夜のしじまに激しい息遣いの音が響く。
その音を発していたのはキョンシーだった。呪霊の体液で両手が毒々しい色に染まっている。周囲にはまだ数体の呪霊が身を潜め、彼女の出方を伺っていた。いつもの彼女であれば三十分もあれば全て祓ってしまえる程度の呪霊たちだったが、その夜は一時間かけても祓除が終えられなかった。
―調子に乗り過ぎた。
彼女は臍を噛む。
ここ数週間で彼女がアサインされた任務の数は高専最多記録を更新する勢いだった。呪霊の発生件数もさることながら、昨年に引き続き自然災害が多発したことで、地盤が緩んだ地域や倒壊の恐れのある建物が密集する地域での任務も多かった。そういった任務こそ彼女の出番とばかりにアサインされたのである。彼女が呪霊に近づいたことで動ける時間帯が増え、損傷した体を自力で治せるようになったのもアサイン数増加の大きな要員だった。
だがキョンシーも、他の呪術師と同様に、呪力を消費する。肉体操作に加えて反転術式を回し続けたことで、以前とは比べものにならないくらい呪力を消費するようになった。彼女は残り少ない呪力を反転術式に回して肉体の制御をさらに緩めた。代替要員もおらず、香を焚いて肉体制御の力を補う時間的余裕もない中で下した決断だった。けれどこの決断が事態を思わぬ方向へ動かした。肉体の制御を緩めたことにより、キョンシーとしての欲望が彼女の精神を侵食し始めた。
最初に感じたのは猛烈な喉の渇きだった。水を口にしても収まらず、ひどくなるばかりだった。しばらくすると、よく熟れた果実のような甘い香りが漂っていることに気付いた。その「果汁」を啜れば喉の渇きが癒やされると彼女は本能で理解した。本能の赴くままに香りを辿ると、〝窓〟と補助監督が立っていた。窓の指には絆創膏が巻かれている。その中心部分はくすんだ赤色をしていた。
「馬鹿。自分の力を過信しすぎ」
彼女はすぐ近くに潜んでいた呪霊を引きちぎりながら独り言ちる。呪霊の体内に残っていた「果汁」の香りが脳を揺さぶった。本能に精神が侵食され始めてることに気付いた段階で任務の件数をへらしておけば、ここまで酷いことにはならなかっただろう。
過ぎたことを悔やんでも仕方がない。ここまで状況が悪化した今、彼女がすべきなのは目の前の呪霊を祓い、補助監督に状況を説明して救援要請を出してもらうこと。それだけだった。
―なんか変。
彼女は動きを止め、今回の任務で祓った呪霊の数を改めて数えてみる。正確な等級は分からないが二級程度が三体、三級が八体、四級以下が十六体。任務前に目を通した資料ではせいぜい二級が一体と四級以下が四体程度だったはずだ。呪霊の数が増えること自体はさほど珍しくはない。四級以下の呪霊の数は任務の等級判断にほとんど影響を与えないため、正確に調査するわけではなかった。それに昔のように手紙や電報で連絡をして、鈍行列車で移動するしかなかった時代と違って、窓や補助監督からの報告はリアルタイムで高専事務局に共有される。この技術革新は任務の等級判断をより正確にすることを可能にした。灰原が殉職した案件のような等級判断のミスによる重大事故をゼロにはできていないものの、昭和の時代と比べると大幅に件数が減っているのも事実である。
「呪霊が急激に成長した?」
アサインのために補助監督が実地調査に訪れたのは三日前。たった三日で二級が二体も自然発生するとは思えない。呪物の影響で呪霊が集まってきたことも考えられるが、高専のデータベースではこの地域に未回収の呪物はないことになっているし、実地調査でも発見されていない。既に呪霊が取り込んでしまったということも考えられるが、その割には突出して強い呪霊がいるわけでもない。
「これからさらに強いのが出てくる可能性あり、か」
彼女は呪霊に背を向けて走り出した。良くないイレギュラーが起きている。今の彼女ではそれに対応するのは難しかった。戦略的撤退をした上で体勢を立て直す必要がある。彼女は補助監督の待つ場所を目指してひたすらに走った。
