あの時、俺が談話室に行こうと思ったのは本当に偶然だった。梅雨が明けた頃から本格的に忙しくなって、傑や硝子ともすれ違うことが増えた。繁忙期を抜けてやっと落ち着いたから、誰かしら談話室にいるんじゃないかと思って行ってみた。そしたらアイツが傑と話してるのが聞こえた。傑にお礼をとかなんとか言って楽しそうにしてるのを聞いたら無性にイライラして、我慢できなくなって割って入った。傑がアイツの肩に触ってんのも何だか癪に障った。俺がどう思ってるか知ってんのに何でそんなことすんだよ。
「冷静に。悟が心配してるようなことは一切ない」
不思議なもんで、頭にガッと血が上ったあとは少しだけ冷静になれる。アイツが見てる手前、いつもみたいに口喧嘩をするわけにもいかない。とはいえ不愉快な気持ちが消えて無くなるわけじゃない。
「ご親切にどーも」
だからこれが精一杯の嫌味だった。傑は呆れたって感じの溜息を吐いて談話室を出ていった。
俺はさっきまで傑が座ってた場所に座る。でも何を話せば良いのか分からなかった。アイツに会うのは投げられそうになった夜以来だったし、こんなところで会うとも思ってなかったから心の準備が全くできてなかった。
「ひ、久しぶり、だよね……」
先に沈黙を破ったのはアイツの方だった。
「だな。研究所に行った時以来だから、三ヶ月振りか」
「そんなに前だっけ」
「だってあの時はまだ梅雨入り前だったろ」
「そっか」
そうだ。あの時のこと、ちゃんと謝らねぇと。でも何て言えばいい? 今さら俺が謝ったところで意味あんのか? それに許してもらえなかったら? 十分にありうるだろ。でも謝らないのは違う。
「あの、さ。あの時はごめん。急に抱き着いたりして、悪かった」
「ううん。私こそごめんなさい。びっくりしちゃったからって投げ飛ばそうとするなんて、五条くんじゃなかったら大変なことになってた」
やっぱりそうだったのか。すぐに無下限で弾いたけど、実はアイツに持ち上げられて少しだけケツが浮いた。一瞬でも遅かったら結構ヤバい感じがしたけど、やっぱり相当遠くまで投げようとしてたみたいだ。
「いや、あれは俺が全面的に悪いから」
「じゃあ、お互い様ってことでこの話はここまでにしない?」
「そうだな。そうしよう」
「良かった……ずっと気になってたから……」
まだぎこちないけど、やっと笑ってくれた。それだけでいろんなことがどうでも良くなる。
やっぱ好きだ。
「え?」
呪符の向こうで、アイツの目がこれでもかと見開かれる。
「え?」
まさか。
「もしかして俺、喋ってた?」
いやまさか。
「喋ってた、かな」
「マジか……」
こんなつもりじゃなかった。こんな失言みたいな形で言うつもりじゃなかったのに。
「えっと……聞かなかったことにするね」
「いやだ」
「え?」
「聞かなかったことにはしないでほしい」
シチュエーションこそ不本意だけど、いつかはコイツに伝えようと思ってたことだ。それが少し早まっただけだ。それに聞かなかったことにするっつったって無理だろ。アイツの方に体を向けてちゃんと座り直すと、アイツも背筋を伸ばしてソファに座り直した。
「俺はオマエのことが好きだ。死んでるとか外に出られないとか、そういうの全部どうでも良い。オマエと一緒に居られればそれで十分だと思ってる。だから、その……俺と付き合ってほしい」
アイツは何も言わなかった。俯いたまま黙っている。恥ずかしがり屋なのは分かってたし、すぐに答えられるような内容でもなかったから、視線が合わないのも黙りこくってしまうのも想定済みだ。とはいえ実際に黙られるとつらいものがある。表情だけでも分かれば違ったんだろうけど、呪符が邪魔して何も分からない。耳の中でどくどくと血の流れる音がする。時計の針が動く音よりもずっと早いペースだ。
「五条くん」
たっぷり時間をかけて、やっと喋りだした。心なしかアイツの声が震えてる気がする。
背筋を嫌な汗が伝っていった。
