「それでそのとき伊地知がさ――」
今日の五条さんはいつも以上に饒舌だった。久しぶりのデートだし、そもそもこうして対面で会うのも久しぶり。きっと舞い上がっているのだろう。
今回のデートは五条さんプレゼンツの夕食会だった。ドレスコードのあるレストランに行く、ということだけは事前に教えてくれたけど、他のことは「全部僕に任せて」と言って詳しいことはなかなか話そうとはしなかった。とはいえ服装のこともある。本当にラフな服装と仕事着しかないから、と五条さんを説き伏せてお店を教えてもらったら、なんと星付きホテルのお高いレストラン。それを聞いた時には文字通りひっくり返りそうになった。五条さんは「ジーンズにスニーカーじゃなければ何でも大丈夫」とか言われたけど、どう考えても何でも大丈夫ではない。大慌てで小綺麗なワンピースとそれに合わせたアクセサリーと靴を買いに走った。もちろんコーディネートなんて分からないから百貨店のお店の店員さんに勧められた通りのセットを買い、言われた通りにアクセサリーを付けて言われた通りのメイクをした。お洒落な人のアドバイスに従うと、私みたいな地味顔でもそれなりに華やかに見えるんだからプロってすごい。
五条さんが私の術式を破ったあの日、私は五条さんに時間が欲しいと告げられた。今回のことはきちんと筋を通さなかったから起きたことだ、と。意図していなかったとはいえ、私に辛い思いをさせてしまった。今後の私たちのためにも、然るべき場所に話を通して然るべき関係になりたい。しばらく会えなくなるけれど信じて待っていて欲しい。そう言われた。私の答えはもちろんイエス。それから五条さんの、音羽家本家と東京を行き来する生活が始まった。プライベートはおろか職場でも会えない日が続く。記憶を書き換えたあとも仕事で顔を合わせていたから、こんなにも会わない時間が続いたのは初めてだった。
「仕事、最近どう?」
「それほど変化はないですよ。出向って言っても、週の半分は事務局にいますし」
「そっか。それなら良かった」
五条さんは安心した様子で皿の上の肉を口に入れた。
私の方も少しだけ変化があった。五条さんが音羽家との“話し合い”を決意したのとほぼ同じタイミングで五条さんの秘書を解任されて高専の提携病院へ出向となったのだ。週の半分は提携病院で呪霊に襲われたと思しき患者の記憶の改ざんと“見える”人たちとの面談を行い、残りの半分は高専事務局でスカウトした人の窓登録や雑務をやっている。
この人事にはいろんな噂が飛び交っていた。プライベートな問題で事務局をざわつかせた私に対する懲罰的な異動だとか、五条さんを孤立させるのに失敗した上層部の嫌がらせだとか、むしろ五条さんが私を囲い込むために外部に出向させたとか。実際のところはどうなのかは知らない。でもいろんな噂で変に目立ってしまったから週の半分を高専の外で過ごすというのは気が楽だった。
私は赤ワインのグラスに口をつけた。思っていたよりも中身が減っていて、一気に呷るような形になってしまった。緊張しているせいか、いつもよりハイペースで飲んでる気がする。そりゃあ、おめかししてお高いレストランに来れば緊張もする。しかも気合いの入りまくった五条さんと久しぶりに一緒にご飯を食べているのだ。緊張しないわけがない。私の家まで車で迎えに来てくれたのだが、あまりにも格好良くて何かの間違いだと思った。黒のスーツにグレーのストライプシャツ、青ネクタイ。私の住んでるマンションのどうってことない外壁が背景なのに、ファッション誌の表紙みたいに見えるのだから驚きだ。きちんとしたワンピースを用意しておいて良かったと思う反面、えげつない外見レベルの差にやっぱり五条さんはB専なのでは、なんて失礼な疑問が頭に浮かんだのは私だけの秘密である。
「なーに考えてんの」
「へ?」
不意に話しかけられたもんだから、素っ頓狂な声が出てしまった。
「さっきからずっと上の空じゃん。久し振りのデートなのに」
「すみません。こういうとこに来たことないので、なんか、緊張しちゃって」
「そうなの?」
「そうですよ。迎えに来てくれたときもなんか大きな車で来て、ばっちりエスコートされて……。こんなの初めてです」
本当はそれだけじゃない。
