Mr.&Mrs.五条の馴れ初め話

「えー、一年生の三人には本当にお世話になりました。今日は私の奢りなんで、思う存分食べてください!」
「いよっしゃああああ!」
「伏黒、高い部位から順に注文しちゃって!」
 都内某所の焼き肉店に賑やかな声が響く。テーブルを囲むのは虎杖、伏黒、野薔薇、五条、それに梓紗の五人。集まったのはもちろん先日の結婚キャンセル計画のお礼のためだ。当初は五条家御用達の高級店に行く予定だったのだが、候補日はことごとく予約で満席。そこで梓紗イチオシの店に行くことになったのだった。

「あの、いいんですか?」
 伏黒がやや不安げな表情で訊ねる。
「なにが?」
「その……本当に思う存分食べて大丈夫なのかと思って」
「だいじょーぶ。最終的には五条が払うから」
「え、そうなの?」
 五条は少し驚いたように梓紗を見る。
「私が払っても五条が払っても家計的には変わんないじゃん」
「間違っちゃいないけど、それならそれで事前に言ってほしかったなぁ」
「あれ、言わなかったっけ?」
「聞いてないよぉー。なんで梓紗はいつも大事なこと言わないの?」
「めんごー。言った気になってた」
 ――夫婦って口調まで似てくるんだな。
 伏黒は軽薄夫婦のやり取りを聞きながら、網の上の肉をひっくり返し、焼きあがった肉や野菜を自分や同期の皿に取り分けた。五条が払うならいいや、と遠慮することを止めた伏黒の頭の中は、次はどの部位の肉を注文するかで一杯だった。彼は頭の切り替えが早いのである。

「そういえば、巽さんっていつまで先生のこと苗字で呼ぶんスか?」
 虎杖はタレをたっぷりからめたカルビを米の上に並べながら訊ねた。
「さすがに家では下の名前で呼んでるよ」
「そ。『さとるん』って甘えて――」
「しれっと嘘を吐くんじゃない」
「すいません」
 ぴしゃりと梓紗に窘められ、すぐに謝る五条。が、その表情はどこか嬉しそうである。なんとなく気まずくて、虎杖は手元の特製カルビ丼に視線を戻した。
「仕事してる間はけじめをつけたいのよ。一緒に働いてる人が、結婚したからって急にパートナーの呼び方変えたらなんか嫌じゃない? 家でやれ、ってなるじゃん」
 ――そういうもんなのか。
 虎杖は考える。確かにさっきデレデレになってる担任を直視できなかった。なるほど、そういうもんかもしれない。
「僕はもっと夫婦感出したーい。周りに見せつけたーい」
「はいはい。続きは署で聞きますからねー」
 明らかに適当にあしらわれているのに、やっぱり五条は嬉しそうだった。伏黒は隣の虎杖がぼそりと「やっぱりMなのかな」と呟いていたのを聞き逃さなかった。

「あ、そうだ。巽さんに一つ聞きたいことがあるんです」
「なになに? 野薔薇ちゃんの質問ならなんでも答えちゃうよ」
「これなんですけど……」
 野薔薇はスマホの画面を梓紗に見せた。
 そこに映っていたのは一枚の写真だった。先日の五条と梓紗の結婚披露宴で撮られたもので、二人がお色直しをして出てきた時の写真である。梓紗が着ているのはコーラルピンクのフラッパードレス。胸の部分に金のスパンコールでホタテ貝の刺繍があしらわれていた。頭には扇型の大きな羽根飾りのついたヘッドドレス、真珠のロングネックレスにドレスと同じ色のサテンのロンググローブというなんとも派手な格好である。
 それに対して五条はというと、ワインレッドとオレンジのストライプのジャケットにカンカン帽とステッキ、ミントグリーンの蝶ネクタイという格好だ。よく見ると、カンカン帽のリボンのところにカニがいる。二人とも服のどこかに海の生き物がいることを除けば、一九二〇年代アメリカの若いカップルのようだった。