「その、死体だからとか関係ないって言ってくれたのはとっても嬉しいよ。でも……申し訳ないんだけど、五条くんの気持ちには応えられない」
「……そっか。ああ、うん。まぁ、そうだよな」
奇妙な浮遊感がした。全身がぞわぞわして、体の自由が利かなくて胃液が逆流しそうな感じ。そうだ。ジェットコースターで一番高いところから落下する時の感覚だ。違うのは全く爽快な気分にならないところだ。
「ごめんなさい」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で謝られた。その震える肩を見て、冷静になった。
俺は心のどこかで「振られることはないだろう」って思ってた。だって俺って顔は良いし背も高いしスタイル抜群だし? 術師としても超優秀ってか最強だし。それにあの夜、アイツは俺を投げ飛ばす前に確かに俺のことを抱きしめ返した。振られる可能性が全くないとは思ってなかったけど、まぁ大丈夫だろうと確信してた。でも結果は玉砕。だっさ。
「駄目なのって、他に好きなヤツがいるとか?」
「それは、その……」
呪符の端から、アイツの視線が泳ぐのが見えた。
「傑が好き、とか……」
アイツは何も言わない。
「そうだよなぁ。傑、結構モテるから」
何も言わないのは肯定の証なんだろう。
「傑が相手なら仕方ねぇわ」
だっせぇ。
「応援してっから」
完全に付き合える気でいた俺がだせぇ。
「どうして決め付けるの!?」
アイツは急に声を荒げて俺の肩を掴んで揺さぶった。怒りで加減ができなくなってるのか、アイツの指が肩に食い込む。
「痛ってえな。何すんだよ!」
俺もつられて声を荒げる。むかむかと怒りが湧いてきた。
「五条くんが勝手に私の気持ちを決め付けてべらべらお喋りするからじゃない!」
「そんなのオマエが何も言わねぇからだろ!」
アイツの手を無下限で弾いて、うつ伏せにしてソファに押し付けた。両手を背中でまとめて、動けないように馬乗りになる。
「決め付けんな決め付けんなってキレるくらいなら、オマエもちゃんと話せばいいだろ! こっちはエスパーじゃねぇんだよ!」
暴れ馬もドン引きするレベル暴れっぷりで、俺も手加減ができない。普通ならこれだけの体格差があったら動けねぇのに。コイツが普通の女子じゃないことをこれでもかと思い知らされる。
「言えないの! それは許されてない!」
「んなもん知るか!」
力任せにアイツの顔の横のソファを殴りつける。ミシ、と嫌な音がする。
「オマエに何か事情があることくらいは分かる。上層部も一枚噛んでるってこともな。俺もそういう環境で育ってるから、行動を極端に制限される辛さもそれを誰とも共有できない苦しさも多少は分かるつもりだ」
アイツが暴れるのを止めた。
「振った理由を言いたくないなら別にそれでもいい。俺だって無理やり聞き出そうなんて思ってないし。でも曖昧な返事しといてキレんのはナシだろ」
アイツの体から力が抜けていくのを感じる。さすがにもう大丈夫か。拘束を緩めてアイツの上から退く。それでもアイツは起き上がろうとはしなかった。
……起き上がれないわけじゃないよな?
「大丈夫か?」
「大丈夫」
アイツは大きく息を吐いて俺に背を向けてソファに座った。紙の擦れる音がする。くちゃくちゃになった呪符を整えてるんだろう。俺に背を向けてるところに拒絶の意思を見出してしまうのは考えすぎだろうか。
アイツがもう一度俺の方を向いた時には、呪符はすっかり元通りになっていた。あんだけ暴れても破けないとか鉄壁の呪符かよ。
「五条くん、このあと時間ある?」
「ん? ああ、明日も任務だから極端に遅くならなければ別に」
「じゃあ一緒に来て。見せたいものがあるの」
アイツに連れられてやってきたのは事務局だった。アイツは俺を作業スペースに待たせて、一番奥の偉いおっさんと話をしていた。会話は聞こえない。でもこっちをちらちら見てるから、なんかの許可を取ろうとしてるんだと思う。一体何なんだろう。話の流れ的に、アイツの縛りにまつわる何かなんだろう。けど、それって俺に見せていいもんなのか?
