気になるあの子はキョンシーでした 柒

 過労で遂に頭がおかしくなったか、と夏油は天を仰いだ。
 高専の廊下を手が走っていった。足がないのに「走る」というのもおかしな話だが、五本の指を足のように使って器用に走っていったのである。このような芸当ができる人物に心当たりはあるものの、まだ日は落ちていない。だからきっと幻覚なのだ。夏油はそう思った。
 幻覚であるはずの手が戻ってきた。夏油を見つけて、人間が手を振るように、親指を上に向けて振った。近寄ると、手は踊るように指先で床を叩いた。
 タタタタン。
 指パッチンをニ回。これを何度も繰り返す。最初は良く分からなかったが、不意にとある映画のパッケージが頭に浮かんできた。口ひげを蓄えた恰幅の良い夫と黒ずくめで長い黒髪の妻、フランケンシュタインの執事に娘と息子。
「アダムス……?」
「ファミリー!!」
 コール&レスポンスのように背後から嬉しそうな叫び声が聞こえてきた。足元の手は声の主の方へ走っていく。振り返るとキョンシーが立っていた。
「君か」
「久しぶり」
「いいのかい? まだ夕方なのに帳の降りてない場所を出歩いて」
「実はね、太陽を克服しつつあるの」
 彼女は手をすくい上げて手首にくっつけ、テープでぐるぐる巻きにし始めた。
「五条くんが術式を出しっぱなしにできるようになったって家入さんから聞いたの。それを聞いて、太陽光で肉体が損傷すると同時に反転術式を使えば外を出歩けるんじゃないかって思いついたんだ」
「いつの間に反転術式が使えるようになったんだい?」
 彼女を見つめる夏油の目が、すっと細められた。
「まだまだ全然だよ。でも自分で自分のもげたパーツをくっつけるのは安定してできるようになった。今は手を偵察係に使えないか試して見てるの。ほら、手だけなら狭いところに入れるし、隠れやすいでしょ?」
「研究熱心だね」
「うん。もっと皆の役に立ちたくて頑張ってる」
「そうだ。この後、時間は? せっかくだからもう少し話相手になってくれないかい?」
「ん? 別にいいけど、私でいいの?」
「君が、いいんだよ。寮の談話室に行こう。人に聞かれると恥ずかしいから」
 不思議そうな顔をする彼女に背を向けて、夏油は歩き出す。その顔に笑顔はなかった。

 談話室に着くと夏油は彼女をソファに座らせて窓やカーテンを閉めて回った。
「済まないね。時間を取ってもらって」
「気にしないで。どうせ暇だから。それで……何について話す?」
「面倒だからはっきり言うけど、君、呪霊になったろ。何をしたんだい?」
 キョンシーの表情が固まった。かろうじて笑顔は保っているものの、奇妙な形に歪んでいる。
「術式のお陰なのかな、なんとなく呪霊とそうでないものの区別がつくんだよ。前までは君は私の術式の対象外だったんだけど、今は取り込めそうなんだよね」
「……聞いてどうするの?」
「半分は下世話な好奇心。君も自分に関する噂は知ってるだろう?」
「残りの半分は?」
「そうだな。今後の行動指針にしたくて。去年、私と悟が担当した護衛任務の話を聞いたことある?」
「失敗したってことくらいなら」
 夏油は彼女にあの任務のことを話して聞かせた。天内理子のこと。沖縄に行った時のこと。高専で襲われたこと。薨星宮でのやりとり。そして天内理子殺害の黒幕のこと。
「何を信じれば良いのか分からなくなったんだ。あの光景が頭にこびりついて離れない。それでもなんとかやってきたけど、灰原の件で……」
 夏油の拳がソファの肘置きに振り下ろされる。
「どうして君はそこまでして呪霊を祓う? 人であることを辞めてまで非術師のために任務に出るのは何故なんだ?」
 
 彼女は俯いたまま、手首に巻いたテープを解いた。テープの下の手首はつるりとしており、切れ目を見つけることは出来ない。
「さっきも言ったけど、皆の役に立ちたいからだよ。反転術式については前から実験してたんだけど、どうしても限界があった。でも呪霊なら反転術式なんてお茶の子さいさいでしょ? だから肉体の制御を少しだけ緩めたの。噂については……当たらずといえども遠からず、とだけ言っておくね」
「皆の役に立ちたいからってだけで? たったそれだけのために?」
「あとは……罪滅ぼし」
「罪滅ぼし?」
「灰原くんたちの任務、最初は私が担当することになってたんだ」
 アサイン表を見て、すぐに事務局へ申し出たらしい。彼女は外見上の問題と太陽光の問題で移動に制限がある。だから近場の任務をアサインするのが慣例になっていた。事務局はすぐに同日の別の任務に振り替え、そして当初彼女が行くはずだった任務に七海と灰原をアサインした。
「別に遠方に行けないわけじゃないんだ。日光が入らないようにしっかり梱包して、宅配便で現地に送ってもらえば良いだけの話だから。ただ、こう、さすがに私の気持ちの面でつらくて。だから事務局にお願いして任務を振り替えてもらったの。でも私の気持ちを優先させたせいで灰原くんを死なせてしまった。それが何よりも申し訳なくて、悔しくて」
「最近任務の数を増やしてたのもそういう理由だったのか。立派だな」
「そんなんじゃないよ……」
 彼女は手の中のテープを握りしめる。何度も口を開いては閉じた。談話室に置いてある時計がカチカチと時を刻み、彼女に続きを話すよう促した。
「最初はそういう使命感で任務を受けてた。呪霊に近付いたことで体も軽くなったし、前まで反転術式を使うと体の操作が出来なくなってたのに、それもなくなったから祓除がすごく楽になったの」
 でも、と彼女は体を丸めて自分自身を抱きしめる。
「たまに人間としての自分が、呪霊としての自分に飲み込まれそうになる。このままだと本当に化け物になっちゃう気がしたから任務を詰めこんだってのが正直なところ。任務って分かりやすく世のため人のためになるでしょ?」
「なるほどね」
 夏油は親指で自分の眉間を引っ掻いた。
 
