五条悟は許嫁と出かけたが……

 体調不良で倒れてから一カ月が経った。
 医者に言われた通り、十分な休息を取ったお陰で倒れる前より元気で健康になった気がする。それもこれも業務調整をしてくれた秘書と、僕の世話をしてくれた“可愛い許嫁”のお陰だ。特に許嫁の彼女が忙しい合間を縫って僕のところへお見舞いに来てくれて、細々とした家事をしてくれたのはとても助かった。“好きな女の子”が家事をしている後ろ姿を見ると、なんだか新婚生活を先取りしてるみたいで心が弾む。秘書に叱られるから早めに復帰したけど、もう少しだけ休んで甘々な新婚生活ごっこを楽しみたかった。今でもたまに昼休みの時間を狙って高専まで弁当を届けてくれるけど、気を遣わせたくないし仕事の邪魔になるからって“前みたいに一緒に弁当を食べていく”ことはなくなった。もう少し秘書が上手く調整してくれた一緒にいられたのに。
 僕の秘書は厳しい。僕が昼休みに“許嫁と一緒にご飯を食べてる”と、これからってところで授業だ任務だって追い立ててくる。伊地知も大概しつこかったけど、今の秘書はそれ以上だ。むしろ一般企業に勤めてた分、時間にはめちゃくちゃうるさい。おかげで周りからは僕と秘書がセットでカルガモの親子なんて言われる始末だ。それを話したら“僕の未来の奥さんは『職場の皆さんは面白い人が多いんだね』って笑ってた”。それに“優秀な秘書さんがついているから安心できるとも言ってた”。確かに僕の秘書は優秀だ。あんまり融通が利く方じゃないけど、任せた仕事はきっちりこなしてくれるし、越えてほしくない一線も越えてこない。“伊地知の業務負荷軽減のために学長が秘書に就けたらしい”けど、やっぱり専属の秘書がいると各所への連絡が一度で済むから僕としても楽になって助かってる。

 さて、今日は仕事復帰してから最初のオフだ。秘書が事務局に頼み込んで任務の数を減らしてくれたおかげで、思っていたよりも早くオフが取れた。だから今日は彼女とデートに行く約束をしていた。“前回は僕が倒れて予定が流れてしまったから、二人で出かけるのは随分と久しぶりだ”。
 待ち合わせ場所に着くと彼女からメッセージが届いていた。
 ――ごめんなさい。五分くらい遅れます。
 珍しいこともあるもんだ。ま、たまには待つのも良いかもしれない。僕は通行人に睨みを利かせるライオン像の隣を陣取った。
 彼女を待つ間に、秘書が転送してくれたレストランの予約メールをもう一度確認しておく。彼女が行きたいと言っていたレストランだ。デザートのケーキがとても可愛くて美味しいらしい。
 ふと、この前のことを思い出す。今日のレストランの予約を秘書にお願いしたときのことだ。その場に居合わせた硝子に「宦官って知ってるか?」って言われてメスを突きつけられた。確かに公私混同した自覚はあるけど、このくらい別にいいじゃん。“これまでだって何度も秘書にお願いしてきた”のに、何で今になって硝子が怒るのかが分からない。
 硝子だけじゃない。この前、秘書に確認したいことがあったから伊地知に居所を聞いたんだけど、何か言いたげな顔をしてた。問いただそうとしたら顔色を変えて過去最速で逃げられた。伊地知はああ見えて言いたいことをポロっと口に出してしまうタイプだ。そんな伊地知が僕から逃げるってことは、僕に言えない何かがあるってことだ。
 それに七海も僕が秘書に頼み事をする度に露骨に溜息は吐くし、「昔からクズだと思ってはいましたが、これほどとは思いませんでした」なんて言い出した。事務局の人たちもどことなく冷たい。皆、僕の秘書に対する接し方を快く思っていないみたいだった。周りからどう思われてるかはそれほど興味はない。でも不自然だ。僕が倒れる前後で、あまりにも態度が違う。僕が倒れていたほんの数時間の間に何かがあったとしか思えなかった。
 可能性その一。実は呪いのせいで体感時間が狂っている。でも時間の流れに違和感はない。記憶のない時間帯はあるけれど倒れている間の数時間のことだし、彼女の話ともズレがない。だから呪いの線はナシだ。
 可能性その二。誰かが何らかの目的で僕に都合の悪い話を皆に信じ込ませた。倒れてから復職するまでの期間は八日間だから、ちょっとした噂を流すことくらいならできなくはないと思う。僕を嫌ってるヤツもたくさんいるし、周りから孤立させて影響力を弱めようとしていると思えば整合性が取れる。ただ、その割には流す噂がしょぼい。秘書の労働環境だなんてトピックが小さすぎる。この程度で態度を変える人ばっかりだったら僕はとっくの昔に高専を追い出されて今頃実家でゴロゴロしてるだろう。
 可能性その三。これは考えたくないけど――
 
