私の理想の“お友だち”

「今日は本当に良い天気だ」
「……は? どっからどう見ても曇ってるけど」
 彼女は片手でノートパソコンを持ち、私の取り込んだ呪霊の登録をしながら、こちらを睨みつける。
「そうかい? 暑くもなく寒くもない。じめじめしてるわけでもない。快晴の日よりもずっと過ごしやすくて良い天気じゃないか。あ、術式のところ、ちょっとニュアンスが違うかな。閉じ込めるというよりは膜を張って動きを封じる感じ」
「じゃあ自分で呪霊登録してくれないかなぁ!?」
 ダン、と力強くキーを叩き、彼女は術式に関する記述を削除した。
 今日の彼女はいつになく不機嫌だ。まぁ、当然か。本当なら彼女は今日一日オフだったのに、私の任務予定が変わったせいで出勤せざるを得なくなったのだから。
「君が登録したほうが早いし正確じゃないか。こういうのは得意な人間がやった方が効率的だろう? それにほら、私はこのあと人と会う約束をしているから」
 そう。どんなに彼女に悪態をつかれようと、睨まれようと、空が曇っていようと全く気にならない。
 だってこの後は憧れの女性とのオフ会なんだから。
 
「夏油、これでいい?」
 彼女は般若のような顔をしてパソコンの画面を私に向けた。なにもそんな顔しなくても。いくら同期だからって感情を顔に出し過ぎだ。
「うん。それで問題ないよ。いつも済まないね」
 でも言いたいことをぐっと飲み込んで彼女を労う。感情に流されずにあくまでもクールに。相手がどうであれ、自分はしっかりと義理を果たす。それが憧れのあの人の考える「デキる仕事人」だから。
「そ。ならもう移動するから。さっさと車に乗って」
 彼女は私に一瞥もくれずに校用車の後部座席のドアを開ける。大人しく車に乗り込むと、乱暴にドアを閉められた。そっと溜息をつき、スマホのメッセージアプリを確認する。美味しそうなフレンチトーストのアイコン。それがこの後会う予定のあの人――「夢子さん」のアイコンだった。
 
 「夢子さん」のことを知ったのはちょうど一年前。「限界社畜夢子」という名前でSNSに日々の仕事の愚痴を呟いている。面白い投稿をしている人がいると菜々子に教えてもらったのがきっかけだ。最初はそれほど興味はなかった。菜々子の手前、彼女をフォローしたけれど、非術師の限界労働自慢ほど聞いていて不愉快なものはない。
 でも彼女は少し違った。呪術師ほどではないが、なかなかの激務にもかかわらず、彼女の投稿にはどこか哀愁漂うおかしみというか、ユーモアのようなものがあった。ある時、共感のコメントを送ってみたら「夢子さん」はノリノリで返信をくれて、そこからラリーが続いた。それが嬉しくて何度かコメントを送るようになり、DMで雑談をするような仲になった。すぐに返事がこなくてもお互いに何も言わない。何事もなかったかのように会話を続ける。その適度な距離感も居心地が良かった。
 気付けば、顔も見たことないのに、私はすっかり「夢子さん」が好きになっていた。好きになったら実際に会いたくなるもの。慎重にタイミングを見計らい、怖がられないようにあくまでも軽い調子でオフ会に誘ってみた。「夢子さん」は快く承諾してくれた。可愛らしい絵文字付きの返事が来たときは思わずガッツポーズをしてしまった。メモアプリに何度も下書きして推敲を重ねた甲斐があったというものだ。
「夏油」
 不機嫌そうに私を呼ぶ声で現実へ引き戻される。顔を上げると、バックミラーに彼女の険しい目元が映っていた。
「行先、待ち合わせ場所の近くでいいの? この時間は都心方面の道が混むから時間かかるけど」
 時計を確認すると、待ち合わせ時間まではかなり余裕がある。仮に渋滞に巻き込まれたとしても間に合うだろうが……
「いや、念のため電車で移動することにするよ。余計なことで気持ちを乱したくない。駅まで送ってくれるかい?」
「分かった」
 彼女は大きく息を吐いて、車のエンジンをかけた。
 