おっさんは鍵のかかった棚からパツパツのファイルを引っ張り出した。アイツと額を突き合わせて書類を確認している。かなり微妙な案件らしく、おっさんは腕組みをしながら何もない空中をじっと見つめて考え込んでいた。アイツが何かを言うとおっさんは分かり易く、「なるほど」って感じの反応をした。決着がついたみたいだ。おっさんはファイルから書類を一枚引き抜いてプリンターに向かう。そしてコピーしたものに付箋を付けてアイツに手渡した。
「お待たせ」
アイツはコピーした書類を大事そうに抱えて戻ってきた
「なんだよ、これ」
「高専の倉庫に保管されてる呪具の管理台帳。付箋がついてるところを見てくれる?」
呪具の管理台帳とコイツになんの関係があるんだよ。そんな疑問を抱きつつも、言われた通り、書類に目を通した。
書類には棚番順に呪具の名前と分類が書かれていた。付箋の貼ってある四六番の棚は御三家から高専へ管理を委託された呪具が集められているみたいだった。太刀、槍、仕込み刀、そして僵尸。
「どういうことだよ」
僵尸―カタカナに直すと、キョンシー。
高専にキョンシーなんて一人しかいない。その一人しかいないキョンシーが呪具の管理台帳に載ってる。しかも備考欄には「五条家所蔵」って書いてある。そんな話、知らない。
「見ての通りだよ」
「見ても意味分かんねぇから聞いてんだよ」
「でも書いてある通りなんだけど……」
「それがおかしいんだよ。だってオマエ、呪具じゃないじゃん」
「そういう扱いをするって契約なの」
言ってることがめちゃくちゃだ。
でもコイツの言ってることをそのまま信じると腑に落ちることもある。外出するだけなのに学長許可が必要なのは五条家の所蔵品だから。コイツが移動するときにスーツケースや車のトランクに入るのは呪具だから。
「分かった。オマエが呪具扱いされてるとして、それとさっきまでの話は関係ないだろ」
「ただの呪具じゃない。『五条家所蔵の呪具』だよ。私の所有権は五条家当主にある。だから私をどうにかしたいなら、現当主であるお父様の許可を取らないといけないの」
「だったらなおさら問題ねぇじゃん」
俺は五条家の人間で次期当主。嫌な言い方をすれば、五条家所蔵の「呪具」をどう扱おうが俺の勝手のはずだ。さっさと主従契約を解除して、待遇を改善すれば万事解決する。仮に父親が反対したとしても、成人したら俺が当主になることになってる。だから遅くとも二年後にはコイツは自由の身だ。
「仮に当主様がお許しになったとしても、私の答えは変わらないかな」
「っ!」
「この際だからはっきり言うけど、私ね、五条家には恨みがあるの」
詳しくは家に戻ってから調べてほしい、と断ってからアイツは身の上話を始めた。
生前のアイツは五条家に出入りするフリーの呪術師だった。当時はまだ高専みたいな組織がなくて、それぞれの家がバラバラに依頼を受けて呪霊を祓ったり呪具や呪物の回収を行ったりしてたらしい。アイツは五条家に舞い込んだ祓除依頼を請け負いつつ、亡くなった非術師がいれば術式でその遺体を家族のところへ帰していたらしい。アイツが死んだのは、五条家から請け負った仕事の帰り道だった。犯人は非術師。アイツの生きていた頃は今よりも治安が悪く、女の一人旅ということで狙われた。術式を使わずに殺された術師は呪霊に転じる。呪霊になるのを防ぐためにアイツは非術師に殺された場合に限ってキョンシーになるよう、拡張術式を仕込んでいたそうだ。キョンシーになったアイツはいつも通り五条家に祓除終了報告をしに行った。でも本家に着くころにはアイツが殺されてキョンシーになったことが知られていて、あっという間に捕まってしまった。そしてそのまま主従契約を結ばされたそうだ。