 ぽんぽん、と二の腕の辺りを叩かれる。 
「悟くん」
 彼女だった。走ってきたのか肩で息をしている。僕を待たせてるからって急いで来てくれたのか。
「待たせちゃってごめんなさい」
 申し訳なさそうに眉尻を下げる彼女。可愛い。ちょっとだけ意地悪な気持ちが生まれる。
「僕、待ちくたびれちゃったなぁ。ハグしてくれたら元気でるかも」
「もう! 恥ずかしいこと言わないでよ」
 顔を真っ赤にしてそんなこと言いながらも彼女は“いつもみたいに僕にハグをしてくれた”。
 ……あれ?
「香水変えた?」
 彼女の顔が少しだけ引き攣る。
「変えたっていうか……付けてない、かな」
「そっか」
「化粧品を変えたからそのせいかもしれない。リップの色をちょっと明るくしてみたんだけど、どう?」
「へぇ! 似合ってる。可愛い」
「良かった。派手過ぎないか心配してたの」
 早く行きましょ、と彼女は僕の手を引いた。
 
 きらきらした化粧品のブースには目もくれず、彼女はエスカレーターに向かって歩いていく。何とはなしに辺りを見回すと、化粧品の広告が並ぶ中に男性モデルの広告が視界に飛び込んできた。秘書が熱を上げている俳優だ。この前、ペアチケットを秘書に譲ったら大喜びして“友達と一緒に観に行くって言ってた”な。呪霊を体中にくっ付けてにこにこ笑ってる姿の方が見慣れているから、流し目の澄ました顔が新鮮だ。
「どうしたの?」
「あそこの化粧品の広告、モデルが男だなって思ってさ」
 あの広告を指さす。彼女は、あの人ね、と呟いた。
「最近、テレビでもよく見かけるようになったよね。この前も『結婚したい若手俳優ランキング』堂々の第一位って話題になってた」
「僕、何度かあの人の舞台観に行ったことがあるんだけどさ、全然雰囲気違うから驚くよ」
「確かあの広告も舞台とのタイアップ広告じゃなかった? ほら、少し前まで東京でやってたじゃない」
「『椿姫』だよね」
 ざざ、と頭の中で何かが掠めていった。
 上手く言葉にできない。ささくれを逆撫でされたような感覚……いや、ちょっと違うな。何だろう。
「観に行ったの?」
「いや、秘書に譲ったよ。あの人のファンなんだってさ」
「そうなんだ」
 彼女の顔が曇る。そりゃそうか。他の女の子の話をしたらいい気はしないよな。
「そういえば今日のお店、デザートが有名なんだっけ」
「そう、そうなの! 美味しいだけじゃなくて、見た目もとっても可愛くて評判なんだよ」
 彼女は嬉しそうに笑って、僕の手をぎゅっと握った。
「私、悟くんがこのお店予約してくれたって聞いたとき、私のことを考えてくれてお店選んでくれたんだなって思って本当に嬉しかった。ありがと」
「大げさだよ。“好きな子”のためだったらそのくらい普通でしょ」
「その好きって気持ちを感じられて嬉しいの」
 心底幸せそうに笑う彼女。その笑顔の前では、さっきの違和感なんてどうでもいいように思えた。

◇ ◇ ◇

「ただいまー」
 出迎える人は誰もいないのに、ついつい帰宅の挨拶をしてしまう。彼女が僕の家に来てくれていた間に身についた習慣だ。人間、自分にとって都合のいい習慣はすぐに身につくらしい。僕って意外と単純。
 部屋着に着替えて自室のベッドに寝転がり、彼女とメッセージのやり取りをしながら今日の幸せを噛み締める。
 デートは最高だった。彼女はとても喜んでくれたし、料理も美味しかった。店も雰囲気が良くてイイ感じに静かだから話も弾んだ。婚約してから“いろんな話をしてきてお互いのことはよく知ってる”つもりだったけど、どの話も新鮮に面白く感じられた。