 移動中、私たちの間に会話はなかった。別に珍しいことじゃない。昔からずっとこうだった。
 バックミラーに映る彼女の表情は険しいままだ。長い髪をバレエダンサーみたいにぴっちりとしたお団子に結い上げているから余計にきつく見える。時折、電車の車掌のように「右よし、左よし」と小声で指差し確認していた。きっとイライラしているんだろう。運転中はイライラに飲まれないよう、あえて声に出して指差し確認していると人づてに聞いたことがある。
 ――もったいないな。
 心の中で呟く。
 彼女は昔から――それこそ学生時代から私のことを嫌っていた。それ自体は別にいい。誰にだってそりの合わない人はいる。問題は態度が良くないことだ。彼女は優秀な補助監督だ。文句を言いながらも誰よりもこちらの意図を汲んで呪霊登録をしてくれるし、運転だって丁寧だ。判断に必要そうな情報があれば聞かれなくても先回りして教えてくれる。だからこそ、態度の悪さが目立つ。それがもったいない。
「ねぇ、君って休みの日は何をしてるんだい?」
「は?」
「今日は随分と当たりがキツいから気になったんだ。高専時代に私もいろいろあったから分かるけど、思い詰めるのは良くないよ」
「そりゃどうも」
 彼女の眉間に、深い皺が刻まれる。
「どっかの誰かさんが、補助監督が怪我したどさくさに紛れて任務予定を変えなければ、私も今ごろ休日を満喫できたんだけどね」
 ……藪蛇だったか。
「困ったことがあるなら早めに人に相談した方がいい。職場とは違うコミュニティに所属するのも視野を広げてくれるからおすすめだよ。あとはSNSで友達を作るとか。同じ悩みを持ってる人と繋がると気分が少しは軽くなるよ」
「え、なに。夏油ってSNSやるの?」
 彼女はぎょっとしたようにこちらを振り向き、慌てて視線を正面に戻した。
「そんなに意外かい? 私だってSNSくらいやるさ。菜々子に面白いアカウントを教えてもらってね。『限界社畜夢子』って知ってるかい?」
 車体が大きく揺れて、停止した。ああ、と彼女は宙を仰いで車をバックさせる。
「大丈夫かい?」
「うっかり停止線越えた」
「珍しいな。本当に疲れてるんじゃないのかい?」
「大丈夫だから」
 彼女はもう一度、大きく息を吐いた。本当に大丈夫なんだろうか。
「で、限界社畜がなんだっけ?」
「ああ、そうそう。あの人の投稿を読んで、非術師への認識を改めたんだ。一部の非術師も大変な思いをして働いている。ま、その多くは猿であることには変わりないが――」
「あー……夏油、悪いけどここで降りてくれる?」
 彼女は歩道側に車を寄せた。少し先の交差点の角に小さな駅舎が見える。目的地に到着したようだ。
「分かった」
 どうせなら駅前まで送ってくれればいいのに。
 頭に浮かんだ言葉を振り払う。
「ありがとう。助かったよ」
「……別に。これが私の仕事だから」
 彼女は、私の顔を見ずに、ごく小さな声で呟いた。てっきり噛みつかれるかと思っていたので少し拍子抜けする。さっきの事もあるし何となく気にはなるが、私に深入りされたくもないだろう。あとで硝子にそれとなく聞いてみるか。

 電車を乗り継いで数十分。待ち合わせ場所であるターミナル駅に着いた。思っていたよりも汗を掻いていたので、漫画喫茶でシャワーを浴びて小綺麗な服に着替える。髪の毛はハーフアップだけど、前に美々子に教えてもらったアレンジを加えてみた。SNSでは「IT系の企業で働いている雪彦」という設定にしている。だから長髪だろうが普通の会社員らしくない格好だろうが問題ない。だが男の長髪はきちんと手入れをして、それなりのアレンジをしないと不潔に見えてしまう。ラフなのと不潔なのとは大違いだ。
「ねぇ、あの人モデルさん?」
「えー、違うんじゃない? 美容師さんじゃないの? ヘアアレンジかっこいいもん」
 漫画喫茶を出て大通りを歩いていると、すれ違った若い女性二人組にそんなことを言われた。どうやらアレンジは成功だったらしい。いつもならあんな風にヒソヒソされると、自分をコンテンツにされたみたいで不愉快になるところだけど、今日はむしろ良い気分だった。悟がオフの日にサングラスをかけて出かける理由を少しだけ理解できた気がする。
 良い気分のまま、「夢子さん」への手土産を買いに待ち合わせ場所から少し離れた百貨店の地下へ向かった。私は「夢子さん」のお菓子の食レポ記録を確認しながら、洋菓子をじっくりと品定めする。繊細な細工のケーキや艶のあるチョコレート、涼し気なゼリーが澄まし顔で並んでいる。奇をてらわず定番で攻めるか、それとも季節限定商品にするか。悩ましいところだ。
 