けれど彼女の計画はすぐに失敗することとなる。想定外の場所に帳の端があったのだ。近くに補助監督の姿はなく、甘ったるい「果汁」の香りが漂っている。彼女の目の前にある帳は任務前に補助監督が下したものではなく、第三者―呪詛師が下した帳だろう。呪詛師の襲撃は想定し得る最悪のパターンだ。高専に連絡させないために補助監督は襲われたのだろう。そして補助監督が下した帳の手前に帳が下りているということは、呪詛師は最初からここに居たことになる。最初に彼女を閉じ込める帳を下してから、補助監督を襲った。つまり呪詛師は最低でも二人は居る。
彼女はすぐに自分の手を切り離して地面に放った。彼女に残された呪力量はそれほど多くはないが、手だけであれば十分に動かせる。業務用携帯を持たせた手を隠して呪詛師をやり過ごし、帳の上がったタイミングでメールを送ればあるいは……
「調子悪そうだね。大丈夫かい?」
聞き覚えのある声と、先ほどよりも濃くて強い「果汁」の香りが彼女の背後から降ってきた。想定し得る最悪のパターンの中でもひときわ絶望的な状況に彼女の肌が粟立つ。
―まずい。
手をできるだけ遠くに逃がさないと。脳味噌を直接揺さぶられるような香りに抗いながら、彼女は手を走らせる。香りで酩酊状態になってしまったからか、手は思ったように動かない。むしろこちらに向かって戻ってくる。
声の主は彼女の腕を掴んでその場に立たせた。掴んだ腕の手首から先が無いのを見て、声の主は大袈裟に溜息を吐いてみせる。
「もう呪力がすっからかんなのに手を切り離しちゃ駄目じゃないか」
「夏油くん……」
「それで、君の手は今どこにいるんだい? 私が拾ってきてあげるよ」
夏油は穏やかな笑みを浮かべていた。ついこの前まで土気色の顔をして虚空を見つめていたのに、今の彼は憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしていた。
「手は、大丈夫。そんなに遠くには行かせてないから」
「そうみたいだね」
夏油は彼女の肩の後ろへ視線をやる。つられて彼女も後ろを振り向くと、芋虫に似た呪霊が地面を這っていた。芋虫呪霊は夏油の足元まで来ると、何とも形容し難い音を立てて彼女の手を吐き出した。夏油はポケットからウエットティッシュを取り出して吐き出された手を丁寧に拭って彼女に返す。
「悪いけど携帯は預かっておくよ。外と連絡取られたら困るからね」
「帳を下してるんだから電波は届かないでしょ」
「それもそうか」
夏油は芋虫呪霊に携帯も吐き出させ、手と同じようにウエットティッシュで拭いてから彼女に返した。
「それで、夏油くんはどうしてここに来たの? お喋りしに来たわけじゃないでしょう?」
「うーん。お喋りといえばお喋りかな。君にお礼を言いたかったのと、スカウトしに来た」
「スカウト?」
「あれ、もしかして高専に戻ってないのかい?」
「夏油くんが帰ってこないって事務局が騒いでるのは聞いた」
夏油の口が歪な三日月を描いた。
「非術師のいない世界を作りたいんだ。だから高専を辞めた」
ぶわり。
生温い風が「果汁」の香りを運び、彼女の理性をじわじわと削り取る。
「辞めさせられたんじゃなくて? 呪術規定違反でしょ」
「思ったよりも冷静だね。悟でさえ取り乱してたのに」
「全く驚かなかったわけじゃないけど、こう見えても皆より術師歴は長いから。最初と違う位置に帳が下りてるし、外からは血の臭いがする。それにほんの少しだけど夏油くんから外で臭ってるのと同じ血の臭いがする。この状況で夏油くんがシロだと考える方が難しいよ」
「へえ。血の臭いも嗅ぎ分けられるのか。すごいな」
夏油の不躾な視線に、彼女は呪符の下で眉を顰める。
「そういう目で見るの、やめてくれる?」
「ごめんごめん。嫌な気持ちにさせる気はなかったんだ。今の君が一緒にいてくれたら心強いと思っただけだよ」
いつもと様子の違う夏油に、彼女は僅かな可能性を見出した。今の彼女では夏油には勝てない。けれど夏油に勝つことではなく、高専に今の状況を伝えることを目標に設定したとしたら? 夏油の精神状態も普通ではないし、可能性は低くてもゼロではないはずだ。
