に関する報告が必要なのだそうだ。多忙な硝子に代わって彼女がデータを取りまとめる作業をしていて、ついでだからと消耗品の発注といった庶務的な仕事もやることになったのだとか。僕には良いように使われてるようにしか見えないけど、彼女に言わせると、
「事務局だと術師の皆さんからの問い合わせで中断することが多いんですけど、医務室は基本的に人が来ないじゃないですか。自分の仕事を進めやすいので、今のスタイルが一番やりやすいんです」
ということだった。
医務室に行くと、ドアには「休憩中」のプレートがぶら下がっていた。硝子が休憩中なら彼女も休憩中のはず。僕は形だけノックをして、医務室に入った。
彼女は硝子と向かい合って来客用のデスクで弁当を食べていた。今日の彼女のおかずは……、もう食べ終わってて分からなかった。相変わらず小さな弁当箱だ。非戦闘員とはいえ、こんなんでよく動けるよなぁ。
「あ、五条さん。お疲れ様です」
「外のプレート、ちゃんと見た? 今は休憩中だぞ」
「見たよ。だから来た」
「ちょうど良かったです。昨日の任務なんですけど、祓除地区の被害が想定よりも大きくて警察と市役所に追加で書類の提出が必要になりました。事務局に提出いただいていた報告書を元に書けるところは書いておきましたので、全体の内容の確認と担当術師欄に署名・捺印をお願いします」
僕が隣に座ると、彼女はいそいそと鞄から書類を取り出した。
「うわ、ダルいね。今ざっと見るから空欄のところは口頭で伝えてもいい?」
「五条、ちゃんと休ませてやれ。休憩中なんだから」
「家入さん優しい! 私のこと気遣ってくれるの、家入さんだけです」
顔を顰める硝子に彼女が芝居がかったような口調でウソ泣きをする。硝子は可哀相に、なんて言いながら彼女に飴玉をあげて、彼女はそれを普通に受け取った。
「いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「んー、いつ頃と言われても。確か五条さんの秘書を引き受けたくらいの頃にご飯に誘ってくださったのがきっかけですよね」
「酒好きだなんて知らなかったよ。知ってたらもっと早く誘ったのに」
「私もさっさとお話すれば良かったです。家入さんに教えてもらったお店、本当に美味しくてたまに一人で行ってるんですよ」
「ずるい! 何で僕を誘ってくれなかったの!」
なんでって……、ねぇ。
そんな風に二人は顔を見合わせる。何その距離感。
「そしたら五条さん、提出書類の件、お願いしますね。これから外に出ないといけないので」
彼女はいそいそと弁当箱を片付け始めた。
「なにそれ聞いてない」
「急だったんです。夕方には戻りますので、書類よろしくお願いします」
引き留める間もなく彼女は居なくなってしまった。
「彼女の用事って硝子の案件?」
「そう。提携病院からの呼び出し」
硝子もテーブルの上を片付け始める。ついこの前までエナジーバーと栄養剤っていうディストピア映画みたいなメニューだったのに、弁当を作り始めたなんて。硝子が弁当らしい弁当を食べているのを見るのは学生時代以来かもしれない。
「何の用で?」
「……学長から聞いてないのか?」
「聞くって何を」
「これでピンとこないなら私からは言えない。本人に聞いてくれ」
帰った帰った、と硝子は僕に向かって追い払うような仕草をした。動こうとしない僕を見て硝子の眉間に深い皺が刻まれる。
「ここは待合室じゃないぞ」
「いいじゃん。頼むよ」
僕はテーブルに煙草を置く。硝子はそれを一瞥すると、黙って白衣のポケットに仕舞った。交渉成立だ。
「随分と懐いてるんだな」
「まぁね。彼女は可愛い牧羊犬だからさ。僕は大人しく小屋に追い立てられてあげてるワケ」
「牧羊犬、ねぇ……」
「たまに犬の尻尾が見える時があるんだよね。この前一緒に舞台観に行ったんだけど待ち合わせの時からもの凄く浮かれててさ。尻尾ついてたらワイパーみたいにブンブン尻尾振ってるんだろうなってくらい」
「五条はあの子のこと好きなのか?」
