瓶を覗く

 風呂から上がると、彼女が真剣な顔をしてソファに座っていた。
「爪、塗り直してんの?」
「うん」
 彼女は僕には見向きもしないでマニキュアを塗っている。いつもだったら無理やりこっち向かせるんだけど、ネイルをしている時は絶対に我慢。前にうっかりネイルの小瓶を倒しちゃって、買ったばかりのマニキュアを半分以上絨毯に吸わせたことがある。その時の彼女、泣いちゃうくらい怖かったね。

 僕は彼女の邪魔にならないように隣に座った。それにしても器用だ。さっきまで桜色だった爪がみるみる臙脂色に染まっていく。
「よし、できた……」
 彼女は最後にトップコートを塗って満足気に呟いた。僕は彼女の代わりにカラフルな小瓶たちをネイルケースにしまう。
 ケースにはたくさんの小瓶が収まっていた。きちんと色相別、彩度別、明度別に並べられてて、ラベリングもされてる。生真面目通り越してちょっと変態っぽい。
 僕がソファに戻ると、彼女は手をぱたぱたさせながら、ありがとうって笑ってくれた。
「今回はマーブルなんだ」
「うん。ワインレッドとグレー。試してみたかったんだ」

「ねぇ、水色にはしないの?」
 彼女は絶対に水色のネイルはしない。どうしても理解できないんだよなぁ。だって僕の眼の色だよ? いつも綺麗だって言ってくれるのになんでその綺麗な色にしないワケ?
「指が浅黒く見えちゃうから」
「そんなことないでしょ」
「そんなことある」
「いいじゃん。一回くらいやってよ。僕色に染めたい」
「きっしょ」
「ひどい!」
 普通彼氏に向かって「きっしょ」とか言う? ひどくない? すごく傷ついた。

「真面目な話、ネイルが完璧じゃないと仕事が上手くいかないから嫌」
 彼女は任務の前に必ずネイルを綺麗に整える。どんなに忙しくても、どんなに疲れていても。それが彼女の「戦化粧」だから。
 彼女は験を担ぐタイプで、爪を整えないと気持ちが落ち着かなくて任務が上手くいかないらしい。実際、爪を整える余裕がなかった日に任務で失敗をして生死の境を彷徨ったことがあるというのだから、単なる強迫観念とも言い難い。たぶん「戦化粧」が呪術的な縛りとして機能してるんだと思う。
「でもさ、爪に僕の色を塗っておけば僕と一緒にいるみたいで安心しない?」
 ネイルがまだ乾いてないらしく、いつもみたいに恋人繋ぎはさせてもらえないから彼女の腰に手を回して後ろから抱きしめた。
 きっと僕は今すごく悪い顔をしている。
 だって彼女の縛りに僕の痕跡を刻もうとしてるんだから。
「遠く離れていても同じ月を見上げてる的な感じで爪を見て僕を思い出してほしいんだよね」
「私そこまでロマンチストじゃないし。ってか同じ月って何? どういうこと?」
「古典の授業、ずっと寝てたでしょ」
「起きてたよ。目を閉じて先生の話聞いてただけで」
「僕の生徒がそんな言い訳したらビンタだなー」
「五条先生こわーい」
 彼女がふざけて身を捩るから、逃げられないようもっと強く抱きしめる。
「無理強いはしないよ。お前の気分がアガるのが一番大事だから。でもちょっと考えてみて」
 今日のところはこれでいい。あとは芽が出るのを待つだけだ。

 ◇ ◇ ◇

「ねぇ、見てこれ。新しく買ったの」
 ある日、彼女が嬉しそうに真新しいマニキュアの瓶を見せてきた。小さなガラス瓶の中身は南国の海みたいな緑がかった青。
「これ、僕の色?」
「この前いろいろ言われたら、なんだか気になっちゃって」
「ああもう! こんな可愛いことしてくれちゃってマジで嬉しい」
 まさかこんなに早く芽が出るなんて。口元が緩んじゃって元に戻らないや。
「せっかくだから僕が塗ってもいい?」
「いいよ。途中までは私がやるね」
 彼女は除光液を浸したコットンを指に乗せて優しく臙脂色を拭き取る。オイルで保湿して、表面の余分な油を拭き取って、ベースコートを塗ったらいよいよ色付けだ。
「じゃ、ここからよろしく」
「任せて」
 彼女がいつもしているように、刷毛を瓶の口で少し扱いてから爪に塗る。はみ出さないように慎重に、でもムラにならないように素早く。思ってたよりも難しい。

「ここのブランド、色の名前が全部和風なの」
 少し暇になってきたのか、彼女が話し出す。
「これは瓶覗っていうんだけど面白い名前だよね」
「瓶覗?」
「藍染めで布を一回だけ瓶に浸した色のことで、布が瓶の中をちょっと覗いただけだから瓶覗」
「へぇ。洒落てるね」
 今の僕にピッタリだ。時間をかけて、彼女の縛りを僕の色で染め上げる。まさに職人だね。藍染め職人。
「よし、できた」
「ありがとう! 思ってたよりずっといいかも。ラメ重ねたら海っぽくなりそうじゃない?」
 しばらく楽しめそう、ととびきりの笑顔ではしゃぐ彼女。僕も嬉しいよ、その色を気に入ってくれて。
 これから何度も僕の色で染めて、嫌でも僕を忘れさせないようにするんだ。時間をかけてゆっくりと深い藍色に染めてやる。
 彼女のネイルボックスの中はカラフルじゃなくていい。この色だけあれば十分だ。

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