写真館という言葉を聞いた時に七海の脳内に浮かんでくるのは、十代の頃に住んでいた家の近くの写真館だった。
そこは昔ながらの小さな写真館で、何かの記念日にはそこへ行って家族写真を撮るのが七海家の習わしだった。最後にそこを訪ねたのは中学を卒業した年の三月だった。店長兼カメラマンの男性の指示に従って、卒業証書を持ったり、椅子に座った母の肩に手を置いてぎこちない笑みを浮かべたりした。思春期ともなると家族写真を撮るのは気恥ずかしかったが、あの飴色の木の壁と眠気を誘うオレンジの照明は嫌いではなかった。
繁華街から少し離れたフォトスタジオ。そこは七海の思い出に焼き付いている写真館とは真逆の空間だった。真っ白な壁に大理石を模したような床。白木の照明器具。壁に飾られているドライフラワー。どこもかしこも淡い色彩ばかりだった。
七海は予約メールに記載されている住所を再度確認する。もちろん、七海は何一つ間違えてはいない。間違いがあるとすれば、あの派手な仕事着とゴーグルで来店したことだろう。任務を終えてから一度帰宅して鉈を置いてきたのだからその時に着替えておくべきだったのだ。
――過ぎたことを悔やんでも仕方がない。
七海は覚悟を決めて、光溢れる白の空間へ入っていった。
受付で名前を告げるとスタッフの女性は七海をカウンセリングブースへと案内した。そして入れ替わりにスーツ姿の女性が入ってくる。彼女は七海に名刺を渡しながら、七海の担当スタッフだと告げた。ぴんと伸びた背筋にきっちりと結い上げた髪は客室乗務員のようだった。
「まずは事前にご回答いただいたアンケートを元にお話をさせていただきます。今回はシンプル撮影プランに持ち込みオプションをご希望とのことですが、お仕事用のお写真撮影をご希望ですか?」
「いえ、今回は結婚写真を撮りたいと思っています」
「そうでしたか! 結婚写真ですとシンプルウェディングプランというプランのご用意がございまして、ドレスやタキシードレンタルのサービスが付いてくるのですが、今回は思い出のお洋服を着て撮影されたい、ということでしょうか」
七海は女性スタッフの質問には答えず、テーブルに広げられたパンフレットをじっと見つめていた。担当スタッフが口にしたウェディングプランのページには、真っ白なドレスに身を包んだ女性の写真が大きく載っている。
「写真を撮るのは私一人で……アルバムと一緒に写真を撮りたいんです。お付き合いをしていた女性の写真なのですが、その……彼女が先日亡くなりまして」
七海の耳に女性スタッフが息を呑む音が飛び込んできた。
七海が彼女の殉職を知ったときには、すでに告別式も終わっていて、住んでいたアパートの片付けも終わっていた。準備の良い彼女は生前に共同墓地を契約していたらしく、遺骨も埋葬された後だった。彼女がこの世に存在していた痕跡は跡形もなく消えてしまっていたのだった。七海が長期出張に出ていた間の不幸とはいえ、こうも手早く手続きが進められるのか。別れの儀式をすることができなかったせいか、七海の気持ちは不気味なほどに凪いでしまっていた。
「これ、七海に渡しとく」
そんな彼を見かねたのか、家入は七海に一冊のアルバムを手渡した。中を開くと、真っ白なドレスを着て微笑んでいる彼女の姿が映っていた。
「これは……」
「ソロウェディングだよ。『一番綺麗な瞬間を写真に残しておきたい』って一人で撮りに行ってたよ」
「……聞いてない」
「だろうな。撮りに行ったのは七海と別れた後だから」
七海と彼女はお似合いの二人だったし、良い関係を築けていたと七海は自負していた。それこそ健やかなる時も病める時も互いを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合ってきた。けれどその関係をより確かなものにする勇気を七海は持ち合わせていなかった。七海は数少ない一級呪術師である。二級の彼女と比べると任務の危険度は段違いで、殉職のリスクも指数関数的に跳ね上がる。彼女の幸せを数値化して将来の試算をしてみた結界、七海との結婚によるプラスよりも殉職のマイナスの方が大きいと七海は結論づけた。
けれど彼女はそうではなかった。彼女は七海を失うリスクを理解した上で、七海との強い結びつきというリターンを欲しがった。二人は何度も話し合いを重ねたが、議論は平行線を辿る。冷静な話し合いは感情的な言い争いに発展し、二人の関係性に細かな瑕がつき始めた。そして遂に彼女から別れを切り出されたのである。七海は彼女の申し出を何も言わずに受け入れた。七海もすっかり疲れてしまっていたのだ。二人は互いの家に残した私物を交換し、関係を清算した。
「このアルバムはご遺族にお返しするのが筋では?」
「その遺族が要らないって言ったんだよ。こんなもの、あっても邪魔なだけだとさ」
「だとしても私が持っているべきものじゃないでしょう」
「いいや、七海が持つべきだ。写真を見て彼女を偲んでやれ。それが七海にできる唯一の弔いだろ」