「二人がこの格好で登場した時、会場の人たち皆笑ってたような気がするんですけど、何でですか?」
「ああ、ホタテ・クイーンね」
「ほ、ホタテ・クイーン……?」
「そ。僕らの馴れ初めにゆかりのある衣装なんだ」
 五条が嬉しそうに答えると、野薔薇と虎杖の眼の色が変わった。
「巽さんと先生の馴れ初め!? 聞きたい聞きたい!」
「二人とも同級生だったって聞いたけど、その時から付き合ってるんですか?」
「いや、付き合い始めたのって最近なんだよね。二年前くらいだっけ?」
「一年九ヶ月と六日前ね」
「こまかっ。よく覚えてんね」
「逆に梓紗は覚えてないの!? その事実がショックなんだけど! 僕らの記念日なのに!」
「めんごめんごー。で、話を戻すと、きっかけは一緒に任務に就いたことなのね」

◇ ◇ ◇

 その日、五条と梓紗は伊地知の呼び出しに応じて会議室に来ていた。もちろん任務の概要説明のためである。
 うきうきしている五条に対して、梓紗は露骨に嫌そうな顔をしていた。普通の任務であれば特級術師である五条一人で事足りる。にもかかわらず準一級の梓紗が共にアサインされたということは、一級相当の案件であり、なおかつ五条だけでは対処しきれないような面倒な任務――呪詛師の拘束や要人警護などが考えられる――である可能性が高いということ。多少嫌な顔をしてもバチは当たるまい。
「お忙しいところお時間いただきありがとうございます」
 伊地知は二人に資料とビニールポーチを手渡した。ポーチの中に入っていたのは業務用のスマートフォンと偽の身分証だった。
「今回の任務は、脱法ドラッグの売買に関与している呪詛師の拘束です」

 伊地知によると、事の発端は病院からの通報だったらしい。
 おおよそ半年前から複数の病院で似たような症状を訴える患者の受診が増えていた。その症状というのは典型的な薬物中毒によるもので、複数の患者から「知り合いから貰った“薬”を飲んだ」との証言が得られた。だが、おかしなことに検査をしても何一つ異常が見つからないのである。患者が持っていた“薬”を調べてみても、市販のラムネや粉砂糖と同じものだったそうだ。処方薬の誤飲やその他の疾患についても検査したが、それらの可能性もことごとく否定されてしまった。
 警察はその症状の強さから、未知の薬物の可能性を考慮して捜査を始める。調べを進めるうちに、患者たちはとある店に出入りしている売人から“薬”を購入していることが分かった。そして警察はついに売人たちを逮捕することに成功したのだが……

「売人たちは中毒症状でとても話せる状態ではなかったそうです。“窓”を兼任している警察官からの報告によると彼らの体、特に頭部に何らかの術式を使用した痕跡がべったりと残されていたとか」
 “窓”の警察官はその後、入院している患者に会いに行った。もちろん痕跡の有無を調べるためである。警察官の予想通り、患者全員の体に痕跡が残されていた。念のため押収した“薬”も確認したところ、薬瓶のラベルの部分が呪符になっていたらしい。
 おそらく呪詛師の術式は、相手に呪力を流し込むことによって脳に錯覚を起こさせる能力なのだろう。より効率よく販売するために、薬瓶に細工をしたというのがその警察官の見解だった。

「なるほど。それで僕らにお鉢が回ってきたわけだ」
「でもさ、それだったら五条だけでも良くない? 何で私も一緒なの?」
「それがその……売人が“薬”を卸していた店というのが問題なんです」
 そういって伊地知は持っていたラップトップの画面を二人に見せた。
 画面に表示されていたのは、ステージの上でほぼ下着のような衣装を身に着けたお姉さんたちがダンスを踊っている写真だった。どうやら海をテーマにしたダンスショーが売りの店らしいが、どう見ても“そういう”店だった。余談だが、その店の一番人気はホタテ・クイーンの“まゆちゃん”らしい。
「へぇ。『おさかな☆パラダイス』ねぇ……」
「伊地知、別に君がどんな趣味でも構わないけど、これは私に対するセクハラじゃない? こういうの、環境型セクハラって言うんだよ」
「ち、違います! ここが取引現場なんです!」
 警察によると、呪詛師はこの店の常連らしい。毎月十五日に開催されるイベントにはわざわざ予約をして、“知人”をたくさん連れてくるくらい熱烈な“ファン”なのだそうだ。オーナーとも親しく、バックヤードで会話しているのを見たという情報もある。
「来月のイベントにも予約を入れているようです。おそらく取引が行われますので、お二人にはこの店に潜入、呪詛師を拘束した上で“薬瓶”の処分をお願いいたします」