硝子の言葉に、心臓が止まったような気がした。
「好きだよ。ちょっと融通が利かないところもあるけど仕事は早いし、説明も分かりやすい。彼女みたいな優秀な子がいるの、何で隠してたのさ」
「それだけ?」
「それだけ」
「なるほど。五条が単なる仕事仲間とプライベートで一緒に舞台観に行くほど友好的だったとはね。新たな一面を発見したよ」
「もしかして妬いてんの?」
「……そうかもしれない」
仕事に私情を持ち込まない硝子にしては珍しい返答だった。換気のために開け放たれた窓から入ってきた風でデスクの上のボールペンが転がって床に落ちる。そんなことなど気にも留めず、硝子はマグカップの中身をじっと見つめていた。
「あの子は真面目で、感受性豊かで、不器用だ。本当なら呪術界に関わらない方が良い。事務員っていう立場だとしても高専で働く以上、呪術界とは無関係ではいられない。この世界でやっていくには“いい人”過ぎる」
「同感だね」
僕ら術師は高専事務局に文字通り命を預けている。事務局が窓からの報告を分析して適切な任務にアサインしてくれるから、術師は生きて帰って上手い飯が食える。間違えて階級が上の任務にアサインされたら三途の川までまっしぐらだ。
裏を返せば、事務局さえ抱き込めば都合の悪い相手を事故と見せかけて殺すことができるということだ。だから上層部は高専の人事に介入しようとする。彼女が働いているのはそういう場所だった。
「あの子は……、ああ見えて、しなくても良い苦労を強いられて辛い思いをしてきてる。それでもコーギーみたいに元気にやってるんだ。そんな彼女が呪術界の理不尽に潰されるところは見たくない」
硝子は僕をじっと見つめた。僅かに揺れる硝子の瞳が僕の心もざわつかせる。
「私からこんなことを言うのもおかしな話だけど……、彼女が笑っていられるように守ってあげて欲しい。私にできることは限られてるけど、五条は違う。幸い彼女も五条には心を開いてるみたいだし、五条なら私も安心できる」
「でも僕、学生の頃に失敗してるからなぁ」
それに彼女とは数ヶ月後にはただの同僚になるんだ。そんな関係なのに期待されても困る。
「大丈夫だろ。最強の呪術師が同じ過ちを繰り返すとは思えない」
「手厳しいね」
「その能力を信頼してるんだよ」
「何でそこまで彼女に入れ込んでんの?」
硝子はポケットから僕が貢いだ煙草を取り出した。一本火を点けて紫煙を吐き出す。
「……彼女を見てると、何故か灰原を思い出すんだ」
全然似てないのにな、と硝子は自嘲気味に笑った。
灰原の件は僕らに大きな影響を与えた。七海はもちろんだし、たぶん傑も。そして硝子も例外じゃない。あの日を境に毎日抱えきれないほどの医学書を部屋に持ち込んで、がむしゃらに勉強していたのをよく覚えてる。
「彼女がどうなろうと灰原は生き返らない。単なる自己満足ってとこだろうな」
「ま、ああいう気持ちの良い子が潰されるのは見たくないよね」
不意に硝子の電話が鳴り響いた。硝子は軽く舌打ちをして煙草を灰皿に置く。
「はい家入です」
電話を受けた硝子の顔が少しずつ曇っていく。電話口でいくつか指示を出し、電話を切った。
「五条、この後時間あるか?」
「どうした?」
「あの子が呪霊の結界に閉じ込められたらしい」
◇ ◇ ◇
硝子に送られた位置情報をもとに飛ぶと、そこには伊地知が立っていた。僕が来たことに驚いたのか、目を見開いている。
「ご、五条さん!」
「彼女が消えたのはここだね」
「は、はい! 奥の慰霊碑の近くです。子どもが一人、一緒に閉じ込められています」
「分かった」
「では帳を降ろします。ご武運を」
空が昏くなるのを準備運動をしながら眺める。本当だったらオフの時間なのに。七海風に言うなら時間外労働だ。さっさと片付けてしまおう。
伊地知の言う通り、慰霊碑の近くに見知った呪力の痕跡が残されていた。近くには遊歩道らしき整備された道があるが、側を通る人影はない。少し離れたところに呪霊と思しき呪力が確認できた。小さな個体が集まって一つの大きな呪霊を形成しているらしい。ざっと見積もって準二級ってところだろう。子どもも一緒だって言うからあんまり雑なことはできない。ならば……。