五条さんは今日の約束をするときに「家のことは片が付いた」と言っていた。その流れでドレスコードのあるレストランに行くということは、つまりは“そういうこと”なんだと思う。考えすぎかもしれないけど。もし“そう”なら、とても嬉しい。でもいつだかの音羽さんの言葉が頭にこびりついて離れないのだ。昼ドラも真っ青な世界に飛び込んで果たして私はやっていけるのか? いやいや、五条さんが苦労して話をつけてきてくれたのにそれを無下にするのか? そんな出口のない不安が頭の中をぐるぐるしていた。
「そっかー。初めてなんだ」
私がそんなことを考えてるとは欠片も思ってないであろう五条さんは、ニヤニヤしながら“初めて”という言葉を強調した。そんなに嬉しいものなんだろうか。初キスとかが嬉しいなら分かるけど。
「ここはチョコレートケーキが有名なんだよ」
「そうなんですか?」
「そ。パティシエが世界大会で優勝してる。なんだっけな。なんか惚れ惚れみたいな名前のケーキ」
「惚れ惚れ……」
全然分からん。私が知ってるチョコのケーキってチョコレートケーキとブラウニーとザッハトルテくらい。ブラウニーに至ってはケーキじゃなくて焼菓子だ。
「さくらんぼとチョコを使ったケーキなんだけど、ビターチョコと洋酒に漬け込んださくらんぼの酸味のバランスが絶妙なんだってさ」
「えっ、洋酒入ってて大丈夫なんですか?」
「僕のは洋酒抜きで頼んでるから大丈夫」
「なるほど……」
二人の間に沈黙が流れる。何か話題を振らないと間が持たない。どうしよう。こんな時に限って五条さんも黙っちゃうし。さっきまであんなにペラペラと話してたのに。
ドリンクを選ぶ振りをして、五条さんを盗み見る。五条さんはそわそわした様子で厨房の方に何度も視線をやっていた。よく考えてみたら残すところデザートと食後のコーヒーだけ。もし“例のイベント”があるならそろそろなんじゃないか? 厨房の方を何度も見てるってことはアレか。ケーキの中から指輪が出てくるやつか。いや、そんな食べ物を粗末にするようなことを五条さんがやるとは思えない。じゃあアレか。フラッシュモブ。いや、ドレスコードがあるレストランはそんなことやらせてくれないか。だとすると……無難にアレか。ケーキと一緒に店員さんがお盆に乗せて持ってきてくれるやつ。うん。なんだかそんな気がしてきた。
そんなことを考えてるとだんだん胸がドキドキしてきた。口から心臓が飛び出しそう。思いっきり叫んで、全速力でこの場から逃げ出したい気分だ。でも妙に期待しちゃってるって五条さんに気付かれたら絶対にプレッシャーになるし、ここはあくまでも冷静に、気付いてない風を装いたい。でももうさっさと言って欲しい。判決を待つ被告人の気分だ。
「あの、さ」
「は、はい。なんでございましょう」
「……なに、そのテンション」
五条さんの眉間に皺が寄る。ああもう。私は何をやっているんだろう。もう全部アルコールのせいにしてしまえ。
「飲んでる、テンションです。高いお酒って気持ちよく酔えますね」
「そうなの?」
「はい。安い居酒屋のサワーだと、そんなに飲んでないのに頭痛くなるときありますよ」
「そういうもんなんだ」
「そういうもんです」
しん、と静まる私たち。後ろから女性の感極まった声が聞こえてきた。下世話な私はついつい聞き耳を立ててしまう。どうやら今日は二人の記念日で、男の方が女にプレゼントを渡したようだ。話の内容からして、プレゼントの中身はたぶん指輪だ。
逆に思い切ってそれとなく水を向けてみたらどうだろう。その方が五条さんも切り出しやすいかもしれないし。
「そういえば、ご実家というか音羽家との話し合いは決着がついたんですよね」
「ん? ああ、そう。そうだよ」
「思ったより早く決着がつきましたよね。もっと時間がかかると思ってました」
「ああ……、まぁ、あの子が口添えしてくれたからね」
「え? 音羽さんが?」
五条家と音羽家との会合で五条さんは音羽さんのお父さんに掴みかかられたそうだ。経緯が経緯なだけに、五条さんもそのときばかりは黙って殴られるつもりでいたらしい。けれどそれを制したのが音羽さんだったそうだ。五条家は現当主である五条さんに権力が集中していて心もとない。同じ御三家なら加茂か禪院の方が安泰だろうし、どうせなら傍流を婿に迎えて姻戚関係になった方が何かと身軽に動ける。そう言い放ったのだそうだ。お父さんも娘の話も一理ある、と思ったらしい。その場では話を持ち帰って検討する、ということになった。まぁ、そんなのは建前で、実際のところはその場で破談が決まったらしい。