「質問! どういう設定で潜入すんの?」
 梓紗は学生だった頃のようにぴしっと手を挙げて質問した。潜入任務は彼女の得意分野。俄然やる気が出たようである。
「ちょうど降板になったダンサーが居ましたので、巽さんにはその代役として潜入できるよう手配してあります。当日の警備の状況や呪詛師の動きについて調べてください。二週間後から稽古が始まるようですので、ご準備をお願いします」
「ちなみに誰の代役?」
「今回降板になったのは、アンサンブルのカニ娘と主役のホタテ・クイーンです。どちらになるのかは初出勤日にオーディションで決めるそうです」
「マジで!? うわー、ホタテ・クイーンになっちゃうのかぁ。脚のお手入れしなくちゃ」
「もう合格する気でいんの? ウケんね。ホタテ・“クイーン”って感じじゃないじゃん。ミス・ほたて貝ならまだしも」
「はぁ? ミス・ほたて貝ってなんだよ。これでも小さい頃は“将来はモデルか大女優か”って言われてたんだから。任務で育てたこの引き締まったボディーと美脚で勝ち取ってやるし!」
「ま、せいぜい頑張ってー」
 ぷぷぷ、と小馬鹿にして笑っている五条と、鼻息を荒くしてキャンキャン喚いている梓紗。伊地知はこの時のことを振り返って、まるで小学生の喧嘩のようだったとコメントしている。

「それで僕は?」
「五条さんは客の立場から彼らの動きを探ってください」
「それ、本気で言ってんの?」
 突如として五条の機嫌が悪くなる。どこに彼の地雷があったのかが分からず、梓紗も伊地知もぽかんとしていた。
「いや、別に変なとこないでしょ。何に対して怒ってんの?」
「梓紗、僕と同じ任務に就く意味分かってる? 相手の本丸に潜入するんだよ?」
「私じゃ力不足って言いたいわけ?」
「実際、力不足じゃない? 僕がアサインされてるんだから本来なら一級連れて来いって話でしょ」
「潜入任務に関しては数こなしてるし結果もちゃんと出してる。だからこそアサインされたと思ってるんだけど」
「何かあってからじゃ遅い。そうやって過去の経験を過大評価する奴が真っ先に死ぬのを何人も見てきた」

「随分好き放題言ってくれるじゃん」
 ぴし、と嫌な音を立てて会議室の床にひびが入る。伊地知は静かに、しかし急いで部屋に備え付けられているヘルメットを頭に被ってドアを開けて避難経路を確保する。
「本当のこと言ったまでだけど?」
「潜入に関してはずぶの素人の五条が口出しできる場面じゃないの。同じ立場、同じタイミングで入ったら全滅するかもでしょ。何のための斥候よ」
「でも斥候が死んだら元も子もないだろ? 任務の成功も大事だけど、梓紗が心配だから言ってんの。せめて僕を情報収集役にしてほしいな」
「そうやって任務に私情を挟む奴が上手く潜入とは思えないけどね。五条みたいなプライド高男が接客できんの? 真っ先に正体バレて結局収穫ナシとか笑えないんだけど」
「……さすがの僕も頭にきた」
「おっと、やるか?」
「受けて立つよ」
 伊地知は二人を横目に素早く業務用スマホと自分のラップトップを掴み、部屋を出た。間一髪。先ほどまで伊地知が立っていた場所に向かって机とガラスの灰皿が飛んできた。

◇ ◇ ◇

 数週間後、五条は梓紗と共に例の店の控室で何を話すでもなく黙って座っていた。先ほどまで衣装を付けての稽古をしていたので二人とも汗をかいている。
 二人の喧嘩は僅か五分ほどで夜蛾学長によって鎮圧された。五条がごねて梓紗と喧嘩になることを予想して、素早く報告した伊地知のファインプレーである。ただ、状況が変わって単独での諜報活動では危険との判断があり、五条もイベントのゲスト出演者――マジシャンという設定だ――として店に通うことになった。
 そこまでは良かったのだが……

