『七海、ちょっとお願いがあるんだけど、私の部屋に来てくれる?』
『……分かりました。すぐ伺います』
七海は彼女からの電話を切り、時計を見た。約束の時間までは少し余裕がある。七海はルームキーをポケットに捩じ込み、自分の部屋を出た。
その日、二人は某ホテルに宿泊していた。ホテル主催のガラパーティーに参加するためだ。目玉企画のチャリティーオークションに呪具が出品されるという情報が入ったため、七海は彼女と共に参加者として潜入することになったのである。
ただし今回の任務の目的は呪具の回収ではなく、落札するであろう男との接触だった。美術的価値があると判断された呪具はオークションに出品されることがある。ここ半年、何故か等級の低い呪具ばかりを選んで蒐集する非術師がいるとの情報が入ったのだ。その男は会社経営者だったため、当初は税金対策だと思われていたものの、呪具ばかりを確実に競り落とす。等級が低いとはいえ呪具は呪具。呪詛師と繋がっている可能性も否定できない。男がどのような目的で呪具を蒐集しているのかを見極めるのが今回の任務の狙いだった。
七海は彼女の部屋を小さくノックする。彼女はすぐにドアを開けて、七海を招き入れた。
彼女のドレス姿は随分と刺激的だった。鳩尾が見えるくらい大胆に開いた胸元に、脚の付け根まであるスリット。コテで綺麗にアレンジされた明るい茶色のウィッグを被っているので、まるで別人のようである。七海はそんな彼女の姿を見て思わず顔を顰めた。
「変?」
「いえ、そんなことは……それで、お願いというのは?」
「うん。背中にね、ファンデーション塗ってほしくて」
自分じゃ届かないから、と言って彼女は髪をまとめて背中を見せた。
ちょうど背骨から肩甲骨にかけて、大きな赤黒い靄のような痣がある。靄の下には蝋燭のタトゥーが入っていて、痣がまるで揺蕩う煙のように見えるデザインだった。
「タトゥーも消しますか?」
「印象に残ると困るから消しちゃって」
彼女は七海にファンデーションのパレットとスポンジを手渡した。
彼女を椅子に座らせ、七海は膝立ちになって彼女の背中にファンデーションを塗った。彼女の指示通り、スポンジで置くようにして黄色を肌に乗せると少しずつ煙が薄くなっていく。
「七海、機嫌悪いね」
「そう、見えますか」
「顔が怖い。堅気の人じゃないみたい」
「呪術師の仕事が堅気と呼べるかどうかは議論の余地がありますが、機嫌が良くないのは認めます」
「どうして?」
七海の手が止まった。彼女の肩に添えた手に力が入る。
「……私に、理由を言えと」
分かっているくせに、と七海は心の中で悪態を吐いた。同期の彼女は昔からそういうことをするのだ。七海が隠しておきたいことを、無理やり言葉にさせる。
七海は舌打ちをして、作業に戻った。
「囮を立てるような任務の進め方は好きじゃない」
彼女がやろうとしているのは所謂ハニートラップである。七海の役割は彼女の身に“万が一”が起きた時のスペアだった。
「危険性で言ったら祓除任務とそんなに変わらないよ」
「それでも心配は心配です」
「二級の私じゃ力不足ってこと?」
「そうじゃない」
万が一相手が既に呪詛師と通じていて、こちら側の接触に対してカウンターを仕掛けるつもりだとしたら。そうなれば待っているのは生き地獄だ。即死できれば御の字だろう。それに噂によると男はかなりの遊び人らしい。つい最近も有名女優との熱愛報道で世間を賑わせた。そんな相手にハニートラップを仕掛ければ何が起こるかは火を見るよりも明らかである。
彼女は高専を卒業してからずっと“こういう”任務を担当してきたスペシャリストだ。スペシャリストの彼女が、今回の方法が有効だと判断したのだし、万が一の事態が起こらないように七海がいる。七海だってそんなことは分かっていた。
それでも七海の心は落ち着かなかった。何故だか彼女がこのまま帰ってこないような気がしてならなかったのだ。
「……すみません。先ほどの言葉は言うべきではありませんでした」
七海は靄を消す作業に戻った。言葉を紡ぐ代わりに、七海は丁寧に色を置いて行った。
「こっちこそごめん。私もムキになっちゃった」
「いえ、当然の反応です。痣の部分は終わりましたが、タトゥーの部分もこの色で大丈夫ですか?」
「あ、そっちは右上のもう少し濃い色にして。塗り終わったら、粉をはたいて完成ね」
「分かりました」
七海は彼女の蝋燭と向き合った。
人づてにタトゥーが入っていることは聞いていたが、見るのは初めてである。思っていたよりもずっとシンプルなデザインだった。よく見ると燭台の下に文字が書かれている。中世ヨーロッパの写本のような書体だが読めなくはない。
「死神の呪文ですか」
「ん? なにが?」
「燭台の下に書かれている言葉です。アジャラカモクレン」
「そうなの。よく気付いたね。この噺、好きなんだ」
そういって彼女は嬉しそうに笑ったが、七海の胸には何とも言えぬ苦みが広がった。自分の好奇心を怨みながら、彼女の背中と向き合う。少しずつ短くなっていく燭台と蝋燭に集中しようとするが、頭の中で子どもの頃に一度だけ聞いた噺が邪魔をした。
「また随分と渋いところから取ってきましたね」
――これと、その消えかかっている蝋燭を繋いでみろ。上手く繋げれば助かるかもしれねえ。
「ピッタリでしょ? 死神を追い出す呪文だもん」
――早くしないと消えるよ。
「験担ぎにしてはオチが物騒です」
――震えると消えるよ。消えれば命がない。
「そこは、ね。戒めかな。術式を悪用すると大変なことになるぞって」
――早くしな。消えるよ。ほら、早くしな。
七海は余分な粉をブラシで払い、ドレスに挟んでいた汚れ避けの手拭を取り払った。
「消えました」
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