結局、アイツの外出許可は取れなかった。
そもそも先生に根回しも断られたし、恒例のまどろっこしい問答すらしてもらえなかった。アイツ自身はこの結果を予想してたみたいで、「三人の気持ちが嬉しい」なんて言ってたけど、俺は納得できない。だっておかしいだろ。何を言っても「外出許可の根回しはしない」「そういう規則だ」の一点張りとか意味分かんねえ。
「悟、いつまで怒ってるんだい?」
傑がイラつく俺を窘めた。食堂の長テーブルにせっせと紙コップと紙皿を配りながら、たまにちょっと曲がったフォークを直していた。妙なとこ細かいんだよな。他はめちゃくちゃ雑なくせに。
「傑は平気なのかよ。こんなの筋が通らねぇだろ」
「私だって納得してないさ。でも先生の提案があったからこそ今日の鑑賞会ができるんだ。それで良しとしないと」
先生は俺らにある提案をした。俺らの任務のアサイン状況から英語の出席日数が足りなくなる可能性が高いらしい。だから補講代わりに映画上映会をしたらどうかというものだった。英語の補講だから観るのは洋画に限られるし、レポートの提出は必須だった。でも「偶然」英語の先生が帰ったあとしか視聴覚室が空いてなかったし、空いている日は「偶然」アイツも任務が入っていなかった。補講なら学長許可を取る必要もないし、レポートさえ提出すればやり方は任せるって言われた。先生の言う「やり方は任せる」ってのは「最低限のルールさえ守れば好き勝手しても構わない」ってことだ。だから俺らはその提案に飛びついた。
外に出られないアイツが楽しめるように、鑑賞会の前に皆で夕飯を食べることにした。メニューはもちろん、映画館で食べるようなジャンキーなやつだ。アイツの希望で一年二人も呼ぶことになったから、ちょっとしたパーティーだ。
「皆で揃って食事するのも久しぶりだ、って悟も楽しみにしてたじゃないか」
「……まぁな」
皆でわいわいやるのは楽しい。ここんとこ俺も傑も単独任務が多くて、顔を合わせる機会もなかったから余計に。でも先生に駄目だって言われた時のアイツの寂しそうな顔が脳裏にちらついて、気分が盛り下がる。
「せっかくだから楽しまないと損だよ。あ、彼女、ピザ食べられるかな」
「知らねーよ。形だけでも皿とフォークを並べとけばいいんじゃね」
アイツのことを思い出すのは傑のせいでもある。最近、アイツのこととなると何かと俺に話を振るようになった。俺、アイツの保護者じゃないんですけど。
「お待たせー」
硝子がアイツと一年二人を連れて食堂にやってきた。アイツも少し浮かれてるらしく、任務とか訓練の時よりも派手な中国服を着ていた。キョンシーだからって何も服まで中国風にしなくてもいいんじゃねぇかな。
「お疲れ様です! うわー! たくさんある!」
「頼まれていたもの、買ってきました」
灰原と七海が想像通りの反応をするもんだから、思わず吹き出した。もういいや。傑の言う通り、こうなったら楽しまないと損だ。
「かんぱーい!」
各々好きな席に着いて好きなドリンクで乾杯する。久しぶりだからものすごく楽しい。申し訳ないけど一瞬だけアイツのことを忘れて皆との飯の時間を楽しんでしまった。
「あれ、ピザ食べないんですか?」
灰原のこの一言がなかったら食事が終わるまでアイツのことを気にしてなかったと思う。言われてみると確かにアイツの皿は空っぽのままだった。紙コップにも乾杯の時に注いだ飲み物がそのまま残ってる。
「ごめんね。胃袋が動いてないから普通の食事をするとお腹の中で食べ物が腐って大変なことになるの」
「えっ、じゃあ普段は何を食べてるんですか?」
待ってましたって感じでアイツが笑う。
「灰原くん。キョンシーが英語でなんて言うか知ってる?」
「知りません」
「答えはチャイニーズ・ヴァンパイア」
ヴァンパイア。つまりは吸血鬼。灰原の笑顔が引きつった。
「キョンシーはね、陰の気に満ちた存在なの。でもそれだと陰と陽のバランスが取れないから、生きた人間の陽の気を取りこむ。そのために血を吸う」