「そのカニ娘の衣装、強烈だね」
「そっちこそ。ロブスター男爵とかアク強すぎ」
 二人が全く想定していなかった事実。それは演出家のセンスが強烈だったことだ。
 まず梓紗の衣装について説明しよう。鮮やかな朱色のホルターネックのレオタードに、ミニ丈のチュチュが付いている。赤の網タイツにレオタードと同じ色の編み上げショートブーツだ。そしてカニの被り物。
 次に五条だが、真っ赤な燕尾服にピンクのベスト、黄色の蝶ネクタイ。胸には勲章のようなリボン飾りが所狭しと縫い付けられている。そしてティアドロップのサングラスに海老の被り物。胡散臭いことこの上ない。

 店の控室で二人は被り物も取らずに死んだ魚……いや、茹で上がった甲殻類のような虚ろな目で横並びに座っていた。
「ホタテ・クイーンはどうしたの」
「ダンスは悪くないけど、体がゴツいって言われた」
 梓紗の身長は一六八センチある。五条の隣に立っていると気付かないが、日本人女性としては長身の部類だ。任務で鍛え上げられた筋肉でアスリート体型だったこともあって、他の女の子と比べてかなり迫力がある。全年齢向けのテーマパークだったらセンターを取れただろう。しかし、ここは中年男性向けのテーマパーク。残念ながら筋肉女子は求められていなかった。

 五条は梓紗の体をまじまじと見つめる。
 日頃から本人の趣味で重たい銃を担いで呪霊と交戦しているせいか、スレンダーというよりは細マッチョという言葉が似合う雰囲気だった。衣装のせいで胸も“胸板”に見えてくる。
 一方で本人が自慢していただけあって、確かに梓紗は美脚だった。こんなトンチキ衣装じゃなければ拝みたいし踏んでもらいたいという男は多いだろう。ちなみに五条は後者だ。
 ――演出家も見る目ないな。
 梓紗の麗しのお御足の魅力に気づかないなんて。あ、でも逆に皆に気づかれちゃったら変な客に絡まれるかもしれない。ここ、“そういう店”だし。しかも“テイクアウト”可のお店だし。それは絶対に嫌だ。やっぱり演出家グッジョブだ。
「……何見てんだよ変態」
「カニ頭で凄まれても全然怖くないね」
「けっ。どうせ絶壁ですよ。ヌーブラ二枚重ねだよ」
 五条は頭の中のメモ帳に“梓紗は絶壁”と書き込んだ。

「それで、なんか進展あった?」
「風の噂でイベント前に“ロケハン”に来るとは聞いたけど、具体的な日付までは聞き出せなかった」
「だよねぇ」
 はぁ、と二人揃って溜息を吐く。そう簡単に情報を取れるわけではないことは二人とも理解はしている。とはいえ、欲しい情報は手に入らないのに、ダンスと舞台上の立ち居振る舞い、そして酔客のあしらいだけが上達していくのは虚しかった。
「じゃ、不本意だけど私この後キッチンに入ることになってるから」
「なら僕はちょっと遊んでこうかな。客の立場で見た方が分かることもあるだろうし」

「あっ! ゆきちゃん! すっかり忘れてた」
「ゆきちゃん?」
「“プロデューサー”のお気に入りの子がいるんだよ! その子が今日出勤してんの!」
 彼女はダンサーを兼任していないキャストだった。ショータイムでアピールできない分、丁寧な接客で人気を伸ばしていて、おじい様方に孫のように可愛がられている。例の呪詛師もイベントの時には必ず彼女を指名していたらしく、店を出るまでべったりと隣に座らせているのが常だそうだ。前回のイベントからずっと体調を崩していて店を休んでいたのだが、最近復帰したらしい。

「それ、絶対なんかされてるでしょ」
 虚脱状態だった五条が息を吹き返す。イベントの時に必ず彼女を指名していたのであれば、情報が漏れないように何らかの手を打っているはずだ。術式を使えば必ず痕跡が残される。それを辿るのは五条の十八番だ。
「指名するなら伝えとこうか?」
「頼む」
「あ、彼女めっちゃ可愛いから本気にならないようにねー」
「そうなの?」
「うん。可愛いし聞き上手だし頭良いし。そして何より、お胸がゴージャス」
「ゴージャス」
「大きいだけじゃなくて、形が綺麗なの。しかも色白」
「……僕、別に胸派じゃないよ」
「でもおっぱい好きでしょ?」
「そりゃあ、好きか嫌いかで言ったら好きだけど」
「なら絶対ゆきちゃん好きだよ」
 頑張れよ、と五条の肩を軽く叩くと梓紗は控室を出ていった。
 残された五条は叩かれた部分を手で押さえ、呆然と彼女を見送った。