「虎穴に入らずんば何とやらってね」
出力をギリギリまで落とした蒼で呪霊を刺激してやる。案の定、挑発に乗ってきた。合成用の幕がたわんだみたいに景色が歪み、大きな裂け目が広がる。僕は大人しく、その裂け目に飲み込まれてやった。
結界の中は薄暗く、湿った空気が漂っていた。時折、ぽたりぽたりと水滴が落ちるような音がする。ホラー映画にありがちなシチュエーションだ。
遠くに感じる彼女の呪力を頼りに足を進めた。歩く度にコツコツと無機質な音が響く。
体感だがある程度の等級の呪霊はたいていが仮想怨霊だ。今回も結界に閉じ込められたのは慰霊碑の近く。何の慰霊碑かは確認しなかったが、病院にある慰霊碑といったら自ずと答えは見えてくる。都市伝説の定石で言えば、医療事故、隔離施設、早すぎる埋葬あたりか。あまりのんびりはしていられない。
少しして、遠くで冷たい床に座り込んでいる人の姿が見えた。その呪力は間違いなく彼女のもの。最悪の事態が頭を過ぎり、足音の間隔が少しずつ短くなる。
「五条さん?」
はたして、彼女がいた。補助監督の言っていた子どもも一緒のようだ。腕に呪符が巻かれた状態で眠っている。
「二人とも無事?」
「はい。でもこの子は呪霊に襲われた時に腕を怪我してしまって。その時に頭を打ってるので念のため家入さんから頂いた呪符で状態を固定しています」
「なんにせよ生きてて良かった……」
安心して溜息を吐いたところで、今の今まで呼吸が浅くなっていたことに気づく。らしくない。自分が緊張していたことにすら気づかないなんて。
けれど今はそんな自己分析をしている場合ではない。僕らはまだ呪霊の結界の中に閉じ込められているのだから。僕は眠っている子どもを背負い、彼女に手を差し伸べる。
「二人の無事も確認できたことだし、呪霊の方を片付けようかな。腕、掴んでてくれる?」
彼女が僕の腕にしっかりとしがみついたのを確認して、来た時と同じように蒼を使う。金属が凹むような音と共に耳障りな金切声が響き渡り、結界が崩れ落ちた。呪霊も八割がた消し飛んだみたいだけど、蛭のような残党が地面を蠢いている。こういう時、僕の術式だと一掃するのが面倒なんだよな。彼女に子どもを預けてぷちぷちと残党を潰して回る。
「あ、あの、五条さん。一つお願いがあるのですが」
「どうしたの?」
「私に術式の使用許可を出してくれませんか?」
「どういうこと?」
「この子を親御さんのところに帰す前に後処理をしたくて」
残党を踏みつぶしながら、アイマスクを外して彼女の術式を見る。
……なるほど。そういうことね。
「いいよ」
「ありがとうございます。そしたら、全部潰したら結界を張りますので、五条さんも一緒にお願いします」
「分かった。ちなみに、コイツが最後の一匹ね」
僕は足元でのたうち回る呪霊を祓った。彼女はそれを見届けると、呪符を取り去り両手で印を結んだ。
次の瞬間、僕らは真っ白な空間に立っていた。彼女の作り出した結界の中だろう。帳みたいに目隠しを目的としているらしい。彼女は子どもを地面に寝かせる。そしてその子の頭を両脇を手で包んだ。彼女の手は、まるで泥の中に沈んでいくかのように、子どもの頭の中へと消えていく。少し何かを探るように腕を動かすと、子どもの頭の中からタイプライターを取り出した。
「これは?」
「この子の記憶を記すタイプライターです。今からこの子の記憶を改ざんします」
そういうと、彼女は打ち出されたテキストにこれでもかってくらい顔を近づけて、お目当ての場面を探し始めた。僕には良くわからない記号にしか見えないけど、彼女には別のものが見えてるみたいでブツブツと「ここじゃない」とか「もう少し前からか」なんて呟いていた。
「あっ、ありました。ここからですね」
彼女はどこからともなく大きなルーペを取り出し、テキストの上に置く。すると白い壁面にホームビデオのような映像が流れ出した。この子の記憶の映像だ。