「その血って、どこで手に入れるんですか?」
「ふふっ。高専には『どうなっても構わない命』があるでしょ? 例えば……規程違反で死刑執行を待ってる呪詛師とか」
「ああ、どうりで死体処理の件数が減ってるわけだ」
食堂に緊張が走る。硝子の言葉がアイツの戯言に妙な説得力を与えて、シャレで済まなくなった。
「それ、オマエの話? それともキョンシー一般の話?」
念のためアイツに確認を取る。まさかとは思うけど、一応な。こういうのは早めにはっきりさせておかないと。
「キョンシー一般の話。私はしてないよ」
「びっくりした……脅かさないでくださいよ!」
食堂の空気がぱっと明るくなる。
「ごめんね。なんか、こういうの期待されてるかなって思って」
「そんな期待してませんし、冗談に聞こえません」
七海は呆れたように溜息を吐く。でも自分のコップを掴もうとして近くのケチャップに指を突っ込みそうになっていた。澄ました顔してるけど動揺してるらしい。
「あれ? そしたら家入先輩の言ってた死体処理の件数の話はどうなるんですか?」
「今年は繁忙期に殉職する人が少なかったから、全体の件数が減ってるのは本当。だけど『呪詛師』の死体処理件数が減ったとは言ってないよ」
「二人とも、悪ノリはほどほどにしな」
「はーい」
「すみませんでした」
傑に窘められて謝ってるけど、二人が反省してるようには見えなかった。
「それで、本当のところはどうなんですか? その、バランスは取らないといけないんですよね?」
「その辺は術式の解釈の参考にしてるだけだよ。でも、縛りとしてお香の煙を浴びてる」
「お香?」
「うん。肉体の制御を補佐する役割なの。香りはなんでも良かったんだけどシナモンが好きだからシナモンにしてる」
「ああ! それでいつも美味しそうな香りがしてたんですね! 格闘訓練の時にドーナッツとか八つ橋食べたくなる理由がやっと分かりました!」
「たまに集中できてないときがあったけど、もしかしてそういうこと?」
灰原は照れ臭そうに頭を掻いた。どうやら図星らしい。アイツはそれを見ておかしそうに笑う。七海は呆れて言葉もないというような具合で、黙ってピザを食べる。硝子はその様子をデジカメで撮って、傑は保護者ヅラして皆の様子を眺めてた。
……面白くない。
アイツ、俺のことは避けるくせに灰原とは楽しそうに話してる。硝子や傑とも。硝子はいい。女子同士だし、たまに硝子の勉強のために実験台になってるらしいから仲良くなるのは当然だ。でも灰原とはなんなんだよ。俺が一人で任務行ってる間になんかすげー仲良くなってんじゃん。
てっきり俺が男だから避けられてるんだと思ってた。昔の人って性別とか結構気にするから。でも実際は違う。アイツは他のヤツとは普通に会話してる。避けてるのは俺だけだ。
「灰原くんって普段映画は観るの?」
「いやー、金曜日にテレビで定番のアニメ映画が放送されるときくらいです。空から女の子が振ってくるやつ」
「分かるなぁ。あれはどうしても観ちゃうよね。滅びの呪文が来るってわかってても、どきどきする」
「そうそう! そうなんですよ」
今だって灰原と楽しそうにアニメ映画の話をしてるし。確かに灰原は話しやすい。それは分かる。そもそも俺はさっきまでアイツのことを忘れかけてた。自分のことを棚に上げるようだけど、やっぱり面白くない。
「そろそろ視聴覚室が空く時間だから、片付け始めようか」
傑の声掛けで、皆わらわらと立ち上がってテーブルの上を片付け始めた。しばらく会ってなくても俺らの連携プレーは健在で、何も言わなくても自然と役割分担ができていた。アイツはその輪に加われずに、一人おろおろしている。
「あの、五条くん、私も片付け―」
「いや、いい。今日はオマエがゲストだし」
さっきの嫌な考えを引きずってたせいで、食い気味に断ってしまった。アイツは一瞬淋しそうな顔をして、テーブルから離れた。俺らの邪魔にならないようにってことなんだろう。