◇ ◇ ◇

「へぇ。じゃあ、そのゴジョール=佐藤ってお父様が付けてくださったマジシャンネームなんですね」
「そうなんだよ。もうちょっとカッコイイ名前の方が良かったんだけど、僕の父親、ネーミングセンスがイマイチでさ」
 五条はオレンジジュース片手に、ゆきちゃんとのお喋りに興じていた。
 梓紗の言う通り、彼女は可愛くて頭が良くて聞き上手でお胸がゴージャスだった。こちらの話にとても興味を持って聞いてくれるけれども、触れてほしくない話題には決して深入りをしない。その一線を越えない姿勢に好感が持てた。だからこそ、呪詛師に目を付けられたんだろう。
 見たところ、彼女の体に呪詛師の痕跡は残っていない。呪詛師が他人の脳にどこまで干渉できるか分からない。が、漫画でよくあるような秘密を洩らしたら死ぬといったギミックなら確実にその痕跡が残されているはずだ。それが無いということは彼女もグルか、あるいは恐怖心を利用して口止めをされているかの二択だろう。

「あ、ゆきちゃんは今度のイベントも出勤?」
「その日、用事が入っちゃって出勤できないんですよー」
「そっかー残念だなぁ」
 私も残念です、とゆきちゃんは眉毛をハの字にしてしょんぼりしてみせる。あざといけれど可愛い。
「じゃあさ、ちょっとイベントについて教えてほしいんだけど、いい?」
「私にできることなら!」
「なんかいつもイベントの日に予約して団体で来るお客さんがいるらしいじゃん? その人、どんな人?」
 一瞬、彼女の表情が強張り、恐怖の色が浮かぶ。接客のプロだけあって、注視していなければ見落としていただろう。ビンゴだ。
「今回のイベント、僕のパートは観客参加型にしようと思ってんだよね。せっかくだから常連さんにはぜひ参加してもらいたいんだけど、失礼があったらいけないでしょ? だから事前にリサーチしておきたいんだ」
 そう言いながら五条はスマホの画面を机の下から彼女に見せた。
『詳しいことは話せないけど、警察と協力してソイツのこと追いかけてる。もし何かされてるなら安全は保障するし、もちろん謝礼も払うよ』
 彼女は驚いたように目を見開くと、彼女も自分のスマホを触り始めた。

「そうだったんですね。うーん……他のお客様のことをお話するわけにはいかないので……」
『あの人たち、ヤバいです。いつも何かの商談をして帰っていくんですけど、どう考えても犯罪っぽいことしてて。変なことはされませんでしたけど、出勤するのが怖くなっちゃって』
「ははっ。だよねぇ。ごめんごめん」
『イベント前には必ず打合せに来るって噂聞いたんだけど、今回はいつ来るか分かる?』
「すみません。その代わり、私もゴジョールさんのことは誰にもお話しませんので、安心してくださいね」
『いつもイベントの一週間から五日前くらいのどこかで来てました。今日か明日には来るかもしれません』
 彼女の手は明らかに震えていた。それはそうだろう。自分を指名してくる客が犯罪者だと知って、平気でいられるわけがない。
 彼女からこれ以上聞き出すのは難しいだろう。そう判断した五条は、スマホを胸ポケットにしまい込んだ。

「いろいろありがと」
「いえ……私は何も」
「もし何か困ったことがあったら、最近入ったデカい子に言って。彼女、僕の友達だから」
「今ステージで踊ってる人ですか?」
 そう言われてステージの方を見ると、なんとそこには梓紗がいた。
 今度は魚のヒレを模した被り物をして、ビスチェのような山吹色のレオタードを着ている。一応スカートらしき何かはついているが、体の前側に布は無い。腰の両脇からお尻にかけての部分にだけ孔雀の羽根みたいなギラギラのフリルがついていた。が、一番のツッコミどころは、貝殻型フレームの愉快なサングラスをかけているところだろう。