たぶんこれは病院の待合室。小さな手が何かのキャラクターが彫られたメダルを、椅子の座面で独楽のように回して遊んでいた。あまり器用ではないらしく、何度も床に落としている。三、四回目の失敗でメダルが遠くへ転がっていってしまった。メダルは床を転がり、受付カウンターの近くへ。するとカウンター近くの柱からにゅるりと例の呪霊が現れて、そのメダルを飲み込んでしまった。その子は呪霊を追いかけて病院の外へ飛び出していく。呪霊はその子が付いてきているのを確認するかのように動きを止め、捕まりそうになったらまた動き出す。そうやってこの子を慰霊碑まで誘い出した。
呪霊は慰霊碑の前でメダルを吐き出した。子どもはそれを拾い上げて病院に戻ろうと振り返ると――。
「あれ、ここで途切れてるけど」
「この子の脳が再生を拒否してるんです。怖かったから……」
「君には、見えてるの?」
「ええ。そのための眼鏡ですから。そしたらここの前後を改ざんします。今回だったら……、メダルが誰かに蹴飛ばされて外に転がっていってしまった。それを追いかけて外を出たら見たことない虫がいて、慰霊碑の前に来てしまう。そこで転んで怪我をしたところに私達が通りかかって、みたいな感じでどうですか?」
「まぁいいんじゃない」
「ではそれでいきますね」
彼女はそう言うと、ルーペをどかして小瓶を取り出し、中の液体を紙に塗った。塗った部分の記号は跡形もなく消えていく。そして彼女は記号が消えたところまでタイプ位置を直し、軽快なリズムでキーを打った。数行タイプしたところで、もう一度ルーペを置く。白壁のスクリーンに映し出されたのは彼女がさっき話した内容そのものだった。
「これで完成です。では結界を解きますので、先ほどの設定に合わせてください」
◇ ◇ ◇
呪霊の祓除もできたし子どもも無事。万事解決めでたしめでたし、とはいかないのが大人の世界だ。
「で、なんであんなことになったの?」
夕暮れ時の会議室。僕と彼女と二人きり。だけどその空気は全く甘くなくて、むしろピリピリと張り詰めている。
今回の彼女の行動は職務規定違反……とまではいかないものの、きちんと指導をしなくてはいけなかった。本来なら事務局長の仕事だけど、僕も一応は彼女の上司だし現場に居合わせた術師としてきちんと話をしたかったから無理を言って役目を代わってもらったのだ。
「君は非戦闘員でしょ。非戦闘員が未確認の呪霊と遭遇した場合は?」
「……すぐに事務局に連絡して、術師の派遣を依頼します」
「そうだよね。君がそれを知らないワケがない。知ってたのになんでそうしなかった?」
「その、私が見かけたときは呪力も大したことなかったので大丈夫だと思ってしまいました。等級が高い呪霊が出る可能性も考えましたが、だったらなおさら子どもを避難させないとと思ってしまって」
まぁ、そんなことだろうとは思っていた。彼女は手柄を立てるためにそういうことをするタイプじゃない。純粋に他人の為に動ける人材が高専にいるのは喜ばしいけど、上司の僕には彼女の安全を確保する義務がある。それはそれ、これはこれだ。
「その心意気は立派だけど、それは生きて帰れてこそ意味がある。今回はたまたま僕がオフの時間帯だったからすぐに助けに行けたけど、他の術師だったらそうはいかなかった。そしたら君たちはあのまま呪霊の結界の中で死んでたかもしれないことを忘れないように」
「はい……。肝に銘じます」
彼女は力なく答えた。あんなことがあった後だし、当然と言えば当然か。
気付いたら僕は彼女の隣に移動して彼女を抱きしめていた。
「えっと、あの、五条さん?」
困惑する彼女。
「……ん?」
やや混乱する僕。
それでも腕の力を緩めようという気にはならなかった。
「怖かったよね。生きててくれて……、間に合って本当に良かった」
彼女の手が僕のシャツを掴む。その手が震えていたから、指と指を絡ませた。
ああ、僕は彼女が好きなんだ。
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