「あー、そしたらさ、このビニール袋に空のペットボトル集めてくれる? 集めた分は俺が捨ててくる」
気まずくなって大したことない作業を頼んだら、アイツは嬉しそうにペットボトルを集めだした。そんなアイツが妙に可愛く見えたのはきっと気のせいだ。
食堂の片付けを終えて、揃って視聴覚室へ移動する。傑が機械のセッティングをしてるのを横目に、俺は教室の一番後ろの席を陣取った。
「お隣、座ってもいい?」
少し遅れて視聴覚室に入ってきたアイツは、真っすぐ俺のところへやってきて、おずおずと声をかけてきた。
「……いいけど」
てっきり硝子か灰原の近くに座るんだと思ってたから面食らう。
「良かった。夏油くんが『君はリアクションが大きいから、周りを気にしなくてすむ一番後ろの席がいいよ』って教えてくれたの」
「ああ、そういう」
確かにコイツはリアクションも大きいし独り言も言う。ただ、そのアドバイスを受けて何で俺の隣に座るんだよ。俺のことは気にしなくていいのか。
「ねぇ、今日の映画ってどんな話だか知ってる?」
でもコイツに嬉しそうに話しかけられると、そんなのはどうでもよくなる。今日はコイツが楽しめるようにいろいろ企画した。コイツが笑ってるってことは企画が成功してるってことだから。
「いや、俺も知らない。補講扱いだから気軽なやつだと思うけどな」
「楽しいのだといいね。五条くんはどんなのが好き?」
「別に、何でも観るけど」
「そっか」
いや俺、会話下手くそか。別にじゃねぇだろ。
「あ、あのさ、オマエって―」
「あっ、始まるみたい!」
間が良いのか悪いのか、部屋の電気が消えた。
英語の先生が選んだのは、個性派ファンタジーが売りの監督の映画だった。映画は息子の結婚式で父親がスピーチをするところから始まる。沼の主を指輪で釣り上げたという話をして会場を湧かせる父親だったが、息子は父親のするホラ話にうんざりしていた。それ以来、すっかり実家に寄り付かなくなった息子だったが、父親が危篤だと知らされて夫婦で久しぶりに実家に戻る。病気になってもホラ吹きなところは変わってなくて、父親は息子の奥さんに自分の若い頃の話を自慢気に語る。
主人公の父親はウザいくらいに明るかった。アメリカ人の考える「クラスの人気者」ってああいうタイプだよな。底抜けに明るくて前向きなヤツ。魔女から予言を受けただとか、巨人や狼人間と出会ったとかそんなレベルのホラ話をするんだから息子に嫌われても仕方ない気がする。
で、その父親は高校を卒業したタイミングで「自分にはこの町は小さすぎる」っつって町外れの洞窟に住んでる巨人と一緒に町を出て行った。旅の途中に立ち寄ったサーカスで、観客の女の子に一目惚れ。彼女のことが知りたくてサーカスで働いて、やっとのことで彼女の住む家を見つけ出して、彼女の大好きな水仙の花をプレゼントした。
「ひっ……」
小さな悲鳴が聞こえて、隣を見る。
アイツは両手で口元を覆いながら映画に見入っていた。映画を観るのに邪魔になるのか、いつもなら顔の前でひらひらさせてる呪符をめくりあげて、ピンで頭の上で留めている。スクリーンでは、若い頃の父親が、一目惚れした女の子の家の前に黄色の水仙の花を敷き詰めて、プロポーズをしているシーンが流れていた。水仙の鮮やかな黄色と青い空のコントラスト。その真ん中で笑い合う二人。あんまり恋愛映画に興味ない俺でも、ロマンチックだと感じる。やっぱり女子ってこういうのが好きなんだろうか。
不意にアイツと視線がかち合った。
周りの音が消えて全ての動きが遅くなる。アイツの切れ長の目の中で星が光ってるような気がした。口元を覆っていた手が外れて柔らかそうな唇が現れる。
―ごめんね。
アイツの口が動き、再びスクリーンへ向きなおった。分かってる。目の中の星は投影された映像の光が反射してるから。こっちを向いたのも、たぶん自分の独り言に気付いて、うるさくしたのを詫びるため。それでも何かそれ以外の理由を探している自分がいる。