「あれ、だね」
 ――何してんだ、アイツ。
 この後キッチンって言ってたろ。なんで踊ってんの?
 混乱する五条に気付いているのかいないのか、梓紗は実に楽しそうに踊っている。恋の歌だというジャズにのせて、時に幸せそうに、時に嬉しそうに。梓紗とは十年来の友人だったが、五条の前では一度たりともそんな表情を見せたことはなかった。
 舞台上の彼女が何だか輝いて見えるのは照明のせいか、衣装のせいか。はたまた――
 カツカツ。
 舞台上から客席に降りてきた梓紗が、五条のテーブルに近づいてきた。ソファの背に凭れかかって科を作る。
「シャル・ウィ・ダンス?」
 艶っぽく囁きながら梓紗は手を差し伸べる。五条は迷うことなく、サテンのロンググローブに包まれた手を取った。

「マジで何してんの、オマエ。っていうか僕、踊れないんだけど」
 五条は舞台上に導かれながら、喧しい小声で梓紗に訴えかけた。
「緊急事態。私が合わせるから、センターで適当にポーズ取って見得切ってて」
 梓紗は眉一つ動かさずに五条の訴えを一蹴する。舞台に戻ってバンドに曲を伝えると、ぴったりと五条に体を寄せてポーズを取った。
 流れてきたのは暑苦しいムーディーな曲。梓紗は五条を挑発するように、ステップを踏む。曲も始まったし、梓紗も完全に“入り切って”いる。五条は諦めて、音楽に合わせて体を動かした。
「それで、緊急事態ってどういうこと?」
 梓紗に合わせてポーズを取りながら五条は問う。
「今日“プロデューサー”が来てる。バックヤードで揉めてんの聞いちゃった」
「顔は? 見られた?」
「トンチキサングラスかけてたから顔は割れてないけど、身長でバレるかも」
 尾びれを翻して梓紗がターンをすれば、五条も追いかけるようにターンをする。
「相手はどんな格好?」
 五条は梓紗の腕を掴んで抱き寄せる。
「頭にネジがぶっ刺さってるフランケン野郎。私から見て七時の方向」
 梓紗はタイミングよく右脚を五条の腰に巻きつけ、大きく上体を反らせた。五条は客席をぐるりと見渡す。果たしてその男はいた。梓紗を見ながら何かを隣の男と話している。
 ふと、他の観客たちが黒の網タイツに包まれた梓紗の脚に釘付けになっていることに気付く。五条の胸に得も言われぬ靄が広がり、思わず自分の体で梓紗の体を隠した。

「この曲終わったら、ゆきちゃんに更衣室に来るように言って。外に連れ出す」
「分かった。じゃあ車回すように連絡する」
「車が着くまではそっちで気にかけてあげて。不安だろうから」
「……何か企んでる?」
 梓紗は五条の周りでステップを踏みながら、すっぽりと腕の中に納まる。思いがけず梓紗をバックハグした五条の視線は家の中に迷い込んだ虫よりも激しく動き回った。
「懐に飛び込むつもり」
「なっ!? そんなの危険すぎんだろ」
「分かってる。GPS付けてるから、それ辿って助けに来てよね」
「でも――」
「頼りにしてるよ」
 梓紗はそれだけ囁くと、再び五条と向かい合う。ニヤリと笑って五条の両手をしっかり掴み、床を滑るようにして、五条の両脚の間に滑り込んだ。そのまま脚に手を滑らせ腰に抱きつくと、ちょうど曲が終わった。客席からは歓声と共に下品な野次が飛んでくる。
 梓紗は涼やかな顔でお辞儀をすると、呪詛師がいるあたりに向かって投げキッスをして、控室へと戻っていった。あまりにも大胆で挑発的な行動に、五条は嫌な汗をかく。