 ふと、ある店の焼き菓子セットが目に留まる。個包装のマドレーヌとフィナンシェ、それにバウムクーヘンのギフトセットだ。箱も淡い色合いの上品で可愛らしい雰囲気だ。見た目も良いし、値段も予算の範囲内。悪くないチョイスだ。これにしよう。
 店員に簡単なラッピングを頼み、会計を済ませる。私以外にもラッピングを頼んだ人がいるらしく、少し待つように言われた。
「こことかどう?」 
「ごめん。私、ここのお店ちょっと苦手なんだよね」
「そうなの?」
 ラッピング待ちをしている間に背後から聞こえてきた女性二人の会話が、楽しい気分に水を差す。店の前でそういうことを言うな。
「あ! ここのお菓子は好きなの。ただ、こっちの気持ちの問題というか……」
「え、どういうこと?」
「前に親から頼まれて知り合いのおばさんの息子と会ったって話したじゃん?」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたね。どうだった?」
「最悪だったわ……会話のキャッチボールができない人でさ。一応それなりに対応して親経由でお断りしたわけ。そしたら気に入られちゃったみたいで、次の週末、ここのケーキをもって自宅に突撃されたんだよね」
「なにそれ怖い」
 なにそれ怖い。思わず後ろの会話に聞き耳を立てる。
「もう本ッ当に怖かった。その人、縦にも横にも巨大な人だったし……」
「警察呼んだ?」
「呼んでない。親経由で相手の親御さんに苦情は入れた。そしたら即回収してくれた。でも引っ越ししないとかなぁ」
「そうだよね。家が割れてる状況で逆恨みされたらマジで事件になっちゃうもんね」
 二人はそのままどこかへ歩き去っていった。

 頭を殴られたような衝撃が走る。
 ……もしかして私、不審者になってる?
 悟や学長と一緒にいると感覚がおかしくなるけれど、日本人男性の平均と比べると私は背が高いし体格も良い。さほど親しくない女性にとってはそれだけで怖いだろう。「夢子さん」とは何度もDMでやり取りしているとはいえ、リアルで会うのは初めてだし単なるオフ会でしかない。それなのに気合を入れた手土産なんて渡したら怖がらせてしまうのではないだろうか。
 そういえば硝子たちも似たようなことを言っていなかったか? 同期の女子二人が任務中の怖かったエピソードを話してるときに、悟が「硝子はともかくオマエがなんで怖がるんだよ。格闘訓練で灰原ぶん投げてただろ」ってからかったせいで学校中を使った鬼ごっこに発展したじゃないか。その彼女ですら自分より体の大きな男性を怖がっていたのだから、「夢子さん」はなおさらだ。
「お待たせいたしました」
 店員が可愛らしい紙袋を差し出してきた。なんて間が悪いんだろう。
「ありがとうございます」
 私はなんとか笑顔を作って紙袋を受け取った。お菓子に罪はない。幸い日持ちはするし、いざとなったら自分で食べればいい。そう、「夢子さん」ともっと仲良くなった時のための下調べだ。そう自分に言い聞かせた。

 紙袋を片手にぼんやりとフロアを徘徊していると、ポケットの中でスマホが震えた。
「げ」
 ロック画面に表示されているデジタル時計は約束の時間を五分すぎていることを示している。そしてそのすぐ下には「夢子さん」からと思しきDMの通知アイコンが表示されていた。急いでDMを確認すると、やはり送信元は「夢子さん」だった。
『雪彦さん、今どちらですか?』
 やってしまった。
 完全にやらかした。こんなことなら手土産なんて買わなければよかった。とにかく今は返信をしなければ。すっかり冷たくなってしまった指先で液晶画面をタップする。
『すみません。仕事が押してしまったせいで遅れています。もし良ければどこかで時間を潰していてください』
 ぴろん、と再び通知がくる。「夢子さん」からだった。
『お仕事なら仕方ないですね。もし難しければリスケにしましょうか?』
『いえ、もうそちらに向かっていますので大丈夫です。お待たせしてしまって申し訳ない』
『わかりました。どこかお店に入ったら連絡しますね。ゆっくりで大丈夫ですよ』

「はぁあああああ」
 通りすがりのマダムが、奇声を発する私を大回りして避けていった。
 でもそんなのはどうでもいい。
 今、私にとって、大事なこと。それは「夢子さん」からもらったメッセージの文末についている絵文字だ。笑顔の絵文字と一緒にハートマークがついている。しかも黄色のハートマークだ。女性は気軽にハートマークを使うと聞いたことがあるし、きっと「夢子さん」も深い意味もなくその絵文字を使っているのだろう。でもどうしても期待してしまう。だって私のSNSのアイコンは黄色だから。馬鹿みたいだけど、こんなに胸が高鳴ったのは久し振りだった。中学生の頃に好きだった女の子からバレンタインのチョコを貰った時以来かもしれない。
 早く「夢子さん」に会いたい。はやる気持ちを抑えて、私は待ち合わせ場所の駅前広場に向かった。