ふと、頭の中に映画の内容がリプレイされた。サーカスでの一目惚れのシーンだ。映画では物理的に父親以外の全てのものが一時停止して、一目惚れした女の子に近づいていくっていう演出になっていた。女の子自身もぼんやりと発光してるみたいに映ってる。その子の目も今のアイツみたいに妙にキラキラしてて―
「マジか」
今度は俺がアイツに謝る番だった。スクリーンの中では父親が若い頃に従軍したときの武勇伝を話して聞かせているところだった。
「あのお父さん、すごいよね」
映画の感想だと思ったらしく、俺にしか聞こえないくらいの小さな声でアイツが話しかけてきた。シナモンの甘い香りが少しだけ濃くなる。周りを見ると、みんな舟をこいでいた。灰原に至っては首振り人形よりも激しく頭が揺れてる。この状況なら少しくらい話しても大丈夫か。
「あんだけ大ボラ吹けるってのも一種の才能だよな」
「確かに」
くすくす笑いながら、アイツはスクリーンで展開する物語の世界に戻っていった。
俺はもう物語の世界には戻れなかった。
映画が終わっても誰も起きる気配がなかった。俺は傑に代わって片付けを始めた。
「済まない」
DVDを回収したあたりで、傑が少し慌てたみたいに駆け寄ってきた。
「気にすんなって。最近任務でギチギチだっただろ。あ、DVD、傑に預けていい?」
起きたばかりでまだ頭が働いてないらしく、ぼんやりとした様子で傑はDVDを受け取る。
「彼女は? 楽しんでたかい?」
「お陰でこっちは眠気も吹っ飛んだわ」
「ごめんごめん」
欠伸を噛み殺しながら、傑は機材が収まってる棚に鍵をかけた。
「鍵、俺が返してくる」
「明日は朝から任務だろう。早めに寝た方がいいんじゃないのか」
「こんなの夜更かしの内にも入んねぇよ」
「……なら頼んでもいいかな」
会話に花を咲かせている皆を追い立てながら、傑も視聴覚室を出て行った。
なんか変だ。このくらい、傑だってどうってことないはずなのに。任務でギチギチだった翌日に徹夜でゲームしたこともあったのに。とはいえ今回の企画は傑と硝子に丸投げした。視聴覚室の利用届とか食堂の利用届とか、その二つの利用届に書いてもらう先生のサインの取り付けとか。地味に面倒だったらしいから精神的に疲れてんのかもしれない。俺ももう少し関わっとけばよかった。
事務局に鍵を返して外に出ると、冷たい風が顔を撫でていった。暦の上では春だっつってもまだかなり寒く感じる。
不完全燃焼だ。いつもならギリギリまで遊ぶ傑が先に帰ったのもあるし、映画に集中できなかったのもある。とはいえ帰って一人でゲームする気分でもなかった。レポートを書くのはもっと違う。
「アイツ、どうしてんのかな」
アイツなら確実に起きてるはずだ。そもそも寝ないらしい。傑には楽しんでたって言ったけど、実際のところどうだったのかは確認してない。こういうのはフィードバックが大事だ。次回に向けて反省点を洗い出さないと。
そんな言い訳をたくさん抱えて、俺はアイツの呪力を探して高専の敷地を彷徨い……歩きはしなかった。アイツはすぐに見つかった。事務局棟のすぐ近くのベンチに座って、一人で空を見上げていた。顔の前の呪符はもういつも通りだった。
「何してんの?」
「あっ、えっ、ご、五条くん!」
ベンチの座面にバネでもついてんのかってくらい、アイツは飛び上がって驚く。
「なんでそんなに驚くんだよ。俺に見られちゃマズい?」
「そうじゃないんだけど、その、真っ直ぐ帰ると思ってたから」
「あっそ。隣、いい?」
「あ、うん。どうぞ」
アイツの隣に座ると、避けるみたいに少しだけ距離を取られた。胸のあたりが痛む。
「今日の鑑賞会、どうだった?」
「えっ、ああ、うん。楽しかったよ。皆とお喋りできたし、映画も面白かった」
二度目の胸の痛み。コイツの言う「皆」に俺は含まれてない。今日アイツと交わした会話なんて、映画が始まる直前と今くらいだった。
「若い頃のお父さん、素敵だったなぁ。明るくて奥さんへの一途な愛に溢れてて。水仙の花を家の前に敷き詰めたシーンも本当にロマンチックだった。あ、あの時はうるさくしてごめんなさい」