 自分の席に戻ると、ゆきちゃんは興奮した様子で五条に話しかけた。しかし五条はそれには答えず、スマホで伊地知に連絡を取る。その様子にただならぬものを感じ取ったのか、ゆきちゃんは口を噤んだ。
「ごめんね、ちょっと仕事に動きがあったから」
 ゆきちゃんの表情が強張る。五条はスマホに文字を打ち込み、ゆきちゃんに見せた。
「僕、そろそろ出ないといけないんだ。また会える?」
『アイツが来店してるらしい。万が一があったらいけないから、今日はもう帰った方が良い。店には僕の友達から話を通しとくから』
「はい。そしたら連絡先、交換しましょ」
「いいよ。ちょっと待っててね」
『まずは更衣室で僕の友達に会ってきて。店を出るまでは彼女がエスコートする。裏口で落ち合おう。いつも通り、普通にしてて』
 ゆきちゃんもスマホを取り出し、メッセージを打ち込んだ。
『お友達は大丈夫なんですか?』
『大丈夫。彼女、ああ見えてすっごく強いから。戦車と戦っても勝てるよ』
 五条のメッセージに、ゆきちゃんは思わず吹き出してしまった。それによって緊張が緩んだのだろう。少しだけ表情が緩んだ。

「そうだ、気になってたことがあるんですけど聞いても良いですか?」
「良いよ」
「あのお友達、ゴジョールさんの彼女さんですか?」
 思わぬ質問に、五条は目をぱちくりさせる。
「……何でそう思うの?」
「だって踊ってる彼女さんに見惚れてたじゃないですか。それにいきなりだったのに息ぴったりですし」
 こんな時にすみません、と彼女は頭を下げる。
 五条はにっこりと笑う。
「違うよ。今はまだ、ね」
 その返答に、彼女は小さく悲鳴を上げて口元を両手で覆った。あざと可愛い。
「頑張ってくださいね! 私、応援してます」
「ありがと。じゃあ、サクッと移動しようか。早くしないと彼女が暴れ出しちゃう」
 ゆきちゃんはペコリと頭を下げて、足早に控室へと入っていった。

◇ ◇ ◇

 バシャリ。
 冷たい水がかかる感覚と刺すような全身の痛みに、梓紗の意識が浮上する。最初に梓紗の視界に飛び込んできたのはユラユラと揺れる自分の足と、朱く汚れたマリンルックのワンピースの裾。顔を上げると、どうやらそこはガレージのようだった。
 ――何があったんだっけか。
 ゆきちゃんを五条に預けて、店から脱出させて、制服に着替えて。それで更衣室出たところで……
 そうだ。それで頭から布被せられて、ここに連れてこられたんだった。手首を鎖で拘束されて宙づりにされて尋問されて、気絶してたのか。手首すっげぇヒリヒリする。やだなぁ。早く五条来てくんねぇかな。GPS壊れたかな。そら壊れるか。さっきから鉄パイプで殴られっぱなしだもんな。

「仲間の人数は?」
 いかにも三下といった風体の男が、鉄パイプをガリガリと引きずりながら梓紗に詰め寄る。他の部下たちも各々持っている武器を見せつけるように二人を取り囲んで見物していた。フランケン野郎こと、ターゲットの呪詛師はというと少し離れたところで音楽を聞きながら楽しそうに体を動かしていた。
「あんまりソワソワしないでぇ。あなたはいつでっ! ぐっ!」
 鉄パイプが背中に打ち付けられ、鈍い音と呻き声がガレージに反響する。
「その舌、引っこ抜かれてぇか!? ああ?」
「やめなさい」
 大声で威嚇する部下を、呪詛師が制止する。鉄パイプ男は何か言いたげに口を開いたが、呪詛師の一睨みで悔しそうに口を閉じた。

「先ほどのステージを見たが、君には素晴らしい才能がある」
「お褒めに預かり光栄です、なんて言うと思ったか? フランケン野郎」
「その気の強さ、一般人を逃がして懐に飛び込もうとする度胸と判断力。これを失うと思うと残念でならないよ」
 すり、と梓紗の腰のあたりを呪詛師が撫でる。
「答える気は?」
「耳を削ぎ落されても嫌だね」
「心外だな。そんな野蛮なことはしない」
 呪詛師は気持ち悪い笑みを浮かべて、部下に脚立を持ってくるように指示をする。
「君の才能と精神に敬意を表して、特別に私の“商品”を無料で体験させてあげよう」
「……そんなもん要らねぇわ」
 この事態に、さすがの梓紗も焦り始めた。体を鍛えることはできても、脳を鍛えることはできない。資料として見せられた患者の写真が頭を過った。良くない方向に転がっている。
「遠慮するな。相当気持ちいいらしいぞ」
 カン、カン、と軽やかな音を立てながら、呪詛師が脚立を上る。
 梓紗は脚立を蹴り倒そうと、鎖を掴んで体をスイングさせるが、あと一歩届かない。逆に、暴れたせいで呪詛師の部下に羽交い締めにされてしまった。
 ――ヤバい。どうする? 考えろ考えろ考えろ。
 迫りくる呪詛師の掌を前に、梓紗は脳味噌をフル回転させた。
 あと三十センチ、二十センチ、十センチ……
 その時だった。
 遠くで男たちが言い争う声と爆発音が聞こえてきた。そして帳がガレージ全体を包み込む。一瞬の静寂が訪れた。
 すっかり存在を忘れられてた音楽プレーヤーからお馴染みの音楽が流れる。
「What a wonderful world…」
 梓紗は音楽に合わせて呟いたが、誰も気に留める人は居なかった。