「会合のあと、あの子にお礼を言いに行ったらさ、『夢は子どもが見るもの。私はもう大人なんだから現実を生きなくちゃ』って言われたよ」
「そう、だったんですね」
「あの子は僕が思ってたよりずっと大人だったよ。どの家に嫁いでも恥ずかしくない呪術師の名家のお嬢様だ」
そう言ってどこか遠くを見つめる五条さん。その姿に体中の血液が沸騰するような激しい感情が生まれる。自分からその話題を振ったくせに。やっぱり酔っぱらっているときは判断力が鈍って駄目だ。
「五条さん、一つ聞いてもいいですか?」
「ん?」
「もしも、音羽さんと――」
「お待たせいたしました。フォレ・ノワールでございます」
絶妙なタイミングで店員さんが最後のデザートを持ってきた。白いクリームの上に薄くスライスしたチョコレートがまぶしてある。その上にさくらんぼとチョコレートで作った花が添えられていた。店員さん曰く、元々はドイツ生まれのケーキで、シュヴァルツヴァルト地方の黒い針葉樹林を模したものらしい。白いクリームは雪、スライスしたチョコレートは雪の上の落ち葉をイメージしている。そこにシュヴァルツヴァルト地方の特産品であるさくらんぼを乗せているらしい。ちなみにクリームに混ざっている洋酒はサクランボが原料のキルシュだそうだ。
「そっか。フォレ・ノワールだったか。惜しかったなぁ」
「惜しくはないと思いますけど……」
「そんなことは無いでしょ」
「いや、だって惚れ惚れとフォレ・ノワールって、最初の音すらあってないじゃないですか」
「細かいことはいいじゃん。それより食べよう」
結局、ケーキの登場により、話はうやむやになってしまった。
私も五条さんに倣ってケーキを切り分けて口に運ぶ。シロップ漬けのサクランボの甘酸っぱい味が洋酒の利いたクリームによく合っている。ほろ苦いチョコレートもいいアクセントになっていた。確かに市販のチョコレートケーキと比べると随分と軽くて、食べやすい。でも今の私には少し重たい。
ワインを飲みすぎなければよかった。
◇ ◇ ◇
「はぁ……。バカみたい」
ホテルのお手洗いで心の声が漏れ出る。
結局、私が期待していたような“例のイベント”は起こらなかった。なにそれ。こんな気合いの入りまくったレストランに連れてこられて、フルコース食べて。そんなの期待するに決まってるじゃないか。それなのに何もなしだなんて。
でもよく考えてみれば、五条さんは私と然るべき関係になりたいとは言っていたけど、それが叶ったとは言ってはいなかった。ただ単に音羽さんとの婚約破棄が成立したってだけ。そもそも然るべき関係というのも随分と曖昧な表現だ。然るべき。そうあるべき。相応の。私と五条さんの相応の関係ってどんな関係なんだ。五条さんはどんな関係を“そうあるべき”関係と認識しているんだろう。考えれば考えるほどドツボにはまっていく。
鏡に映ってる私はなんだか草臥れていて、年齢よりもずっと老けて見えた。化粧が崩れた部分をコットンで落としてもう一度ファンデーションで塗装をする。
私は、自分で思っているよりもずっと面倒な女だった。五条さんが音羽さんに同情するようなことを言った時に生まれた感情は間違いなく怒りと嫉妬。音羽さんのせいで私は軽い不眠症になったのに、彼女は物分りのいい大人の女みたいなことを言って五条さんに罪悪感を植え付けた。もしかしてまだ狙ってるのか? いったん身を引いて、私と五条さんが破局するのを待っているんじゃないのか? 彼女は可愛いし若い。待とうと思えば待てる年齢だ。だから明確な何か――指輪だったり、法で守られた家族だったりで五条さんを縛らないと不安で仕方がないんだと思う。でも自分から言うのは怖いし恥ずかしいから五条さんが一歩踏み出してくれるのを待っている。一人で舞い上がって、勝手に緊張して、期待が裏切られたからって勝手に落ち込む面倒くさい女。今の私はそういう女だ。
――だったらもう思い切って可愛げのない女になっちゃえば?