どうしても要らないなら処分すればいい、と家入は七海にアルバムを押し付けて立ち去ってしまった。
その日の夜、七海は彼女のアルバムを眺めていた。どうしても食事をする気になれなかったし、かといって眠ることもできなかった。何もしないでいるには夜は長すぎる。それで仕方なしにアルバムを手に取ったのだ。
アルバムの中の彼女はまるで別人だった。百合の花を手に優しく微笑む顔も、バルーンに囲まれて楽しそうにはしゃぐ顔も、夜景を背景にした憂いを帯びた横顔も、どの表情も七海の頭の中にあるアルバムには存在しない。いや、かつてはあったのだろう。だが度重なるすれ違いによって、泣き顔と怒り顔に上書きされてしまった。
――もしも、彼女と共に生きる道を選んでいたら。
彼女の運命は変えられなかったとしても、もしも彼女と家族になる決心をしていたらどうなっていただろうか。
七海は目を閉じ、有り得たかもしれない可能性に思いを馳せる。
きっと二人であの写真館に行って結婚写真を撮っただろう。緊張しがちな彼女でも、あの店主ならきっと穏やかな笑顔を引き出してくれるはずだ。それを二人の寝室に飾りたいと言ったら彼女は恥ずかしがるだろうか。いや、意外と受け入れてくれるかもしれない。繁忙期には一人で眠ることも増える。そうなった時の心の慰めになるだろうから。仕事が落ち着いているときはできるだけ二人で食卓を囲むようにしたい。互いに互いの好きな料理を作って、時には酒を飲みながら他愛もない話に花を咲かせる。そして一緒にベッドに入って肌を重ね、互いの体温を感じながら眠る。
彼女が短い生涯を終えてしまう前に、そんな温かな幸せを与えてあげられたかもしれない。一歩踏み出す勇気さえ持てたなら、きっと出来たはずだった。
七海は胸に鉛を詰め込んだまま、ページを繰った。
次のページには彼女の横顔のアップが載っていた。彼女の耳元には歪んだ真珠と小さなオリーブグリーンの石をあしらったピアスが揺れている。
『建人のゴーグルと同じ色だから』
不意に七海の脳内に彼女の記憶が溢れ出した。
一度だけ彼女の誕生日プレゼントを一緒に買いに行ったことがあった。繁忙期真っ只中の誕生日ということもあり、七海はプレゼントを用意できなかったのだ。彼女はこの時期に一緒に過ごす時間が作れただけで十分だと言っていたのだが、七海がプレゼントしたいのだと強く希望したのである。雑貨、文具、婦人服売り場と順繰りにフロアを巡っていく。不意に彼女がアクセサリーショップの前で足を止めた。彼女の視線の先には、あの真珠とオリーブグリーンのピアスが輝いていた。
『気になりますか』
七海は彼女に訊ねる。
『いいよ。つける機会無いし』
『なら私と一緒に居る時につければいい』
彼女は少し迷って、店に入った。彼女はいくつか気になるデザインのものを耳に当て、やっぱりこれがいいとあのピアスを選んだ。
『何が決め手だったんです?』
会計を済ませて店を出て、何とはなしに七海は聞いてみた。
『建人のゴーグルと同じ色だから』
そう答えた彼女の耳は朱く染まっていた。
「……クソが」
悪態と共に、七海の目から涙が零れる。
いつかどこかのタイミングで彼女とは別れることになっただろう。七海は今でもそう思っている。彼女との幸せな未来を妄想してはみたものの、彼女とは根本的な考え方が異なるのだ。むしろ恋人同士になれたことが奇跡に近い。その奇跡のような時間と繋がりを純粋に楽しむべきだったのだ。七海がすべきだったのは幸福を定量化して測定することではなく、刹那の幸せであってもそれを味わい尽くすことだった。
その夜、七海は夢を見た。
彼女に初めて会った日の夢だった。彼女はよろしくね、と七海に笑いかけた。その笑顔が妙に眩しく感じられたものだった。
* * *
フォトスタジオを訪ねた一か月後、七海の自宅にアルバムが届いた。彼女との写真が出来上がったのである。
さっそく、七海は表紙を開いた。一ページ目は彼女のアルバムを持った七海自身の写真だった。当初の予定では私服で撮影するつもりだったのだが、どうせならとタキシードをレンタルした。写真の中の七海は上品な光沢を放つ衣装に身を包み、穏やかに笑っていた。次のページには二人の横顔の写真が並んでいた。彼女の方は例のピアスを付けた写真で、七海の写真はその彼女と向かい合わせになっている。スタジオのスタッフが彼女の写真をスキャンして、一緒に撮ったかのように配置してくれたのだった。
――彼女は怒るだろうか。
きっと怒るだろう。勝手に写真をスキャンして死後結婚の真似事をするなんてどうかしてる。彼女ならそう言うはずだ。
けれど死後結婚はいつだって生きている者の勝手で執り行われるものだ。
「申し訳ありません」
七海は写真の彼女に向かって形ばかりの謝罪をする。
「恨むなら私のような男を愛したことを恨んでください」
そして私のような男に愛されたことも。
七海はアルバムを本棚に仕舞った。
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