キョンシーは便利だ。疲れないし死なないし、食事も必要ない。睡眠も必要ないから遠方での祓除でも宿代がかからない。まさに金の生る木だった。当時の当主はその利益を他家に横取りされないよう、個人名ではなく「五条家当主の肩書きを持つ者」とコイツの間で主従契約を結んだらしい。
「五条くんに話したかな。私ね、死体を動かすときに縛りを作ってるの」
「知らない」
「死体は必ず家へ帰すこと。そして家に帰ったらただの死体に戻してきちんと埋葬すること」
嫌な予感がする。縛りってことはコイツ自身だって例外じゃないはずだ。家に帰って死体に戻る。でもコイツはキョンシーになった直後に俺の家に掴まって、今もここにいる。
「私と主従契約をした当主様は私の家を焼いた。その上で、呪具扱いして家と呼べる場所を作らせなかった。もちろん自ら術式を解くことは契約で禁じられてる。これで半永久的に使える便利な呪具キョンシーのできあがり」
アイツの顔を見られなくて視線を逸らす。事務局の窓から夕陽が差し込み、仕事をしてる補助監督の体をオレンジに染めていた。
「高専に移されてからも何かあれば五条家に呼びつけられていろんなことをさせられた。危険な仕事もあったし見世物として酒の席に呼ばれたこともあった。あの人たちに何をされたか、どんな顔で私を見ていたか、忘れたくても忘れられない」
そういう「顔」には覚えがある。虫けらを見るような目で使用人たちを見つめるあの醜悪な顔。分家筋の化石みたいな爺は特にそうだ。自分より下とみなしたヤツを虐めて鬱憤を晴らすことしかできないクズの集まり。
コイツの目には俺もそのクズと同じ「五条家の人間」に見えてるのか?
でもそう思われても仕方ないのかもしれない。俺はコイツの縛りの話を聞いて、このままにしておきたいと思ったから。五条家当主との主従契約を完全に解除したらコイツはきっと術式を解除する。コイツがそうしたいならその意思を尊重すべきだ。でも好きなヤツが死ぬのは見たくないし、少しでも長く一緒にいたい。何もしなくても二年後にはそれを実現できる力が転がり込んでくる。なんなら契約を少し変えればいい。行動の自由は保障しつつ、自ら術式を解くことだけを禁じればいい。家に関してもその場所に慣れる前に引っ越しさせれば問題ない。
こんな風に自分の利益を優先させる方法を瞬時に計算してしまった。その事実が、俺にもあのクズと同じ血が流れていることの証明であるような気がしてならなかった。
「五条くん自身はそんな風に思ってないよ。ぎくしゃくしちゃったけど、今でも大事なお友達だと思ってる。ただね、五条くんと今よりも深く関わると、他の五条家の人たちと嫌でも関わらなきゃならなくなるでしょ。それだけはどうしてもできない」
ごめんなさい、とアイツは俺に向かって頭を下げた。
「何でオマエが謝んだよ」
謝るべきは俺なのに。
「だって、自分の親戚を恨んでるって言われたら良い気はしないじゃない」
「いや、恨まれて当然のことをした。ごめん。その、俺が謝ってもしょうがないかもしんないけど」
「五条くんの、その気持ちが嬉しい」
ああ、これは全てを諦めた「嬉しい」だ。
自分の願いは絶対に叶わないけど、憐れんで気にかけてくれただけで慰めになる。そんな「嬉しい」だ。こんなの、俺の聞きたかった「嬉しい」じゃない。
「ごめんね。明日も任務だからそろそろ準備しないと。申し訳ないんだけど、管理台帳のコピーを事務局の人に返してもらってもいい? 一応、機密文書扱いだから処分するのにもルールがあるんだって」
「分かった」
「ありがとう」
じゃあね。
アイツは俺に背中を向けて、作業スペースを出ていった。
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