鏡の向こうの私がそう微笑んだ。
別にいいじゃないか。もともと可愛げなんてなかったわけだし。嫉妬で頭の中がぐちゃぐちゃになって不機嫌になるくらいだったら、もう自分から気持ちを伝えればいいじゃない。男の提案を女が受け入れるという形式にこだわる必要なんてどこにある。
私はあの舞台の映画女優と駆け出しの俳優の関係を美しいと思った。そう。確かに美しい。でもそれは舞台の上だからだ。生身の人間はみっともなくて格好悪い。でもそんなことを気にせず、ひたむきに突き進むからこそ未来が手に入るのだ。もしあの映画女優が物分かりの良い振りをせずに俳優と一緒にいたら、彼女は愛する人の側で穏やかな死を迎えられたかもしれない。少なくともその可能性は残されていたはずだ。
今、行動を起こさなかったら、きっと何も残らない。そんなのは嫌だ。
時計を見ると、もうすぐ九時。まだまだ宵の口だ。私は化粧ポーチからアトマイザーを取り出す。五条さんが私との関係を思い出すきっかけになった香水。もしかしたらまた何か私にとって都合のいい事件を起こしてくれるかもしれない。私は祈るような思いで胸元に香水をつけた。ふわりと優しい甘さが広がる。その香りに背中を押されながら、私は五条さんの待つロビーへと向かった。
「お待たせしました」
「大丈夫? 随分飲んでたみたいだから心配したよ」
「大丈夫です。心配をおかけしてすみません」
「あーあ。お詫びに僕のお願い聞いてくれないと気持ちが収まらないなぁ」
五条さんは悪いことを思いついた子どもみたいに笑う。マズイ。これは本当にお願いを聞く流れになりそうな予感がする。五条さんのお願いは面倒なんだ。コールスローサラダ、キャベツ抜きを用意しろみたいなことをたまに言うのだ。何を食うんだよ。
「冗談だよ。そんな嫌そうな顔しないでほしいな」
「だって五条さん、冗談じゃ済まないときがあるんですもん」
「僕ってそんなに信用ない? 傷つくなぁ」
「日頃の行いですよ」
そんな他愛のないやり取りを交わしながら、私たちは駐車場へと向かう。
「そういえば君って明日は休みだっけ」
「ええ、まぁ。五条さんは?」
平日夜の中途半端な時間ということもあって、エレベーターホールは人もまばらだ。声が響いてしまうから必然とボリュームは小さくなる。
「んー、事務作業が残ってるくらいだけど、それは別に急ぎじゃないんだよなぁ」
「事務作業は早めにやりましょ。早め早めでちょうどいいですよ」
「でも急ぎじゃないし」
ぽん、と軽やかな音を立ててエレベーターが到着した。乗り込んだのは私たちだけ。
「ちなみに、なんの書類ですか?」
ちょん、と五条さんの手が私の手の甲に当たる。
「先月分の出張の経費申請と報告書」
そっと指先に触れてみる。
「それ、明後日までに申請しないと経費落ちませんよ」
五条さんの指が私の指に絡みついた。
「え、そうだっけ?」
すり、と指先で五条さんの掌を撫でる。
「そうですよ。今月は決算があるから〆切が厳しくなるって言ったじゃないですか」
「忘れてた。じゃあ申請手伝ってよ」
再び、ぽん、と軽やかな音がしてエレベーターは止まった。五条さんはしっかりと私の手を握って歩く。私も隣に並んで歩く。会話はないけど、嫌じゃない。この時間がずっと続けばいいのに、とすら思う。
車に乗り込み、シートベルトを締める。五条さんはというと、エンジンもかけずシートベルトも締めず、ぼんやりと運転席に座っていた。
「五条さん?」
心配して声をかけても帰ってくるのは生返事ばかり。どうしたのだろう。
「あの、さ。さっきの話」
「さっき、というと」
「明日の話。まだそんなに遅くない時間だし、もう少し一緒に居たいんだけど」
きゅう、と胸が甘く締め付けられる。
「嬉しいです。どこか行きます?」
「ん……」
五条さんはまだエンジンをかけようとはしなかった。このまま駐車場に居るつもりなんだろうか。まぁ、確かに人はめったに来ないし、ある意味プライベートな空間ではあるけれど。
――今がチャンスなんじゃない?