「それだけ気持ちが動いたってことだろ。別にいいよ」
疑惑は確信に変わった。俺にはああいう明るさはないし、あんな一面の花束を用意して告白するようなキャラじゃない。始まる前から試合に負けるってこういうことなんだろうか。
「やっぱさ、女子ってああいうのが好きなわけ?」
「ああいうのって?」
「その、たくさんの花と一緒に告白されるのが」
「他の女の子がどうだかは分からないけど、私は憧れるよ」
「ふーん」
頭の中で想像してみる。寮の前の庭に黄色の花が敷き詰められている。俺でも抱えきれないくらいの量の水仙だ。寮の窓からそれを見つけたアイツが驚いて外へ出てくる。ん? ちょっと待て。
「水仙の花束って売ってんのかな」
「え、もしかして五条くん、誰か好きな女の子がいるの?」
「いや、そんなんじゃねぇよ! そうじゃなくて、ただ、花屋で見たことないような気がしただけだから」
アイツは、なぁんだ、とがっかりしたような、それでいて嬉しそうな顔をする。
「ちなみに、オマエだったらどんな花がいい?」
「私だったら? うーん。そうだなぁ……やっぱり水仙、かな」
「何で?」
こういうのって定番だとバラの花だろ? それも真っ赤なヤツ。
「映画と同じっていう憧れもあるし、あとは他の色がしっくりこなかったから。ほら、白とか紫とかだとちょっとお葬式みたいでしょ?」
「確かに」
白い花束の中にいるキョンシーは確かに良くない。違う意味が出てくる。
「じゃあ赤は? こういうのってドラマだと赤い花束が定番だろ?」
「あの、ちょっと前に流行った外国の歌で、赤いバラの花を好きな人の家の前に敷き詰めたって内容の歌があるのね」
他にもあるのか。外国人、家の前に花をばら撒くの好きだな。
「それ、失恋の歌なの。だから縁起が悪い気がして。だったら映画と同じ黄色の水仙がいいなって思ったの」
「なるほどな」
さっきの想像の世界を先に進めてみる。花は黄色の水仙で問題なし。で、アイツが寮から出てきて、こう聞く。この花、どうしたの? アイツは答えを聞くと顔を赤くして―まぁ赤くならねぇんだけど、細かいことは抜きだ。とにかく顔を赤くして、ありがとうって答える。
「今日はありがとう」
「は? な、なんだよ急に」
心臓が飛び出すかと思った。俺、まさか全部口に出してたのか?
「今日の映画鑑賞会、本当に楽しかった。高専に来てから、こんなに楽しいって思ったの初めて」
「俺は、傑と硝子の計画に乗っかっただけだから……」
「五条くんが先生のところに行こうって言ってくれなかったら、きっとこんなに早く実現しなかったと思う。だから、五条くんのお陰でもあるんだよ」
ありがとう、とアイツが笑う。風に乗ってシナモンの香りが漂ってきた。
百キロマラソンに挑戦した時みたいに心臓があり得ないくらい激しく脈打つ。アイツの顔が見たい。呪符越しじゃない笑顔が見たい。そんな欲望に駆り立てられて、ゆっくり手を動かす。
「また皆で鑑賞会しようね」
顔面からバケツで水をかけられたみたいな気分だった。中途半端な位置で行き場をなくした手を、どうすることもできずに意味もなく後頭部を掻いてみる。皆で、そう、皆でね。
「そう、だな」
「今度はどんな映画が良いかな。私は雷さま主演の作品がいいんだけど、でもそれだとさすがに皆で楽しむには古すぎる気がするの。あ、でも逆に黒澤監督の作品なら―」
なんだか長くなりそうだ。コイツは寝なくていい上に疲れ知らずだからこのままだと朝までノンストップだろう。
「あー、悪いけど、俺、明日は朝から任務だから」
「あっ! ごめんなさい」
「じゃあ、また」
「おやすみなさい。また今度ね!」
現金なもので、アイツにおやすみなさいって言われただけで少しだけ気分が良くなった。良い夢が見られる気すらした。俺もアイツのこと単純とか言えないな。
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