 そういえば彼女と一緒にいる間に着信があったな。私用スマホの方に来てた着信だったから無視したけど、留守電が残っている。番号に見覚えはない。私用スマホの番号を他者に教えることなんてほとんどないし、教えた相手の番号は覚えてるからきっと間違い電話か何かだろう。いつもならそれで留守電を消すのに、何となく気になって聞いてみた。
『五条様の携帯電話でしょうか。アトリエJ銀座店の○○でございます。先日ご注文いただきましたサンプルリングが届きました。お時間よろしいときにお越しくださいませ』
 ぞわり。
 まただ。また頭の中で何かが掠めていった。全く記憶のない注文。何かの間違いに決まってる。でもどういうわけか無視することができなかった。僕の直感が「この違和感と向き合え」って告げている。
 僕は彼女を待つ間にしていた考え事の続きを始めた。

 可能性その一は呪いによる体感時間の変化。その二は誰かが噂を流したこと。そしてあまり考えたくない可能性その三。それは周りが変わったんじゃなくて、周りの人がドン引きするレベルで僕自身が変わってしまったこと。つまり……彼女が、嘘を吐いている。
 彼女は僕が倒れたと言っていたが、本当は違ったとしたら? 僕が何らかの呪いで自分でも気付かないうちに人格が変わっていたとしたら? でもさすがに術式をくらったら覚えてないはずが――
「秘書が、僕の記憶を消した?」
 秘書は術式で記憶を書き換えられる。術式を使って僕の記憶を書き換えたとしたら。それなら辻褄は合う。じゃあ動機は? “二人が僕を害そうとするなんてありえない”。だとすると第三者Xがいたのか? そのXのことを僕が覚えていると都合が悪いから記憶を弄った。ならそのXは誰だ? 留守電の店の記憶がないから注文したのは倒れるよりも前、つまり一ヶ月以上前のこと。一ヶ月以上前の記憶を遡って消さなくてはならないとすると、Xは僕が会ったことのある人間で、あの店の記憶に関連する人物ということになる。
「本当にありうるか?」
 自分で仮説を組み立てたものの、あまりにも突拍子のない考えだ。そもそも、この仮説はあの留守電が正しいという前提の上に成り立っている。確かに電話をかけてきた店はハイブランドのジュエリー店で、間違った番号に電話をかけるような失態を犯すような店ではない。けれど同じ人間が作業をしている以上、絶対にありえないとは言い切れない。
 僕は居間に向かい、棚から箱を引っ張り出した。この箱には僕が“婚約期間中に許嫁と出かけた”ときの想い出の品を仕舞っている。もし本当に僕があの店で指輪を注文したのだとすれば、何かしらの資料をここに仕舞うはずだ。蓋を開けて中身をテーブルの上にぶちまけた。プラネタリウムの半券、カフェやレストランの名刺、“彼女の実家に黙って”一緒に旅行に行ったときのリゾートホテルのパンフレット。懐かしいものはたくさん出てくるけど、お目当ての資料は見つからなかった。
 やっぱり僕の思い過ごしなのかもしれない。冷静になってみると、あまりにも幼稚な考え方に思えた。よく考えてみれば彼女は僕の許嫁とはいっても高専の部外者だ。短時間でも部外者がやってきたらそれなりの対応を取らなくてはいけないわけで、ただでさえ僕が任務をセーブしてて大変な時なのに来客対応なんかしてられないだろう。そりゃあ反応も冷たくなる。それに僕自身も相当に浮かれてたから、その態度が周りをイラつかせてたんだろう。だから硝子や伊地知、七海が渋い顔をしていたんだ。そう考えれば全てが腑に落ちる。
 まだ本調子じゃないんだろう。こんな突拍子のないことを考えてしまうんだから。明日高専に行ったら秘書に言って任務のインターバルをもう少し長めに確保してもらうようにしよう。再来週の彼女とのデートも悪いけどキャンセルさせてもらおうかな。それも明日連絡しなくては。僕はもう一度想い出の品を宝箱に詰め直して、棚の指定席に戻した。

「あれ」
 宝箱の指定席のすぐ下、観音扉の端から濃紺のつやつやしたリボンがはみ出ていた。そのままにしてても害はないけど、一度気付くと気になる。せっかくだからちゃんと戻しておくか。
 観音扉を開くと、紙袋が床に滑り落ちた。厚手のさらりとした袋の隅に銀のインクでロゴが印刷されている。
「アトリエ、J……」
 血の気が引いていくのが分かる。あの電話は間違いなんかじゃなかった。僕の記憶に存在しないはずの店。その店のロゴが入った紙袋が僕の部屋から見つかった。馬鹿げた妄想だと思っていた考えが俄かに現実味を帯びる。
 紙袋の中には付箋のついたパンフレットが入っていた。そのページを開くと、僕のではない書き込みが残っていた。おそらく店員の字だ。注文した時に店員といろいろ相談したのだろう。

 聞かなくては。僕に何が起きたのか。何をしたのか。
 明日にはきっと全てが分かるはずだ。

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