頭の中で声が響く。全く準備はできていない。でもチャンスの女神は前髪しか生えていないのだ。
「五条さん、私の話、少しだけ聞いてくれますか?」
「ん? ああ、いいけど」
私は財布を取り出して、中に仕舞っていたものを五条さんに見せた。
「紐?」
「これ、半年前に、大学時代の友達が台湾旅行のお土産で買ってきてくれたお守りなんです」
心の中で一言詫びを入れてから、私はビニール袋を開けて中に入っていた紐を取り出した。五条さんは私の手からその紅い紐を取って目の高さに掲げてまじまじと見つめる。
「紐がお守りって……。さすがにぼったくりじゃない?」
「ね。私もそう思いました。一応意味はあるみたいなんです。月下老って知ってます?」
五条さんが隣で息を呑んだ。その様子だと知っているらしい。
「中国とか台湾では割と有名な神様みたいです。結婚名簿を持っていてそこに名前を書かれた男女の足に赤い縄を結ぶんだとか。そうやって赤い縄で結ばれた二人は身分や生まれた国が違っていても必ず結婚するんだそうですよ」
私は五条さんの手からその紅い紐を取り返した。
「友達に言わせると、この紐が置いてあるお寺はホンモノなんだそうです。紐を受け取って数カ月で運命の出会いを果たした人もいたんだって鼻息荒く語ってくれました」
少し乾いて、温かい左手。その薬指に紐を結びつける。
「正直、困ったなって思ってたんですよ。その子、私が前の彼氏と別れてからずっと一人なのを気にかけてくれてたんです。でも私はそれでいいと思ってて。だから、この紐もちょっとの間だけお財布に入れておいて、適当なタイミングでお焚き上げでもしてもらおうかなって思ってました」
五条さんの薬指に、赤い紐の蝶が止まった。
「その一週間後くらいかな。五条さんが給湯室で声をかけてくれたんですよ」
あの時のことは忘れられない。
だって、友達から恋愛成就のお守りを貰った一週間後に彼女になってくれ、なんて言われたんだから。しかも相手は“あの”五条悟。冗談みたいな本当の話とはこのことだろう。
「五条さん。私、五条さんのことが好きです。偽の彼女としてですけど、一緒にお出かけしたりご飯食べたりしたのが本当に楽しかった。それで、どうしても五条さんと離れたくなくなっちゃいました。ずっと……、どちらかが死ぬまで一緒に居てもいいですか?」
不意に唇に柔らかいものが触れた。目を瞑ると、五条さんが私の唇に吸い付くようにキスをした。何度も角度を変えて触れるだけ。それだけでも堪らなく幸せだった。
さんざん互いの唇を堪能して、やっと顔を離すと、五条さんはハンドルに突っ伏した。
「あああああ、もう! やられた! そういうのは僕から言いたかったのに!」
「ええええ!?」
五条さんはジャケットの内ポケットから濃紺のリングケースを取り出した。そして蓋を開けて私に差し出す。
中に入っていたのは銀の指輪だった。その指輪を取り、五条さんは恭しく私の薬指に嵌めた。いつの間にサイズを測ったのだろう。指輪はぴったりと私の薬指に収まってキラキラと輝いていた。
「僕も、君が好き。愛してる。僕と一緒に居ることが君にとって本当に幸せなのかずっと考えてたけど、僕の隣に君以外の人が居るのは考えられなかった。だから……、僕と結婚しよう」
今度は私から五条さんにキスをした。少し驚いていたみたいだけど、私の手をしっかりと握って受け止めてくれた。
「ねぇ、僕の家に来ない?」
蕩けるような五条さんの視線に私の顔も熱くなる。
「それ、どういう意味ですか?」
「どうもこうも言葉通りだけど? ただ、一緒に僕の家で寛いで夜通し語り合って一緒に寝たいなって思っただけ」
「それだけ、ですよね?」
「……多分」
正直かよ。……まぁ、いいけど。私も嫌じゃないし。
「明日はおいしいコーヒーが飲みたいです」
「いいよ。僕の家、めっちゃ良い豆あるから期待してて」
五条さんは車のエンジンを入れた。ハンドルを握る左手には赤い紐が結ばれたままだ。
私もシートベルトを締める。左手の薬指に感じる金属の感覚に思わず口元が緩んだ。
「そうだ。今度さ、その香水、僕にも分けてよ」
「いいですけど、女物ですよ。何に使うんですか?」
「出張で会えない時のために。それを持って行ったタオルに吹きかけて、君の存在を感じながら寝る」
「そういうのは本人の前で言わないでくださいよ。なんか気持ち悪い」
「ひどいなぁ。君、ほんとに僕のこと好きなの?」
「好きですよ。でもそれとこれとは話が別です」
駐車場を出ると、夜空に大きな月が浮かんでいた。せっかくのロマンチックなシチュエーションなのに会話の内容が若干残念だ。でも、私たちらしいかも。
こんなどうしようもない会話を、ずっと続けていられますように。
私は心の中で、そっと月に祈った。
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