 駅前広場は人でごった返していた。誰でも迷わずにたどり着けると思ったから待ち合わせ場所をここにしたけれど、失敗だったかもしれない。
 もう一度DMを確認する。「夢子さん」からは移動したという連絡は来ていない。まだ駅前広場にいるのだろう。服装はピンクのワンピースに、ベージュのカバン。髪型はハーフアップで金のバレッタを着けているらしい。駅前広場に着くまでに同じような服装の女性を三人は見かけた。見つけられるだろうか……
 スマホを片手にうろうろしていると、遠くにまた一人、同じ服装の女性を見つけた。ピンクのワンピースにベージュのカバン、ハーフアップにした髪には金のバレッタが輝いている。
「……冗談だろ」
 それは心の底からの呟きだった。
 その女性は、同期の彼女だった。彼女に気付かれないよう、そっと移動する。私の位置からは彼女の様子が分かるけど、彼女の位置からは私の姿が見えない位置を陣取った。
 休日出勤なら、任務が終わればそれで退勤できる。あの時間なら高専に車を返しに戻ったとしても十分時間はあるだろうし、出かける先としてここを選ぶのも不自然じゃない。いつもは機能性重視の服装をしている彼女だって、プライベートではおしゃれもするだろう。けれど、だからってこんな偶然がありうるのだろうか。

 私の疑問はすぐに解消された。彼女がスマホを操作した直後に、私宛に「夢子さん」からDMが届いたのだ。『そういえば、電車は何線ですか? 駅前広場が混んできたので、そちらの改札外に移動しようかと思っています!』
 認めざるを得ない。「夢子さん」の正体は彼女だ。とんでもない偶然が起きたのだ。道理で様子がおかしいわけだ。彼女からすれば、同期がそれと知らずに自分のアカウントを見ていたんだから。私だってどんな顔して彼女に会えばいいのか分からない。私はすぐにDMの文面を打った。もちろんキャンセルのDMだ。いつものように慎重にメモアプリに下書きをする。
『すみません。別件で部下からトラブル連絡が入ってしまいました……今日お会いするのは難しそうです。せっかくお時間を作ってくれたのに申し訳ありません』
 少し事務的に見えるかもしれないが、トラブル連絡が入った直後のDMならこんなものだろう。わずかな罪悪感も指先に乗せて、送信ボタンをタップした。

 彼女はすぐにDMに気が付いたようで、一瞬だけぱっと顔が華やいだ。
 ズギュン、と私の心に何かが刺さる。
 なぜだか彼女がものすごく輝いて見えた。さっきまでなんとも思っていなかったのに、全てが愛おしく思える。周囲を気にしてきゅっと真一文字に引き結んだ唇も、女性にしては骨ばった手も、全てがきらめいて見えた。そして私からのDMを読んで彼女の表情が少しずつ曇っていくのに合わせて、私の胸もジクジクと痛み出した。この一連の感覚が何を意味しているのかは明白だ。けれど認めたくはなかった。私はもっと女性らしい人が好きだ。いや、確かに今の彼女はとても女性らしいし可愛い。でも彼女はイライラして車のドアを乱暴に閉めるような人間だ。いくら仕事ができても、外面をつくろっても、本質は変わらない。
 そう思うのに、肩を落としてとぼとぼと待ち合わせ場所を離れていく彼女の後姿を見ていると、後悔と罪悪感に襲われる。今すぐ彼女の前に飛び出して行って、力いっぱい抱きしめて謝りたい気分だ。

 少しして、「夢子さん」からDMが届いた。
『了解しました! それにしても、なんてタイミング……こういうことって重なりますよね。お店を予約しないでおいて正解でした。お仕事、頑張ってください!』
「はぁああああああ」
 たまらずその場にしゃがみ込んだ私に驚いたのか、通りすがりの女子学生が文字通り飛び上がっていた。
 健気で可愛すぎる。あんなに落ち込んでいたのに、全くそれを感じさせないさらっとした文面。送り主が彼女であるという新たな事実が、良いスパイスになっている。あの仏頂面の仮面の下にこんな表情を隠していたなんて。
 不思議なもので、隠し事の存在に気付くと、その隠されたものに興味が湧く。彼女がこれまで私に隠してきたもの――彼女の本質を暴きたいという欲求が掻き立てられた。
 もう一度メモアプリを開いて、慎重に文面を考える。急いでトラブルの現場に向かっている途中に打つような文面を整えた。
『タクシーに乗りました。本当に申し訳ない……かなり先になってしまうかもしれませんが、リスケさせてもらえませんか? 今日の埋め合わせがしたいです』
 誤字脱字をチェックして、編集画面にコピーしたテキストを貼り付ける。そして送信ボタンをタップした。

 さて、これから家に帰って作戦を練らなければ。やるべきことは山積みだ。

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