キョンシーの爪や牙には毒がある。キョンシーに襲われた人間がキョンシーになってしまうのは、その毒が原因だった。彼女の術式対象はあくまでも死体だ。けれどキョンシーにすることができれば、理論上は彼女の術式対象となり得る。試したことはないが、それに賭けてみる価値はある。彼女はそう考えた。
「それで、私をスカウトして何をさせるつもり?」
時間を稼ぐために彼女は夏油との会話を続ける。
「最後の任務で呪術師の女の子を保護したんだ」
夏油が任務で赴いた村は良くも悪くも古い価値観が残る小さな村だった。そこで彼は座敷牢に折檻されている双子を見つけた。村人曰く、彼女らは化け物でその力で村を襲ったから閉じ込めていた。二人は村を襲ったモノとは無関係だと説明したけれど、聞く耳を持たなかったらしい。
「その女の子たちはどうしてるの?」
「もちろん私が引き取ったさ。あんな幼い子どもを非術師の猿のところへ置いておくわけにはいかないだろう。だから君には彼女たちの世話を頼みたいんだ。同性の方が何かと相談しやすいだろうし、私には言いづらい体の変化もあるだろうから」
「二人を折檻してた人たちは……」
「はっきり言葉にした方がいいかい?」
呪符の下で彼女は首を横に振った。呪符があって良かったと感じる数少ない状況だった。
「九十九さんって知ってる? あの人に『呪いのない世界を作るには非術師を皆殺しにするのが一番簡単だ』って言われたんだ。馬鹿馬鹿しいと思ったけど、あの村に行って虐待されてる美々子と菜々子の姿を見て、あの人の言ったことは正しいと実感したよ。彼らは人に害を為す猿なんだ。害獣がいたら駆除するだろう? それと同じだよ」
「害獣、ね」
「呪いをまき散らしておきながら、自分で処理することもできない愚かな連中だ。呪術師歴が長いなら君だって思うところはあるんじゃないのかい」
夏油の探るような瞳に、彼女は思わず目を逸らす。
彼女の記憶の中の非術師たちは、恐怖と嫌悪に歪んだ醜い顔をしていた。石を投げられる程度ならまだ良い方で、猟犬をけしかけられたり銃で撃たれたりしたこともある。車裂きにされそうになったこともあったし、彼女を殺した非術師はかつて彼女が助けた男だった。
「そうだね。恨みがないわけじゃない。夏油くんの言いたいことも分かるよ」
分かる、という言葉に夏油の表情がぱっと明るくなった。
「分かってくれるなんて嬉しいなぁ」
夏油は感激した様子で彼女の手を取った。彼女を全く警戒していないのだろう。無防備に自分の首を彼女の眼前に晒していた。
「実を言うと、私が行動を起こせたのは君のお陰でもあるんだ」
「私のお陰?」
「談話室で、君は皆のために呪霊になったと言ったよね。君に関する良くない噂話を知っているにも関わらず、同胞のために人間の肉体を手放すなんてそう簡単にできることじゃない。頭の中の理想を現実にするためにはそれだけの覚悟が必要なんだと思い知らされたんだ」
興奮した様子で話し続ける夏油。その首には薄っすらと血管が浮き出ていた。
―おいしそう。
どんな味がするのだろう。甘いのか、苦いのか。それとも良い酒のような豊かな味わいがするのか。
「それに『大事なのは行動に移すこと』だなんて偉そうに説教しておきながら、自分はうじうじと思い悩んでいるのも恥ずかしいような気がしてね。だから思い切って高専と決別することにしたんだ」
夏油に腕を引かれて、肩に腕を回される。そのことで彼女の意識はこちらの世界へと戻ってきた。
呪力よりも肉体の欲望の方が先に限界を迎えそうだった。彼女の体の中に棲む怪物が早く「果汁」を啜らせろと暴れ回る。
「君にとっても悪い話じゃないと思うんだ。呪霊になった代わりにキョンシーとしての『欲望』を満たす必要があるんだよね。私と一緒ならこそこそ『食事』をする必要もない。もちろん、自由に外出しても構わない。君の行動に制限は設けないよ」
彼の紡ぐ言葉に酔ったかのような表情を作って夏油を見つめる。肩に置かれた夏油の手に力が入った。彼女はその手の上にそっと自分の手を重ねた。