「そういえば、結構前に悟と喧嘩したんだって?」
 彼女の表情が曇る。
「急に話を変えたね」
「まぁまぁ。それで、どうなんだい?」
「ちなみに、夏油くんはどこまで知ってるの?」
「夜に二人でデートしてたら早まった悟が君に抱き着いて、投げ飛ばされそうになったところまでかな」
「ほぼ全部じゃない! なんで全部話しちゃうんだろう」
 文字通り頭を抱える彼女を見て夏油は笑う。人を喰ったという噂よりも自分の恋模様の方が知られたくないらしい。
「良かったのかい? 両想いだったわけだろ。私ならそのままセッ―」
 彼女がわざとらしく咳払いをして暗に夏油を咎めた。肩をすくめるだけの夏油を見て、彼女は深い溜息を吐く。
「夏油くんって紳士的な振りしてるけど、デリカシーないよね」
「まぁ隠しても仕方ないしね。男なんてこんなもんだよ。抱き着いただけで済ませた悟は相当我慢してたんじゃないかな」
「そっか」
「それで? なんで悟を振ったのさ」
「この際だからあけすけに言っちゃうけど、キョンシーに童貞の体液は禁忌だからキスもセックスも駄目なの」
 今度は夏油が咳払いをして抗議をする番だった。
「女の子がそういうことを言うものじゃないよ」
「先に言ったのは夏油くんでしょ。それに大事なことじゃない」
「それはそうだけど、肉体的な欲を満たせなくてもお互いを想い合えるのが人間なんじゃないのかな。そういう点では君と悟の恋模様はすごく人間的な営みだと思うんだけど」
「じゃあ夏油くんは好きな子とそういうことができなくても我慢できるの?」
 夏油はゆっくりと上を向く。そして右斜め上を見て、下を見て、また正面を向く。
「無理だね」
「ほらぁ!」
「私は無理だけど、悟なら大丈夫かもしれない。それにキョンシーのことは術式解釈の参考にしてるだけだって言ってただろ。それだったら君が良しとすればいいだけの話じゃないか」
「それがね、呪霊の中でも仮想怨霊に近付いたみたいで、物語におけるキョンシーの設定に引きずられてる感じがするの」
 どういう設定が? 夏油は舌先まで出かかった言葉を飲み込んだ。今日の彼女は少し喋りすぎるきらいがある。先ほどは性に関する話だったこともあって表現が直接的なだけで済んだが、グロテスクな話を事細かに話されてはたまらない。暑さが緩み、繁忙期も抜けて、ようやく夏油の食欲が戻りつつあるところなのだ。
「とにかく、私と五条くんでは住む世界が違うの。仲間に入れてもらえただけで満足しないと駄目なんだよ」
「無欲だね」
「それ以上を望んだところで手に入らないから。今、この瞬間に私の手元にあるモノを大事にしないと。あ、そうそう。私、夏油くんにお礼を言わなきゃと思ってて」
「は?」
「ほら、前に夏油くんが言ってたでしょ。『大事なのは行動することだよ。何もしなければ絶対に何も起こらないけど、試しにやってみたら案外上手くいくかもしれない』って。その言葉を思い出したから、思い切って呪霊に近づくことができた。今は体の変化に戸惑ってるけど、長い目で見たら絶対にそうした方が皆のためになるもの」
 だから、ありがとう。
 彼女は夏油に笑いかける。談話室に入ってから初めて見せる笑顔だった。
「そんなこと、言ったかな」
「言ったよ。ほら、去年皆で映画館に行くとかなんとかって図書館の会議室で話したじゃない」
「ああ、そういえば……」
 夏油の頭の中で、談話室の向かいのソファに存在しない筈の後輩二人の幻が二重写しになる。
 あの時は気付かなかったけれど、今にして思えば、あの時はまだ皆に気持ちの余裕があった。会える頻度が減ったとはいえ、集まる余裕があったのだから。
「そうだ。少し気になってたんだけど、夏油くんって―」

「何してんだよ」
 怒りを含んだ声がして、談話室を包んでいた空気が代わる。入り口には五条が立っていた。眉間に皺を寄せて不愉快そうに口元を歪めている。
「何って、彼女とお喋りしてただけだよ」
「へぇ。まだ日が暮れるまで時間があんのに談話室に連れ込んでお喋りね」
「……邪魔者は消えた方がよさそうだな」
「ちょ、夏油くん!」
「明後日の任務は遠方なんだ。準備もあるしこれで失礼するよ。気晴らしに付き合ってくれてありがとう」
 ソファから立ち上がる夏油を彼女は慌てて引き留めようとする。それを宥めるように夏油は彼女の肩を軽く叩いた。その様子が五条の怒りの炎に油を注ぐ。それでも爆発せずに済んでいるのは、偏に彼女の視線が二人に向けられているからだった。
「冷静に。悟が心配してるようなことは一切ない」
「ご親切にどーも」
 夏油が談話室を出るのを見届けると、五条は先ほどまで夏油が座っていた場所にどさりと腰を下ろした。

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