 耳障りな音を立てて、ガレージの天井に穴が開く。そして梓紗の目の前に五条が降り立った。肩に担いでいるのは梓紗が愛してやまないサバゲー用のライフル銃である。
「遅いわ」
「何捕まってんの。だっさ」
 二発。五条は術式を放った。
 一発は呪詛師と脚立を吹き飛ばした。一発は梓紗の鎖を断ち切る。梓紗は落下の勢いを利用して、羽交い締めにしていた男を床に叩きつけた。ガレージの中は蜂の巣をつついたような大騒ぎである。
 五条は、親の仇のように男を蹴り続ける梓紗を制止し、きつく抱きしめた。
「無事で良かった」
「……ごめん。調子乗ったわ」
「ほんとだよ。僕が来なかったらどうするつもりだったのさ」
「考えてない。五条は絶対に来るって信じてたし」
「何それ。もはや愛じゃん」
「そうだけど、何か問題でもある?」

 茶化したつもりが涼やかな顔で返り討ちにされ、五条は頭をがしがしとかきむしる。
「ああもう。梓紗、帰ったらタイキック」
「ちょっとぉ! 私、怪我人なんですけど!」
「アドレナリンどばどばじゃん。大丈夫でしょ」
 五条は担いでいた銃を手渡す。
「まぁね」
 梓紗は受け取った銃を構えて、実に悪そうな顔をした。五条もつられて悪い笑みを浮かべる。
「ルールは?」
「殺さない。気絶させるだけ。薬瓶は粉砕」
「よし。それじゃあ、いっちょやりますか」

◇ ◇ ◇

「それでそれで?」
 野薔薇は目をキラキラさせながら続きを促す。
「実はちょっと記憶が抜け落ちてんだよね。笑いながら薬瓶を粉砕したところまでは覚えてんだけど」
「そりゃあ、梓紗あのあと気絶したんだもん。覚えてるわけないよ」
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね」
 梓紗は塩レモンだれをたっぷり絡ませた牛タンを口に入れた。
「それにしても映画みたい。窮地に陥った巽さんを先生が助けにきて、そこで告白だなんて……」
「あー、それなんだけどね。そのあと揉めたのよ」
 気まずそうに話す梓紗。生徒たちはきょとんとしている。今の話の流れで揉める要素なんてあっただろうか。

「ひどいんだよ。梓紗、『愛は愛でも、同期愛のつもりだった』とか言っちゃってさぁ」
「それはひどい」
「ああ、ちょっとそれは無いっすね」
「さすがの私もフォローできないわ」
「うぇーん。一年生が冷たい」
 一年生たちにリズミカルに否定され、梓紗は隣に座る五条に泣きつく。けれど梓紗が五条の皿からカルビを奪い取ったのを伏黒は見逃さなかった。
「その流れでそれはどう考えても告白ですよ! その気もないのになんでそんなこと言っちゃったんですか」
「仕方ないじゃん。めっちゃハイになってたんだもん。なんかカッコいいこと言いたくなっちゃったんだもん」
「僕、すっごく傷ついたんだよ? 僕のガラスのハートは粉々に砕け散って砂になったんだよ」
「ガラスはガラスでも強化ガラスでしょ。いいじゃん。最終的には夫婦になったんだし」
「まぁね。終わり良ければ総て良し、だからね」
 二人は顔を見合わせ、互いの手を重ね合わせる。そこに色っぽさはなく、友人同士のスキンシップに見えるのだから不思議だ。
 こういう関係もアリなのか。伏黒はナムルを摘まみながら二人を見つめた。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!