「本当に……自由にしていいの?」
「約束する。だから私と一緒に来てくれないかな」
空を切り裂く音がした。
夏油の喉元には彼女の鋭い爪が突き付けられていた。彼の喉まであと二センチ。夏油に手首を掴まれ、彼女はその二センチを縮められずにいる。
「交渉決裂かな?」
「うん。夏油くんの提案は魅力的に聞こえたけどね」
掴まれた手を回転させ、彼女は夏油の拘束から抜け出して鳩尾に向かって掌底を打ち込んだ。軽くよろめいた夏油に続けて蹴りを入れる。夏油は彼女の足を掴み、軸足を払って地面に転がした。そして彼女が起き上がるよりも先に馬乗りになって動きを封じた。
「魅力的だと思うなら乗っかればいいのに」
「死体処理をさせたいだけじゃない」
「でも君には人間の血が必要なんだろう。高専にいようと、私のところにいようとそれは変わらない。だったらより条件の良い場所の方が幸せになれると思わないかい?」
「どんなに条件が良くても夏油くんとは一緒に行けない」
本体から離れていた彼女の手が夏油の死角から飛んできて、砂で目潰しをする。切り離した手で夏油の頬に、残った手で夏油の腕に傷をつけようとした。それも夏油の呪霊が壁となり阻まれてしまう。
「どうしても嫌か」
「どんなに辛くても私は人でありたい。キョンシーが人を襲ったらそれはもうただの怪物だよ。それに……」
彼女は夏油の目を見る。
「キョンシーは、旅先や戦場で亡くなった人を故郷に連れて帰ってきちんと埋葬するために生まれたの。夏油くんのやりたいことはその理念にそぐわない」
「なるほどね」
夏油は彼女の拘束を解き、帳を上げた。そして徐ろに携帯を取り出してメールを打つ。
「夏油くん?」
「今、硝子にメール打ってる。その手は硝子に治してもらった方がいい。あと外の補助監督も。死なない程度に攻撃を抑えたつもりだけど到着が遅れたら危ないかもしれない」
「いいの? 私を取り込まなくて」
「取り込んだ呪霊は私と主従関係になってしまうんだ。君とは友達でいたいんだよ」
夏油の後ろからまたあの芋虫呪霊が現れ、おえっとペットボトルを吐き出した。吐き出されたペットボトルにはくすんだ赤色の液体が入っている。夏油は彼女を助け起こすと、そのペットボトルを持たせた。
「なにこれ」
「鹿の血。人の方が良かった?」
「ううん。高専に戻るまでだったら鹿でも大丈夫だけど……」
彼女は困ったように夏油の顔とペットボトルを交互に見る。
「これを受け取ったからって無理やり連れていくことは無いから安心して」
「ううん。そうじゃなくて、呪霊の唾液がついてるペットボトルを渡して飲めって何かの罰ゲームかなって」
「……じゃあ、これ使って」
「ありがとう」
夏油から手渡されたウエットティッシュで彼女は念入りにペットボトルを拭った。胴とキャップだけでなく、キャップを外した飲み口の部分も念入りに拭う。そして彼女は一口、紅い液体を口にした。
また一口、もう一口。
彼女は黙ったまま飲み続け、あっという間にペットボトルは空になった。
「ごちそうさまでした。おいしゅうございました」
「あ、美味しいんだ」
「なんか臭みがなかった。畑から人間用の作物をくすねてた鹿だったのかもしれない」
「そうなんだ」
「本当に山の中にある草だけを食べてる個体だと、もう少し青臭い感じがするんだよね。よく言えばさっぱりしてるんだけど。猪なんかは―」
「レビューはその辺で。こんなことで足止めされて高専の連中に捕まったら笑えない」
ばれたか、と彼女は悪戯っぽく笑った。
「ありがとう。最後に組手ができて楽しかった。君との格闘訓練、結構好きだったんだよ」
「私も。今度は絶対に負けないから」
それは楽しみだ、と夏油は笑う。出会ったばかりの頃のような暗い影を感じさせない笑顔だった。
「悟と仲良くね」
「うん」
「末永くお幸せに」
「止めてよ恥ずかしい」
夏油は彼女に背を向けて、右手をひらひらさせながら夜の闇へと消えていった。
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